図書室の住人

48.夏休み後半と、例のあの日。

 その後の夏休みについては、ダイジェストでお届けしよう。


 理由は簡単で、何か変わったことが起こらなかったからだ。
 みんなと都合が合わず、久しぶりの読書三昧の日々。宿題も程よく進めていき、夏休み残り一週間というところですべて終わらせた。
 ……お兄ちゃんからの「早く終わらせたら何か本を買ってやる」なんて提案にホイホイ乗っかったのが相当効いたらしい。だけどまあ、これで心置きなく新学期を迎えられる。
 後半はいつもの夏休みだったけれど、それはそれでよかったのかもしれない、と思えば特に後悔することもなかった。学校が始まれば、いくらでもみんなに会える。


 ただひとつ気がかりがあるとすれば……榊くんのことだけだ。


 あれから特別連絡もなく、顔も合わせていない。それは他のみんなと同じだけど、同じにできないほど大事な約束がある。
 毎日いつも通りと思っていた日々の中でひとつだけ……携帯のメールチェックが増えたのが唯一の変化だった。
「……特になし、か」
 予定のない今日、自室のベッドに寝転がりながら携帯を見つめ、大きく溜息をつく。
 まさか、忘れられてしまったんじゃないだろうか。
 それとも、気が変わってしまったとか?
「いやいやいや……」
 いらぬ考えに大きく首を振り、枕を抱きしめながらもうひとつ大きく溜息をつく。
 期待して待っていろと言いながら、その展開はさすがに酷だろう。榊くんの返事の感じからして、多分フラれる……ことは……ないはず。と思っている。
 しかし、彼の言った『夏休みの終わり』はもうすぐそこまで迫っていた。
 あと一週間……その間に会うことなんてできるのだろうか。
 ここまでのわたしは、あまり深く榊くんのことを考えなかった。いや、考えないようにしていた。待つことしかできないし、想像を繰り返しても意味はない。そのうち連絡が来るだろう……そうやって自分をなだめていた。
 ……けれど、わたしの気は収まりそうにない。
 次第に、理不尽とも取れるような怒りを抱くようにさえなっていた。
 答えが決まっているくせに、どうして何も言わないんだ。
 本当にわたしを焦らして楽しんでいるんじゃないだろうか。
 人から言われたことも相まって、わたしの思考が歪んでいくのをじわじわと感じていく。いつか本当におかしな方向に変わってしまったら……そんな自分と向き合うのも嫌で、だからこそ目を逸らし続けてきたのだ。


「梨乃、昼飯」
 今日は休みらしいお兄ちゃんが、部屋の扉をノックし、外から声をかけてきた。
「はーい」
 返事をした瞬間、おなかがきゅうっと音を鳴らす。どんなにふてくされてもお腹は空くのだ。仕方がない。
 もう一度溜息をついてから『よっこらしょ』と身体を起こし、部屋を後にする。
 一階のリビングへ向かうべく階段を下りながら考えるのは、午後に読む本のことだった。もやもやと考え込んでしまう時は、読書をするに限る。それを現実逃避と呼ぶことは気付かなかったことにして、山のように積まれた本たちを読むことで気を逸らしている。
 最近はいろいろなことがありすぎて、なかなか本を読む時間が取れずにいたため、山のように未読の本が積まれていた。
「今日二冊くらい読んで、明日から三冊ずつくらい読めば……」
 山になっている本の冊数と夏休みの残りの日数をあれこれと計算しつつ、数学の問題集よりも頭を使いながら何冊読めるか確かめる。
 ぼやぼやと下りていくうちに一階に辿り着くと、ナポリタンの食欲をそそるいい香りが漂ってきた。
「あら、梨乃ちゃん。持っていくから席で待っててくれる?」
 くんくんと嗅覚に集中していると、台所からお母さんがひょこっと顔を出した。相変わらずほわほわしてて可愛い。
「うん。でもできてるなら持ってくよ?」
「平気よ~! もうすぐできるから座ってて~」
「ありがとう」
 まだもう少し工程が残っているらしく、お母さんはすぐに台所に戻っていった。それなら任せるか、と思い直して、わたしはお兄ちゃんが待っているリビングへ足を踏み入れる。

 ……予定だった。

 しかし、何となく癖でポケットに入れていた携帯が震えだし、反射的に玄関の方へと駆け出してしまったため、予定通りにはいかなくなってしまう。
「ど、どうせ……メルマガとかそういうやつ……」
 この言い訳も既に慣れたもので、今のところそのセリフを裏切る展開は一度もない。百発百中、どうでもいいメルマガだった。ちゃんと分かっている。期待しても無駄……そう思っていても、なかなか諦めない自分もいて困ったものだ。
 メールの受信箱を開くまでにそれらをごちゃごちゃと考えながら、ひとつひとつドキドキしながらボタンを押して開いていく。

「……やっぱりメルマガじゃん」
 どうでもいいタイトルと、見覚えのある宛先に、わたしの期待は見事裏切られた。靴屋のクーポン券、ネット通販の新商品のお知らせなど。うっかり登録して解除が面倒になり、そのままにしているものばかりだった。
 わたしは大きく溜息をつきながら、一件ずつ削除していく。
「……えっ」
 だけど一件だけ、様子が違うメールが画面に映し出されていた。
 タイトルのないメール。知っている宛先に、心臓が止まるんじゃないかとひやひやする。一度画面を暗くしてからロック画面を開き、もう一度メール画面を凝視した。
「う、そ……」
 勿論、嘘ではない。
「梨乃ちゃーん! できたよ~」
 お母さんの可愛い声が、意識の遠いところで聞こえる。でも、一向に身体は動かない。かろうじて指だけは動き、恐る恐るメールを開く。


『八月三十一日、学校の図書室で会えませんか?』


 何の変哲もない文字たちが組み合わさって、大事な言葉が生まれる。
 わたしが夏休みにずっと待っていた言葉が、ようやくこの画面に映し出された。
 もやもやも、理不尽な怒りも、気付けば驚きにかき消されている。覚えていてくれたこと、ようやく答えが聞けることに対しての喜びや安堵感に気が抜けそうだった。
『うん、大丈夫。行きます』
 忘れぬようにと、真っ白な頭でなんとかメールを返信。その後すぐに、
『じゃあ、十一時ごろお待ちしてます』
 榊くんの簡易的な返信を確認してから、暫く放心状態に陥った。
 徐々に鼓動が加速していく。どんな顔をすればいいのか、どんな心の準備をすればいいのか、ごちゃごちゃと脳も動き始めた。
「梨乃ちゃん! どうしたの?」
 ぽんっと肩を叩いたお母さんは、いつの間にかわたしのすぐ後ろに立っていた。普段ならすぐ気配で分かるのに……全く気付けなかった。
「あぁ、ごめん。食べる」
 何とか笑ってごまかし、落ち着くためにさっさと席についてナポリタンを食べ始める。
「うん、今日もおいしい。最高だよ」
 口の中に入れ、よく噛んで食べながら絶賛する。
「ほんとっ!?」
「うん。わたしお母さんのナポリタン大好き」
「ありがとっ! また作るわね」
「うん」
 ぱあっと嬉しそうに笑うお母さんを微笑ましく思い……しっかり味わって食べていく。ごろっと入ったベーコンも、ほどよく火が通った玉ねぎやピーマンも、麺もソースもどれをとってもおいしい。
 間違いなくおいしいと何度も食べてきたナポリタンは、少しずつ気持ちを落ち着かせている……と思う。現に少しだけ気が逸れているから。
「理斗くん、おかわりいる?」
 先に食べていたお兄ちゃんのお皿は、あっという間に空になっていた。
「あー……じゃあもらう」
「はぁい」
 お兄ちゃんとお母さんの和やかなやり取りを見守りながら、平和だなぁとベーコンと一緒に穏やかな日常を噛みしめる。
 ……だけど、心の奥底でざわつくこれは、やっぱり消える気配がない。

「ごちそうさま」
 ゆっくり食べようと思っていたのに、あっという間に完食してしまった。
 早食いは良くないと昔からお母さんに言われていたのに……という罪悪感もほどほどに、そそくさとリビングを出て行く。
 後ろから「もういいの?」とお母さんが声をかけてくれたような気がしたのに、それに反応できないほどわたしの冷静さは失われていた。
 いつも以上に落ち着かない。
 自分の部屋を出るまでの、お昼ご飯前までの自分を思い出せない。

「……どうしよう」
 一週間後、新学期が待っている。
 その時にはもう、決定的な何かが変わってしまうのだ。
 ずっと待っていたこと、だけど心は落ち着かない。


 ある意味その日までの時間が、一番酷な気がした。



***


 それから、どんなふうに過ごしたか記憶に残らない日々を過ごし、八月三十一日を迎える。一日早く制服に着替え、何となくだけど、前に榊くんからもらったヘアピンを付けた。十時を過ぎたところで家を出て、目が眩みそうな日の光にさらされる。
 わたしの学校では七月と新学期一週間前くらいの平日限定で、図書室が開放されていた。十時~十四時とかなり限られているが、昨年はかなり利用させてもらった記憶がある。
 今年は買ってそのままになっている本が多く、いろんな出来事があったおかげで、一度も開放時期に図書室へ足を運べなかった。
 ……おかげで本を借りられなかったことは、かなり痛手だったけど。

 そわそわした気持ちのおかげで早足になっていたらしい。
 あっという間に学校に辿り着くと、暑さなど関係なく、運動部がそれぞれの場所で練習に励んでいるのが見えた。校門から校舎の間でランニング中の陸上部とすれ違い、素振りをしているテニス部を横目に校舎へと向かう。
「……はあ」
 靴箱に辿り着き、自分の上靴を手にした……その瞬間、意識しないようにしていた緊張がどっとわたしを襲った。自然と溜息が漏れ、どくどくと心拍数があがっていく。体内の熱が沸騰しているのではないかと錯覚するほどに熱く感じる。
 ここでようやく、一週間ほどのわたしについて思い出すことができた。
 意識しないようにと本を開いては、内容が入ってこないと本を閉じ、うだうだごろごろと自堕落な生活を送っていた……気がする。
 告白して、一ヶ月ちょっと。


 やっと決着がつく。
 わたしの大好きな……あの場所で。
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