図書室の住人

49.図書室の住人

 図書室で出会ったわたしたちだから、ここに帰ってくるのもどこか必然のように感じる。
 しみじみそう感じたのは、図書室の扉の前に立った時だ。一度深呼吸をしてから、ゆっくりと扉を開く。人がいてもいなくても、ここで大きな音を立てるのはやっぱり気が引けるものだ。そっと、極力音をたてないように細心の注意を払った。
 開いた先にすぐ目に飛び込んだカウンターには、見慣れた人物が座っている。どんなに注意して開いても、それ以上に静かな室内には大きく響いてしまうものだ。一瞬室内の人間の視線がわたしに集中したが、すぐに何でもないとそれぞれ視線を戻した。
 その中でひとりだけ、カウンターにいる人物だけは、じっとわたしを見つめ続けている。

「先輩」

 優しい声色、久しぶりに見る顔にドキッとしながら、わたしは扉を閉めて榊くんの傍まで歩いていく。カウンターを挟んで向き合うと、ドキドキにあっという間に飲み込まれてしまった。
「すみません……遅くなってしまって」
 そんな平常心を忘れたわたしに構うことなく、榊くんは最初に謝罪した。遅くなったのはこの場合わたしかもしれない。だけど彼が言うのは、もっと違うことだろう。
「あ、いや……」
 どんな顔をしていいのか分からず、曖昧な返事しかできない。
 落ち着かずちらりと周りを見渡すと、今日はやけに人がたくさんいるように感じた。察するに、夏休みの宿題だろう。
「先輩、行きましょう」
 ぼやぼやしているうちに、いつの間にか榊くんは入り口近くにある準備室の扉の前に移動していた。理由が分からず、思わず首を傾げる。それでも榊くんは扉を開いて手招きしているし、いつまでも突っ立っているわけにはいかない。
 ごくりと一度生唾を飲み、緊張しながら榊くんの後を追った。

 そこは一度も足を踏み入れたことのない……図書室の裏側。一般の生徒であるわたしが来ることなどない場所だ。
 広々とした図書室とは違い、かなり狭く感じるこの場所は、また別の魅力を感じる……ような気がする。
「あの、入っていいの?」
 先程抱いた疑問を控えめな声でぶつける。
「はい。少し手伝うことを条件に、ちょっとの間借りました。さっきまで頑張ったんで、その……返事をする、くらいなら」
 意外にもきちんと考えてここを使っているらしい。
 しかし、よくよく考えたらここじゃなくても返事はできるんじゃないか? と思ってしまった。
「えっと……なんでわざわざ図書室で……」
 今度はすらっと流れるように零れ落ちた問いに、ほぼ即答で榊くんは答える。
「オレがここで言いたかったんです」
 もう少しいろいろと聞こうと思ったところで、わたしの言葉はのどに詰まったかのような感覚に陥った。
 さっきまで涼しい顔をしていた榊くんが、あっという間にゆでだこのように顔を赤く染めてしまったからかもしれない。
「そ……そっか」
 これ以上何も言えず、わたしはすっかり聞く側としての体勢を整えていく。ここでの時間ですべて決まってしまうのだ。そう思うと、もう口を開く余裕さえなくなってしまう。
 わたしが黙ると静寂が舞い戻り、自分の鼓動だけがうるさく鳴り響いているように感じた。それはもう、目の前にいるこの人にだって聞こえてしまいそうなほどに。


「ここでオレ、いつも寝てました」
 だけどすぐに、その静寂は破られる。
 その言葉の意味を最初はよく分からずにいたけれど、すぐに最初の頃の榊くんのことだと気付いた。
 懐かしそうに窓の近くにある机に触れ、次の言葉を紡いでいく。
「息苦しい教室から逃げるようにここに来て、本を読むこともなく『オレは何やってんだろ』って思いながら、寝てました」
 思い出すのは、寝起きの様子で準備室から出ていたサボり魔図書委員の姿。それから、一番最初に榊くんと会話をした時のこと。
 香澄先輩を探していた彼に手を差し伸べたあの日。ひとりになりたくなくて、人気者を演じていると話していた榊くんはとても寂しそうで、何かしてあげたらと思っていた。
 あれからわたしたちは、随分遠くに来た気がする。
「でも、立花先輩と香澄先輩がいてくれたから、高校生になってからいつも放課後が楽しみで……ほんとにオレ、嬉しかったんです。ありがとうございます」
 笑顔で話す姿に、不覚にも感動してしまいそうだった。
 わたしだってあの頃は、同じく日常が変わり始めた頃で、榊くんと同じことを思っている。
「わたしも、榊くんと香澄先輩のおかげで……毎日楽しいよ」
 素直にそう伝えると、榊くんは可愛らしくはにかんだ。
 告白の返事を聞きに来たはずなのに、思わぬ方向でお互い照れ笑いをしている。
 でも、榊くんも同じことを考えてくれていたことは、やっぱり嬉しかった。一緒にここまで歩いてきたようなものだからかもしれない。
「あと……その。好きだって言ってくれて……死ぬほど嬉しかったです」
 しかし、ほんの少し油断した途端、不意を突くように本題を持ち出してきた。心臓が跳ねたのか、どくんと大きく鳴り響いて、取り戻しかけた平常心が崩れ落ちていく。
「う、うん……」
 恥ずかしくなって、わたしは小さく俯いてしまった。
 期待していてと言っていたから、変にネガティブにならずにこれたと思う。けれど、どうしたって緊張は解けない。とはいえ、準備室にいられる時間は限られていて、もたもたしている暇もない。


「オレもずっと、立花先輩が好きでした」


 耳に入ってきた言葉に、思わず顔を上げる。
 期待通りの、わたしがずっと欲しかった言葉を、榊くんはあっさりと言ってのけた。あまりにもあっさりすぎて、ちゃんと返事をもらえたのかと疑ってしまいそうになる。
「先を越されたことが心残りですけど……好きになったのはオレの方がずっと先ですから」
 でも、そんなわたしの疑問も構うことなく、ちょっとだけ悔しそうにそう言った。
 真っ赤に染まったその色は、もはや夕焼けでもなんでもない。でもその表情は嬉しそうで、晴れ晴れとした今日の空に似ている。
「いつから?」
 無意識のうちに、ちょっと間の抜けた声で榊くんに尋ねていた。
「……いつからでしょうね」
 困ったように笑いながら、首のあたりに手を添える。少しの沈黙が、彼の想いは曖昧な始まりだったのだと物語っていることに、この後気が付くことになる。
「香澄先輩が好きかって先輩に聞いた時かもしれませんし、その前にやった初めての勉強会だったかもしれません。初めて先輩と喋った時とか……もしかしたら、一目惚れだったのかも」
 わたしにとってその答えは、本来納得のいくものではないかもしれない。
 けれど、何となく共感できて、一緒に笑った。わたしも思えば、どこが始まりだったのかが曖昧かもしれない。恋愛というものを意識したのは間違いなく香澄先輩について問われた時だろうけれど……。多分、いつも榊くんの頬が赤かった原因は、きっとここに繋がっているのかもしれないと思った。


「先輩」
 改まって呼ばれて意識を戻すと、榊くんは一冊の文庫本を差し出していた。最初見覚えがないと首を傾げそうになったけれど、すぐに思い当たる記憶にぶつかる。
 青い表紙の文庫本……まだ読んだことのない一冊……それは、榊くんに借りる約束をしていたものだ。三人で行った嵯峨野さんのお店で、榊くん自身が選んで買ったもの。たまたまわたしも香澄先輩も読んだことのない本だった。
「どうしても、これを早く渡したかったんです」
 榊くんは小さくはにかみながら、そう言った。
 そういえば、いつだったか読むのは遅いんだと話していたことがあったっけ。前にわたしが貸した本も、一か月近くかけて読んだと言っていた。
「これを読み終わらせたら、先輩にちゃんと言おうって……カッコ悪いですかね」
 どうやら、わたしへの返事に時間がかかっていた理由はこの本にあったようだ。勿論、図書室で言いたかったこともあるんだろうけれど。
「はは……気持ちは決まってたのに、夢を見ているみたいで……自分を落ち着かせてから、ちゃんと言いたかったんです。オレの都合ですみません」
 申し訳なさそうに弁解する榊くんから、ようやく差し出された文庫本を受け取る。
「ありがとう」
 普通の文庫本が妙に愛おしく感じ、わたしは宝物のように大事に抱きしめた。
「あの、先輩……」
 困ったように笑っていた表情に緊張が混じり、それが伝染してわたしも少し身構える。さっきからこのパターンが多いな。呼ばれて、驚くような展開の連続で。でも、今日は榊くんの想いを受け止めにここまで来たのだ。まだまだわたしは、受け止められる。

「……もう一回、その……好きって、言ってくれませんか」

 それから一瞬、意識が飛んだ。
 いくら構えていたとはいえ、予想の遥か上を超えていってしまったせいかもしれない。
「えっ」
 思わず声が漏れると、一時的に堰きとめられていた感情が一気に流れ込んできて、あっという間に挙動不審になってしまった。
 きょろきょろと視線を泳がせ、恥ずかしさのあまりすっかり榊くんと目を合わせられなくなっている。
「あ、ああ……」
 そんなわたしの反応に、失敗したとでも思ってしまったのだろうか。
「なんか……すみません」
 榊くんは申し訳なさそうに謝罪を始めてしまい、それがまたわたしへと伝染していく。さっきからお互いの感情が伝染しすぎているような……。
 そのことに気づくと、何だか恥ずかしさよりも面白さが上回ってきた。ふと目が合うと、うっかり噴出してしまう。それと同時に、同じ気持ちや感情を共有していることが嬉しくて、身体の中にどんどん温かいものが入り込んでくるような感覚で満たされた。
 夏の暑さとは違う……優しい温かさに、わたしは幸福感を噛みしめる。


「……そろそろ、いいかな?」


 そして乱入したもうひとつの声は、かなり不意打ちだった。
 完全に二人の世界に成り果てた図書室の準備室に、新たな人物が訪れ、恐る恐る声をかけたのだ。
 驚いて反射的に声のする方へと視線を移す。
「香澄先輩!」
 扉をほんの少しだけ開き、こっそりとこちらを覗き込んでいるかのような状態の先輩が入口の方で確認できる。
 今日は八月三十一日、まだ夏休みだ。
 夏休みにも関わらず登校する生徒はわたしたちも含め少なからず存在する。だけど、このタイミングで香澄先輩が現れるのは予想もしていなかった。
 先輩と目が合うとにこりと微笑むだけで、次に榊くんへ視線を向けると、苦虫を噛んだような複雑な表情を浮かべている。
「時間切れですか」
「そういうことかな? 一応学校だし、変に盛り上がる前に止めた方がいいかなーと思って」
「なっ……!」
「あ。でも校外でも責任が取れる範囲で」
「あー! もう先輩は黙っててくださいっ!」
 わたしにはよく分からない二人のやり取りが続いている。楽しそうに……というよりは、先輩にからかわれている後輩の図、と言った方がいいのかもしれない。ただ状況的に考えられるとすれば、榊くんは先輩がここにいる理由を知っているということだ。
「えっと……」
 すっかり置いてけぼりを食らってしまったが、なんとか声を出して追いつくために話に割り込む。
「あれ? 言ってなかったの?」
 わたしの疑問は、おそらく言わずとも伝わったらしい。
「……もう少ししたら、言おうと思ってたんです」
 目を逸らしながらどうしようもない言い訳をぼそぼそと話す榊くんは、少しふてくされたようにそっぽを向いた。
 その様子にわたしと先輩だけが顔を会わせ、小さく微笑む。
「一応、今日は榊くんに呼ばれたんだよ。図書室に集まりたいってね」
 にっこりと簡単に説明してから、
「席、確保できたから早くおいで。図書室、今日も十四時までだし」
 最後にそれだけを言い残して、先輩は一足先に準備室を去っていく。
 すると再び、二人きりの世界に戻ってしまった。
 何も聞かれなかったのは、察していたのか、榊くんから聞いていたのか……。わたしには分からないけれど、どちらにせよ、先輩には改めて話ができたらと思う。
 ……あれだけ相談しておいて、結果を言わないというのも何だかおかしな話だし。

「わたしたちも行こっか」
 ここでの用事は果たされた。そう思ったわたしは、二人だけの世界の終末に駆け出そうとした。
 この扉を開いた先は、大好きな場所に通じている。静かで、たくさんの本に囲まれ、大好きな読書にのめりこめる……癒しの空間。幸せな場所。わたしの生きがい。
 いつしかそこに香澄先輩や榊くんも加わって、もっと大事なところに榊くんだけが追いかけて来てくれた。今この時が終わっても、この先何度だって、二人だけの世界に辿り着くことができる。
 そう思ったら、惜しいとは思わなかったのだ。

「立花先輩」
 背を向ける直前、榊くんに呼ばれて身体を向きなおした。
 さっきまで先輩にいじられて剥きになっていた姿はもうなく、また緊張にすっかり色を変えた表情で話し始める。
「ヘアピン、今日付けて来てくれてありがとうございました」
 改めてなんだろうと思っていたところに、ずしんと嬉しい言葉が降ってきた。
 そういえば、いつもタイミングが悪くて、プレゼントしてくれた張本人にヘアピンを付けているところを見せたことがなかったことを思いだす。
 榊くんのお姉さん……優里さんのプレゼントを買うのに付き合ったあの日、お礼と言われて渡されたそれは、とても可愛らしいヘアピンだった。アンティークっぽい鍵のようなデザインで、上部はハート形になっている。お兄ちゃんからもらった大量のヘアピンとは違い、可愛いけれど少し大人びて見えるそのヘアピンを、わたしはとても気に入っていた。
「可愛いです」
 ただでさえ気付いてくれたことが嬉しくてドキドキしたのに、それ以上の言葉がぐさりとわたしの心を貫いた。
 しかも、言い逃げするつもりなのか、ぺこりと頭をひとつ下げて歩き始めていく。……それだけならよかったのに、隣を横切る瞬間、くしゃりとわたしの頭を撫でてから準備室を後にしたのだ。その時間は数秒だったかもしれない……けれど、わたしにとってはその数秒だけで心臓が沸騰したかのような錯覚に陥ってしまった。

「……ずるい」
 すっかりひとり取り残されてしまったわたしの身には、短時間の間に様々な出来事が起こりすぎて、すべてをきちんと受け止めきれていない。さっきまだいけるって思っていたのに、その余裕はあっさりと奪われてしまったのだ。
 告白の返事にホッとしたのも束の間、早速ドキドキに翻弄されたのだからたまったものではない。ごちゃごちゃと思考がおかしくなっていく。

「待ってよ!」
 だけどそれを無理やり振り払い、わたしも準備室から図書室へ移動する。


 今までわたしの世界はひとりだった。
 そう思っていたところに、いろんな人たちがやってきた。わたしに構ってくれた。優しくしてくれた。頑張ろうって思える勇気をくれた。
 それがどんなに嬉しかったか。
 ……きっとわたしは、忘れない。
 さっきまでのドキドキを味わうのもいいだろう。
 これからもっとたくさんのドキドキを、彼と共に感じていく日々が待っているに違いない。

 でも今は、早く二人に追いつきたかった。
 先に行って待っていてくれる、あの二人の元へ。



 図書室は昼食の時間帯ということもあり、先程よりも人がまばらになっていた。その中で、香澄先輩が静かにジェスチャーだけでわたしを呼んでいる。
『ここにいるよ、おいで』と言わんばかりに。
 わたしも榊くんもそうやって手招きする先輩に引き寄せられて、友達になったんだった。
 学年も性別も違う。
 ただ共通するのは、毎日のように放課後図書室に居座る……住人であること。

「久しぶりだね」
 先輩がそう言って笑うと、わたしたちは釣られて笑顔を浮かべながら小さく頷いた。それから三人は席に着き、それぞれが持参した自分の本のページを捲る。



 そう……これがわたしたち、図書室の住人だった。
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