友 断 ち
05
翌日、確実にわたしと蓮の関係は変化を見せていた。
「おはよう、一子」
「おっ! お、おおおおおおはよう!」
「動揺しすぎ」
朝通学路で会えばわたしはいちいち動揺し、蓮は笑うようになって抵抗もなくわたしに触れることも増えた。
今まではいっくんに比べるとスキンシップなんてしない派だったのに……。笑顔だって、不意に見せるものくらいしか知らないはずだ。なのに今じゃ、ちょっと挨拶をするだけでもふわりと笑顔を浮かべたりする。
心臓に悪すぎる展開に昨日の出来事が全部現実だったんだと思うと、恥ずかしくてたまらない。
……まだわたしは、近くから聞こえていた蓮の声や伝わってくる体温と心音がこびりついて離れなかったんだ。
「おやおや、お二人さん。朝からお熱いことで」
背後から第三者の声が聞こえ、反射的に振り返ろうと声の主へと無意識に視線を移すのに……。
「おりゃ!」
「うわあっ!」
容赦なく彼からの締め付けの攻撃を受ける羽目となった。
わたしにこんなことをする人間は知っている中で一人しかおらず、顔を見なくたって誰だかわかる。
「うぐっ……ぐるじい……」
女にだって容赦のないいっくんの身体を固めてくる攻撃は、朝から受けるにはちょっときつい。
「おい、紘哉」
今の状況で救ってくれると思った蓮は、ほんの少し怖い顔をしていっくんを睨み付けているようだった。
「おやおや、蓮くん。ヤキモチですかな?」
挑発的な発言と表情に、
「お前こそ、仲間はずれ食らって寂しいだけのくせに?」
いとも簡単に乗っかってくる蓮。
薄っすらと火花が見えるような雰囲気で、わたしは痛みを感じながら頭を抱えたくなった。
「とっ……とりあえず……解放してください……」
「おお、悪い悪い」
「ぐぅ……」
更に力を加えられ、わたしは何だこの状況は……と頭が痛くなっていく。
言動と行動が一致しないこの状況を疑問に思いながら、最終的に蓮によって引き剥がされて九死に一生を得た。
「いっくん……マジ……死ぬかと思ったんですけど……」
朝から心臓に悪い出来事が起こり続けていて、まだ学校にさえ辿り着いていないのにげっそりしてしまう。
「いい加減一子に本気出すのやめろ。一応女の子なんだから」
「えっ、女の子?」
こういう時、今までもずっと蓮が助け舟を出してくれていた。こうやって気付いた時には助けてくれていたのだと、当たり前のことを改めて噛み締めた。
……まあ、全部爆笑しながら失礼なことを口にするいっくんによって台無しにされてしまうわけだけど……(だから蓮への感謝の気持ちがいっくんの怒りでかき消されてしまうんだろう)(マジいっくん憎い)。
「ねぇ、いっくん。ちょっと両手広げてみて」
思いついたように、わたしは一つお願いを口にした。それはある意味、仕返しのようなものなのかもしれない。だけどそれとは別に、もう一つ気になることがあった。
さっきいっくんに触れられたけれど、あれはもうときめくどころの状況ではなく、昨日の蓮と比べるのもおこがましい。
ただ、今のわたしは触れられたことに対してときめくことがなかったことが、無性に気になっていた。
「は? さてはお前、何か企んでるな? くすぐって仕返ししようって魂胆だろ?」
さすがに突拍子もない提案なだけに、怪訝な表情は隠せないようだった。
じと目でわたしを怪しみつつ、それでも負けじとお願いの眼差しを向け続ける。
ちらりと横目で蓮を見れば、明らかに呆れているような顔でわたしたちを見守っているように見えた。
「……あんま変なことすんなよ?」
根負けしたのはいっくんの方で、わたしのリクエスト通り両手を広げてわたしの前に立っている。
普通のわたしだったら、きっと思惑通りくすぐって仕返しをしてやりたいと思う。
だけど残念ながら、わたしの日常は少しずつでも変化してしまった。
「えいっ!」
容赦なく、躊躇いもなく。
「うわっ!?」
わたしはいっくんの胸の中に飛び込んでやった。
自分よりも大きな身体は、蓮のものとはまた少し違うような感じがする。でも、昨日のように心臓が爆発しそうなことは……今の冷静な自分を見れば気配すら感じないことは分かる。
……昨日はあんなに心音の速さが酷くて、全身が熱くて、頭の中だってこんなことをゆっくり考える余裕なんてなかった。
やっぱり同じ状況を作らなければ比べることさえできないのだろうか?
「い、いいいい一子、さん? 何やってんの! てか、軽々しく男の胸の中に飛び込むんじゃ……おい、てか離れろ! そこの怖い顔した人に殺されるから! 視線で殺されるから!」
冷静に昨日のことを思い出しつつ分析していたら、今まで一緒に過ごしてきた中で一番動揺しているいっくんがそこにいた。ただくすぐるよりも効果があるこの状況に「ざまあみろ」と心の中だけで留める。
それからちらりと蓮の方へと視線を向けると、トラウマを呼び起こしそうなほどに恐ろしい表情を浮かべていて、恐怖と冷たい視線に耐え切れずに大人しくいっくんから離れた。
「はあ。蓮の嫉妬で殺されるかと思った。お前の仕返し怖すぎるって……。一子との付き合い方改めよう」
「ごめんー!」
心底ホッとしたような表情で相変わらずからかいの姿勢を変えないいっくんに、わたしも心の篭っていないような謝罪を口にする。
わたしの目的は果たせたので、もう二度とこんなドッキリはしないことだろう。
「……一子は、紘哉の方が好きってことですか」
問題は、静かに怒りで満ち溢れている蓮の方だ。
そりゃあ昨日告白して、時間をくれとお預け状態を食らっている最中にこんな意味不明の状況になって、自分以外の男に抱きついてるとか……おちょくるにしても限度を超えていると思うだろう。
ああ、せめて蓮のいない時にすればよかった。
後悔したとしても全てが遅くて、わたしは小さく溜息を零す。
「……えっと、あの。どうしても確かめてみたくて、つい」
今更どうこう言って解決する問題かどうかは分からない。
最終的にわたしが恥ずかしくて死んでしまう結末が来るかもしれない。
むしろこれは蓮を更に誤解へと追い込みそうな……ものになるかもしれない。
一つ息を呑んで、覚悟を固めていく。
不機嫌な蓮も興味津々ないっくんもわたしを好奇の目で見つめたままで、その期待に応えないわけにもいかないのだと……自分自身にそう言い聞かせ、逃げ道を消した。
「いっくんには何も感じなかったよ! ときめきもしなかった!」
……我ながらとんでもないことを叫んだと思う。
「うわっ! ひどっ! 人のこと弄んでおいてそれ!?」
あちゃーと大袈裟なリアクションをするいっくんは、ショックよりは面白いと言いたげな表情で爆笑していた。
蓮は蓮で目を丸くさせたまま固まっていて、やっぱりおかしなことをしてしまったのだと溜息をつきたくなる。
「俺フラれたなー。じゃあ蓮ならいいんだ?」
悪戯心いっぱいでニヤついているいっくんに、さっきまで存在していたはずの冷静さは少しずつ奪われていく。そしてどんどん顔が熱くなっていき、頭の中は真っ白になり始めた。
こうやってからかわれることなんて、確か日常茶飯事並みに何度もあったはずなのに……。
それでも冷静でいられないのはきっと……全部全部、昨日のせいだ。
「おま……それは、期待していいってこと?」
「うわっ! 何この状況! お前らやっぱそういう……?」
真赤な顔をして黙り込んでいたはずの蓮さえもいっくん側に回る形となってしまい、予想通り追い込まれてしまうわたしは口をパクパクさせたままだ。
人通りが少ないわけじゃない通学路で、堂々と男に飛びつくのだ。そりゃあ、納得のいく理由がなければこのままからかわれるだろう。
いや……多分何を言ったって、からかわれることは確定だ。
不意をつかれて動揺してしまったいっくんが、こんな状況を放っておくわけがない。
つまり、仕返しをしたところでわたしに勝ち目などなかったわけだ。
「……ちょ、ちょっと……オレ、先行く」
「えっ! 蓮!」
「見るな、追うな、気にするな」
二人に対してろくにツッコミを入れることさえ叶わぬまま、蓮は真赤な顔をしたまま去っていく。
その去り際さえも何も言えなくて、わたしにできることは蓮の背中を見送ることだけだった。
「すっげー照れてるねあれは」
残されたいっくんが同じく蓮の背中を見送りながらけらけらと笑い、その言葉で記憶に残っている真赤な顔を思い出す。
「間違いなくお前が言ったことで照れてるな」
釘を刺すようにわたしへの攻撃も忘れず、いっくんの表情は実に楽しそうで生き生きしていた。
「……わたしの、か」
そこでまた、蓮の想いを垣間見ることになってしまった。
昨日のことは夢や幻かもしれない。
何度か自分をごまかそうにも、蓮を思い出せばそんな妄想が幻想であることを思い知らされる。
わたしだけがおかしいならいいけれど、蓮の想いが前よりも格段に分かるようになってしまった。
それは、夢でも幻でもないと痛感させられる。
「昨日何か話した? まあ話したからこそお前らが一緒にいるわけだが」
二人になってようやく、話しづらい話題に入ることができたのだろうか?
さっきまでの悪戯心丸出しの表情とは違って、頼れる兄貴分の表情に変化させながらいっくんは問いかけた。
正直どこまで話していいのか分からないけれど、既にいろんなことをぶちまけた後だ。
変にごまかそうとしたって、逆にバレるだけなのも分かっている(わたしが嘘をつけないタイプだからだろうけれど)。
「……蓮から、友達をやめたい理由、聞いたよ」
立ち止まったままでも学校を遅刻するので、遅刻しない程度にゆっくりと歩きながら昨日の話をありのままに話した。
いっくんはひたすらからかってくることは分かっているものの、場合によっては真剣に聞いてくれるし、周りに言いふらすようなこともしない。
信頼できる友人の一人だからこそ、できるだけ隠さずに話をした。
ありのままに話をしてみると、わたしのごちゃごちゃとした脳内が少しだけクリアになったような気がした。おかげで、気持ちがふわりと軽くなったかのような錯覚に陥る。
「あのヘタ蓮がそこまでやるとは思わなかった……」
いっくんが話を聞き終えての感想・第一声がそれで、わたしは思わず苦笑した。
「でももっと予想外なのは、お前が蓮のペースに乗せられてることだ。絶対お前は恋愛って気付かないまま蓮に溜息つかれて呆れられるパターンだと思うし」
「ひどっ! わたしだってそれなりに分かるよ!」
「えっ」
まだ悪戯心は全部消えたわけではないようで、大袈裟に引くようなリアクションは健在だ。
わたしはわたしで剥きになって反応してしまうし、どちらもまだ真剣モードには足りない。
「でも、よかったんじゃね? 蓮も一目惚れからここまで辿り着けて嬉しいだろ」
穏やかで優しい表情を見ながら、またしてもとんでもないことを言われているのでは……という感覚が生まれる。
「え?」
とあるワードに引っかかったわたしは、思わず立ち止まって固まってしまう。
もう一度頼む、という表情と視線でいっくんを見つめると、わたしの想いを理解したかのように次の話をしてくれた。
「蓮はさ、一子に話しかけられてからずっと好きだったんだよ。まあその時気付いてたかどうかは分からないけど、俺は全部見てたから……分かるよ」
「何で全部見てたの?」
「ん? だってあの蓮が女の子と一対一で話してるなんて面白いじゃん。人見知りなところもあるし、愛想ないし。ま、そういう怖いもの知らずな一子を見てるのも結構面白かったぜ? そんなヤツが友達になるとは思わなかったけど」
懐かしむようにあの頃を思い出しながら話している姿を見ながら、あまりにも知らない情報にひたすら驚いた。
わたしが気付かない間に、いっくんはわたしのことだって分かってたのか。
初めて会話した時はそんな素振りを一切見せなかったために、何も気付かず疑うことさえなかった。
本当に、わたしには知らないことが多すぎる。
友達なのにまだまだ新しい発見や知らないことがあって、それがものすごい衝撃となっていた。
「あと卵焼きのことも知ってるか?」
スッキリしたはずの脳内は新たな情報でいっぱいとなり、少ない脳みそでは処理しきれないほどになりつつあった。
更にとんでも情報を持ち込んできたいっくんは、これもやっぱり懐かしそうな表情で話し始める。
……わたしに余裕がないことなんて、多分きっと気付いていない。
「お前はいつも蓮の弁当の卵焼き食ってるよな? んで、『蓮の家の卵焼きおいしいー』って無邪気に食ってたよな?」
「え、あ、うん。気付けばついつい食べてしまうんですねぇ……。あれ食べないとお昼ご飯食べたって気がしない」
「病気だぞお前」
我ながらとんでもなく図々しいことをしているな。自分で言葉にしてみると、その図々しさを自覚することができる。
思い返せば目に付いたらすぐに手が伸びていたような気がして、一体どれくらいの頻度で食べているのか思い出そうにも思い出せない。
いっくんの呆れた表情に反論できないまま、わたしは顔を俯けて黙り込むことしかできなかった。
「普通さ、あんだけ人のおかず食われたら怒らねーか? こいつ何様のつもりだよって感じしねー?」
「そ……ソウデスネ」
思い出せば思い出すほどいたたまれなくなり、思わず口調もカタコトになってしまっていた。恥ずかしいのと申し訳ないのとで顔も上げられない。
「でも、蓮は怒らなかった。何でか分かるか?」
いっくんの問いかけに、わたしは首を横に振ることしかできない。
確かに蓮は、卵焼きを勝手に食べても怒らなかった。だからこそ、怒らないからわたしはついつい食べてしまっていたんだ。
ふわふわで甘くて美味しい卵焼き。
思い出すだけで涎が出てきそうで、今猛烈に卵焼きが食べたいとさえ思う。
「怒らないのはな、卵焼きを作ってるのが蓮だからだよ」
そうして答えは、またしてもわたしの予想を超えるようなものだった。
「えっ! 蓮が作ってたの! あのお弁当」
思わず叫ぶように反応してしまい、それがまた恥ずかしさへと変わっていく。
小さく「ごめん」と謝ると、またしても恥ずかしさで身体が縮こまるような気分になった。
そういうわたしが面白かったのか、いっくんはぷっと噴出して笑いながらわたしへの説明を始めてくれる。
「いや、卵焼きだけ。最近料理始めたって言ってて、卵焼きはなんとか弁当に入れられるくらいになったから入れてみたんだと。んで持っていった初日からお前が食ってだな」
「う……そ、そんなことが……」
初日から図々しい自分がおかしくて、心の中で笑い飛ばした。
自棄になりつつわたしは「過ぎたことはしょうがない」と半ば諦めがちだ。
「でもそれがよかったんだと。お前がおいしいって無邪気に食うから、逆に蓮はすごく嬉しがってた。だから毎日一子につまみ食いさせるために卵焼きを作って入れてたんだと。怒りどころか逆に感謝してたくらいさ」
にこりと穏やかな表情を浮かべてくれるのと安心できるような話を聞かせてくれて、ようやく安堵することができた。
いっくんはそんなわたしを見て、くしゃりと頭を撫でてくれる。
「蓮にちゃんと礼を言っとけよ。そしたらアイツ、もっと頑張れると思うからさ」
「うん。そうする」
ようやく笑みを浮かべる程度の余裕が生まれ、小さくはにかみながら返事をする。
「あと、あんまり蓮の寿命を縮めるようなことすんなよな? まあ幸せで死にそうになってるかもしれないけど」
からかうようにもう一つ釘を刺され、いっくんはそのままわたしを置いて先に歩いて行った。
背中を見つめながら、小さく小さく感謝を呟く。
「……ありがと」
届かず消えていく言葉はいつか必ず伝えよう。
心のどこかで一つ決心を固めながら、わたしも慌てて学校へと駆けて行った。
Copyright (c) 2013 Ayane Haduki All rights reserved. (2013.05.05 発行 / 2017.04.06 UP)