図書室の住人

50.終わりと始まり

 夏休みも終わり、新学期が始まってあっという間に一ヵ月が経っていた。季節も、わたしたちの関係も、環境も、様々なものが少しずつ変化している。
 そんな中で、変わらないことといえば……未だに放課後、図書室に足を運んでいることだった。
「どうしてですか?」
 わたしと榊くんはお互いに顔を見合わせ、首を傾げる。香澄先輩の問いかけは不可解で、質問の意図を掴むことができなかった。
「そりゃ……放課後、デートしたりしないのかなぁと思って」
 苦笑しながら、少し呆れ気味に先輩はそう言うと、わたしたちは顔を赤くして、思わず目を逸らす。
 夏休みの終わりに両想いになってから一ヵ月。実のところ、未だに恋人らしいことをろくにしていない。
 恥ずかしかったり、人の目が気になるということは勿論なのだが、そもそも両想いになった後のことなど何も考えていなかった。だから、恋人になったら何をすればよいのかもよく分かっていなかったのだ。
 今のわたしたちの課題は、きっとこの関係をどうしたいか、だと思う。
「いいんです! そういう時間はこっちで作ってますからっ!」
 わたしが返答に困っていると、少し剥きになりながら榊くんがそう叫んだ。残念なことに心当たりはないけれど、それは彼のプライドに傷をつけそうな気がして黙り込む。
 付け加えておくと、こうして話したり叫んでも何も言われないのは、いつも通り、わたしたち以外に利用者がいないからである。
「へぇ~。何してるの?」
「うぐっ」
 多分、すべてお見通しなのだろう。からかうように先輩が尋ねると、反射的に榊くんが怯んだ。その反応が先輩的に面白かったらしい。ぷっと噴出すと、しばらく机に突っ伏して笑っていた。
「くくっ……そこで余裕をもって『内緒です』とでも言っとけば……ふふっ」
「なっ! 何ですか!」
「いや、二人はゆっくりでいいよ」
 榊くんの反応で、進展がないことがばれてしまったらしい。
 それに気付かれたとは夢にも思っていないのか、榊くんはクエスチョンマークを浮かべながら混乱している。
「先輩はどうなんですか?」
 これ以上任せっぱなしにもいかず、わたしは助け舟を出すように先輩に尋ねた。
「そうですよ! 一体どういう趣味してるんですか!」
 すると、撃沈状態だった榊くんが立て直し、失礼な発言をお見舞いする。
 ちなみに先輩が優里さんが気になっていることは、最近直接榊くんに話したらしい。それからこの話題になると決まって「どうかしている!」と言われるのがお約束になりつつあった。
 先輩は「うーん」と唸りながら、『十歳差』と書かれた表紙の本をぱたんと閉じる。分かりやすいことに、年の差がある恋愛小説を読み漁るのが先輩のブームらしい。
「実は……何の接点もないんだよねぇ」
 そして、残念そうに笑いながら両手を上げ、まさに『お手上げ状態』の先輩はもう一度唸り始める。
 優里さんは社会人でOL。平日は仕事で遅いというし、休日はほとんど外出しているのだとか。今はどうやってアプローチするか模索中らしい。
「うーん……あまり気は進みませんが、何とか会えるように頑張ってみます」
「頼むよ~……そろそろ榊くんの本気が見たいなー?」
「オレも頑張ってるんですよ?」
 このやり取りも、実は何度も行われていることだ。
 唯一の希望は弟である榊くんなのだが、優里さんと話していると最終的に関係のないことで喧嘩をしてしまい、うやむやになるのだとか。前に遊びに行った時のことを思いだすと容易に想像できて、思わずくすりと笑ってしまう。


 あーだこーだと話す二人を見守りつつ、図書室の様子をちらりとうかがった。
 さっきも少しふれたけれど、こんな風に話せるのは、今室内に三人だけだからである。もう数日経てばテスト期間に入り、部活動停止を食らった生徒たちで溢れかえることだろう。今は少し騒がしいけれど、テスト期間中の図書室もまた、別の意味で騒がしさに満ちていく。本来利用者がいることを喜ぶべきだが、この空間を気に入っているわたしとしては、少しだけ寂しい気もして複雑だった。
 そんな三人は、ほぼ毎日、学校がある日は授業が終わると図書室で過ごしている。
 先輩は受験勉強があるはずなのだけど、家で勉強しているとのことで、放課後のこの時間だけは読書に費やしているようだった。榊くんは図書委員のままだし、わたしは特に変わりないため自然とここに足を運んでいる。
 ……それに、ここに三人で集まれる日数もどんどん減っているのが現状だった。
 先輩の卒業という現実は、どうしたって避けようがない。


 ぼんやりと考え込んでいるうちに、下校のチャイムが鳴り響いた。
「三人とも、そろそろ鍵をしめますよ~」
 今日は準備室に先生がこもっていて、チャイムに合わせて姿を現した。
「はーい」
 三人そろって返事をし、帰り支度を始める。立ち上がってイスを戻し、戸締り確認をしながらカーテンを閉めた。外の光が遮られた図書室は雰囲気を変え、時間の感覚を奪っていく。
「こっちは大丈夫」
「わたしも」
「それじゃあ行きましょうか」
 戸締りが済むと机に置いていた鞄を手に、わたしたちは外に出た。最後に先生が鍵を閉めて完成だ。
「気をつけて帰ってね」
「はーい。さようならー」
 優しく手を振ってくれた先生に挨拶をして、職員室へ向かう先生とは逆の方向を三人で歩き始める。


 最初は、三人ばらばらに図書室を出て行っていた日々。
 それから香澄先輩とわたしになって、まもなく三人が集まった。
 今ではすっかりそれが当たり前になって、こうして並んで歩いている。
 きっとわたしは、いつになってもこの不思議な集まりのことを誇りに思うだろう。
 この出会いがなければ、今のわたしは存在しない。
 友達ができることも、ましてや……恋人ができるなんてことも。
「あ、ごめん。今日ちょっと駅の方に用事あるんだった! 先行くね! 榊くん、立花さんをよろしく!」
 靴箱がある玄関に辿り着く直前、さっきまでゆったりと談笑していた先輩が、何かを思い出したかのように突然慌て始めた。
「はい、任されました!」
「先輩、また明日」
「うん! じゃあね!」
 ゆっくりと挨拶する暇もなく、先輩は走ってわたしたちの元を去っていく。暫く呆然とその背中を見送っていたが、
「オレたちも行きますか」
「うん」
 榊くんが声をかけてくれたので、我に返ってわたしたちも歩き始めた。


 わたしと榊くんの家は、はっきり言って方向が全然違う。校門を出たら、もうそこで別れるのが今までだった。
 でも付き合ってから、わたしと帰る方向が同じ香澄先輩が不在の時だけ、こうして家まで送ってもらうのが普通になりつつある。最初は遠慮していたのだが、『オレが送りたいんです!』という熱意に負けて、榊くんに甘えていた。
 一緒に並んで歩く帰り道は少しだけくすぐったいような、恥ずかしいような、何とも言えない感覚に戸惑う。けれど、その戸惑いは決して困っているというわけではなくて、嬉しい気持ちや幸せな気持ちも混じっていた。……うまく表現できないのがもどかしい。
 ちなみにどんな帰り道かというと、今まで二人で出かけていた時のような他愛のない会話をしたり、最近では少しだけ……恋人を意識するような話題で気まずくなったりしていた。
 たとえば、恋人同士って何をするんだろう、とか。
 呼び方を変える? 手をつなぐ? 休日に出かけたりとか?
 お互いに気になって話題にあげる割には、有益な意見交換はできていない。
 挑戦しようとするのだけれど、何だかまだどうしていいのか分からず、すぐに照れてごまかしてしまうのだ。
 せめて呼び方を……と思って自室で練習したことがあるのだが、下の名前で呼ぶのが死ぬほど恥ずかしいことを発見してからは、一度も練習すらできていない。
 ……そろそろ、夏休み中に恋人になった和泉くんとヤマちゃんカップルにいろいろ聞いてみたいところではある。

「先輩」
 今日は無言が続く時間の中、ぽつりと榊くんが呼びかけた。
「うん?」
 わたしはうだうだと動かしていた思考を停止させ、隣を歩く榊くんへと視線を向ける。
 気づけば帰り道は商店街を抜け、住宅街へ入っていた。あともう少し歩いた先に公園があり、その隣が我が家に到着する。
「あのっ」
 誰もいないその場所で、一際大きい声が聞こえた。
 それから、幾度となくチャレンジして失敗に終わっていたある行為を、榊くんは今日再び挑む。いつもと違うのは、このチャレンジに挑む際、何かしらの宣言をするのだが……今日はそれがなかった。
「手、繋いでいいですかっ!」
 それから少し遅れて、その宣言が響き渡る。彼の叫びを、わたしはぽかんと呆気に取られた感じで聞いていた。
 だって、しょうがないじゃないか。
「も……もう、つないで……ますけど」
 思わず敬語で、わたしは返事をする。
 それも無理のない話で、いつも手を握ろうとする直前でお互い手を引っ込めてしまい、なかなか先に進めなかったのだ。だけど今日は、逃げられないようにと榊くんがぎゅっと手を握っている。力加減がまだつかめないのか、若干それには痛みを伴った。
「うわぁ! す、すみませんっ!」
 遅れて驚いた榊くんはすっかり混乱状態で、でも繋いだ手を離そうとはしない。
 ここ数年味わっていなかった誰かと手を繋ぐ行為が、こんなにも熱っぽく感じるものとは思いもしなかった。
 いつもの照れとは比べ物にならないほど、今にも倒れてしまいそうなくらいに恥ずかしい。……それでも、ようやく繋げたこの手を離すつもりはなかった。
「……じ、じゃあ……家の近く、まで」
 榊くんの顔をうまく見ることができず、俯き加減でわたしはそう言った。それと同時にぎゅっと手に力を入れて、了承の合図を送る。
「そ……そうですね。はい、行きましょう」
 お互い声色がいつもと違っていておかしい。いつもと違うことをしているのだから仕方がないと言い聞かせ、ぎこちなく一歩一歩前に進み始めた。
 榊くんの手はやっぱりわたしよりも大きくて、少しだけごつごつしている。
 ここ半月ほど触れてみたいと思っていたそれが、今日やっと叶った。
 しかし、喜びよりも緊張の方が勝ってしまい、意識がふわふわとしてしまう。
 手を繋いでいる間、何か喋っていたような、無言だったような……。すっかり記憶が曖昧になってしまい、気付いた時には家の近くの公園まで辿り着いていた。そろそろ手も離し、家に帰らなければならない。
「あ……あの」
 名残惜しい気持ちが込み上げてきた矢先、手を繋いだ先から声が聞こえてきた。
 ここでようやく榊くんの方へ視線を向ける。目が合うとまだ少し恥ずかしいけれど、いつまでも逃げっぱなしはよくないと思い、負けじと視線の先を見つめ続けた。
「……今度の休みに、その……デート、しませんか」
 それから控えめな声で、榊くんはそう言った。
 ……もしかしたら、図書室でのことを気にしているのかもしれない。
「べ、別に、今日香澄先輩に言われたからとかじゃないですよ?」
 心を読まれたかのように慌てて弁解され、わたしは思わず笑みを浮かべた。
「わたしは、えっと……一緒にいられるなら、理由は何でもいいよ」
 今ものすごく恥ずかしい台詞を口にした気がする……と思ったのは、榊くんの顔が真っ赤に染まっていると気付いたからかもしれない。
 でも、先輩に言われて誘われても、榊くん自身が自分のタイミングで誘っても、嬉しいことには違いなかった。
「今度……土曜日、デートしよ」
 チャンスがなくならぬよう、わたしは素直にそう告げた。
 榊くんは驚いたように目を見開いて口をパクパクさせていたが、すぐに全体的にゆるくなり、にやけをごまかそうと口元に手を当てる。
「お、おおおお願いします」
 目を逸らされながら、少し動揺した様子でそう言われ、ぎこちない雰囲気で約束が取り付けられた。
 これがいつか、スムーズに行えるのだろうか。
 そんな自分が想像できなくて、不思議な気持ちに支配されていく。

「あ、じゃあ……この辺でっ」
 先程のやり取りで、力を使い果たしたのかもしれない。
 繋いだ手があっさりと離れていくと、榊くんは慌ててわたしの傍から離れていく。
「ま、またねっ」
 声が届く範囲にいるうちに、半ば叫ぶ形で今日の終わりの挨拶を口にした。
 無事それは榊くんに届き、一度振り返って手を振ってくれたのを確認する。同じようにわたしが手を振り返すのを榊くんも確認すると、さっき歩いたばかりの道を走って引き返していった。
 その背中が見えなくなるまで、わたしはその場に立ち尽くし、幸せな気持ちで見送った。




***

 わたしの物語は、ひとまず一区切りをつけた。
 でも、この先何が起こるかは分からないけれど、この世界で生き続ける限り、物語は続いていく。
 ハッピーエンドを迎えた先に、また新しいスタートライン。
 ひとりぼっちだったあの日々を一巻と例えるなら、恋と友情に翻弄される日々は二巻になるだろうか。そして今……三巻目に突入しようとしている。

 願わくば、彼と始まった新しい物語も、ハッピーエンドで締めくくれますように。
 大長編になることを期待しながら、わたしはまたゆっくりとページを捲ったのだった。




~終~
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