図書室の住人

47.打ち明ける場所

 家の隣にある公園は、夏休みにもかかわらず人がいない。遊具がブランコくらいしかなく、もう少し歩けばもっと広くて遊具も充実した公園があるからだ。
 子どもたちはそちらに流れ、ここにはどちらかというと大人やお年寄りが集まっている。


 わたしが公園に辿り着くと、ひとりの男の子がブランコを漕いでいるのが目に入った。
 呼びだした張本人の姿はなく、まるで『あの日』の仕返しをされたのでは? と疑う自分と対面する。
「和泉くん」
「よっ!」
 名前を呼ぶと、勢いよく動いていたブランコから飛び降り、和泉くんが駆け寄ってきた。初めて見る私服姿はTシャツ、ジーパン姿で、夏の暑さを忘れてしまいそうな爽やかな空気を醸し出している。
「悪いな、来てもらって」
 あまり悪びれた感じはしない……と思ったところで、ヤマちゃんに抱いたちょっとした疑問が解決できた気がした。家の隣に公園があることは、クラス会で一緒に帰った和泉くんなら当然把握しているはずだから。
「ううん、大丈夫だよ。それよりどうしたの?」
 立ち話もなんなので、近くのベンチに二人で腰掛けながら尋ねる。
 ちらりと隣を盗み見ると、少し照れた様子で言葉を探している和泉くんが目に映った。何となくいけないことをした気がして、視線を夕焼けに移しながら返答を待つ。

「立花、ありがとな」
 それほど経たぬうちに返ってきた言葉は、心のどこかで予想していた言葉。律儀なことに、あの時のお礼に来たのだろう。
「山口とうまくいったのは、その……お前のおかげだからさ」
「二人が頑張ったからだよ」
「いいや。立花がいなかったら関わることもなかったかも。てか、山口の状況とかも知ってたんだろ?」
「うん……まあ」
 わたしが共犯になったのは、絶対的な確信があったからで、もしどちらかの気持ちが欠けていたら、背中を押せていたかどうかも怪しい。
 でも今回は運が良かった。だから二人は結ばれたのだ。
「おめでとう」
 追及を逃れるように、まだ直接言えてなかった祝福を贈る。
「おう」
 笑顔を浮かべた和泉くんは、右手をおもむろに差し出した。
 その意味に気付けなかったわたしが首を傾げると、少し呆れながら「ハイタッチだよ」と教えてくれる。
 こんなこと、したことがないかもしれない。
 和泉くんの方へ身体を向け、恐る恐る右手を合わせる。
 あまりのぎこちなさに和泉くんが笑い、わたしは妙な照れくささにどんな顔をしていいのか分からなくなった。
 触れた手はやっぱり性別もあってわたしの方が一回り小さく感じる。夏だからかお互いの手が熱くて、だけどその熱を感じられたのも一瞬。手はすぐに離れ、元の体勢に戻っていった。
 不思議な時間に思わずドキドキしたけれど、これは恋とかそういうものではない。決して。
「はー……すっきりした」
 そんなわたしの無駄な言い訳にも気付かない和泉くんは、うーんと両手を上に伸ばす。
「ずーっともやもやしてたからさ。やっと罪悪感とかからも解放された気がする」
 おそらくヤマちゃんのことだろう。仲直りもできて、付き合うところにまで発展した。そんな二人を少しでも手助けできたことは、わたしの自信につながっている。
「うん、よかった」
 自分にも言い聞かせるように、ぽつりと呟いた。
「立花は? 大丈夫か?」
 すると突然、そんな問いかけをぶつけられた。
 穏やかな表情を浮かべる和泉くんに、気を抜くと吸い込まれそうな瞳から目を離せない。
 確か、榊くんが好きだとばれたのは、一緒に帰ったあの日のこと。ズルい手を使って話を逸らしたけれど、和泉くんの記憶にはまだ残っているようだった。
「わたしは……うん、大丈夫」
 でも、今頼りたいことは特になかった。
 それ以上に、和泉くんはいろんなことに手を差し伸べてくれて、助けてくれたのだ。むしろこれだけでは恩返しにはならないかもしれない。
「あのね、こないだ……その、告白したの」
 遠慮していると思われそうで、話だけはしておこうと話し出す。
 さすがに目を合わせたままは話せなくて、視線はオレンジに移した。
「その時ね、思ったの。わたしが言えたのは、みんなのおかげだって。和泉くんやみんなの頑張ってるところを見たり、頑張ってるってわたしに言ってくれたり……それで背中を押されたんだと思う」
 多分和泉くんは、何か手助けをしたいと思っているのだろう。だけど、もう十分すぎるほどにもらっている。
「だからね、ありがとう」
 にこりと微笑んで、わたしはありのままを伝えた。
 何かとお節介な和泉くんは少し腑に落ちないような表情を浮かべたが、自分の中で納得したのか、ふわりと笑いかけてくる。
「そうかそうか。じゃ、いいや」
 こつんと軽く、和泉くんの拳がわたしの頭に当たった。
「うまくいくといいな」
「うん!」
 何だか不思議な気分だ。
 いや……もうこの感覚が長すぎて、今の気分が普通になりつつある。結末なんて分からないのに、わたしはいろんな人に自分の話をしていて、自身の成長をひっそりと噛みしめていた。
 もしこの先ダメだったとしても、何となく受け入れられそうな気がする。
 勿論それは悲しいことだけど、初めての恋で得たものは大きい。いろんな感情を教えてくれた彼への感謝の気持ちの方が勝りそうだ。


 暫し、無言の時間が流れる。
 わたしはぼんやりと考え事をしていたし、和泉くんも何か噛みしめているように見えた。
 そんな時間も居心地が良くて、改めて友人という存在に感謝する。

「おい、梨乃」
 ぼんやりとベンチに座っているところに、聞き覚えのある声が乱入してきた。しかもいつぞやと似たような乱入の仕方である。
 ゆっくりと声の方へ視線を向けると、予想していたとおり、お兄ちゃんの姿が目に映った。その表情はどこか不機嫌そうで、思わず苦笑する。
「あの人は?」
 初対面の和泉くんはひそひそとわたしに尋ね、
「お兄ちゃん」
 と、簡素な返事をした。
 早足でわたしたちに近づいたお兄ちゃんは、じーっと和泉くんを見つめている……いや、若干睨んでいるかもしれない。
「あ、初めまして。立花とはクラスメートで友達の和泉といいます。彼女がいるのでいかがわしい関係ではないです」
 何を察したのかおかしな言い訳を付け加え、和泉くんは自己紹介をした。その言い訳が効果を発揮したのか、お兄ちゃんは豆鉄砲を食らったかのような表情を浮かべる。かと思えば、さっきまでの不機嫌顔があっという間に微笑みへと変化していた。
「オレは梨乃の兄の理斗だ。妹が世話になってるな」
 うん、とてもお世話になってる。
 心の中だけですかさずそう言うと、わたしは和やかな空気に包まれたこの状況を見守るに徹することにした。変に口を挟んで厄介なことになったら、せっかくの空気が台無しになりそうだったからだ。
「ああ、そろそろ帰るな。立花、また新学期に」
 しかし、携帯の時計を見ながら和泉くんは早々に別れの言葉を口にし、手を振っている。
「うん、ありがとう。またね」
 その様子は若干この状況から逃げたようにも見えたけど、思えば彼もわたしも話したいことはなくなっている。
 和泉くんと同じように手を振り、背中が見えなくなるまで和泉くんを見つめた。
 満たされた心はぽかぽかと温かくて、これが幸せなのかと噛みしめる。

 ……だけど、公園に残されたのはわたしとお兄ちゃんの二人。
 まるで仕組まれたのではないかと錯覚してしまいそうなくらい、わたしのあれこれを打ち明けるには絶好のチャンスだった。
「和泉、だっけ。随分仲よさそうだったけど、友達なのか?」
 静寂など関係ないと言わんばかりに、遠慮なくお兄ちゃんは尋ねる。さっき理解してくれたとばかり思っていたのに、結局無駄に終わったようだ。
「うん、友達だよ」
「そうか? にしては梨乃に触りすぎじゃないか?」
 お兄ちゃんは一体どこから見ていたんだろう……という疑問と、それはちょっと否定できないという気持ちが混ざって複雑な心境と向き合う。正直和泉くんの普通は未知数だし、変に意識する方が負けな気がする。
「そうかな?」
 ここは適当に流し、ベンチに座りっぱなしのわたしはようやく立ち上がった。よく考えずとも、お兄ちゃんとは家で話ができる。ここにいる必要はないように思えた。

「あー……梨乃」
 帰ろうとしたところで、わたしは呼びとめられた。いつもと違う様子に違和感を覚えながら、くるりと振り返る。
 するとそこには、今までに見たこともないような、緊張した表情が飛び込んできた。
「どうしたの?」
 近づいてから尋ねると、お兄ちゃんの顔が赤いことに気づく。
 そわそわと落ち着かないのか、時折頭を掻いたり、視線が泳ぎまくっていたり。
 普段余裕たっぷりなオーラを纏っていたお兄ちゃんとは、まるで別人に見える。
「?」
 首を傾げ、返答を待つ。割と思ったことはすぐに口にするのがお兄ちゃんという印象が強いため、こんなに歯切れの悪いのは初めてな気がした。
 このまま帰るわけにもいかず、わたしはひとまずもう一度ベンチへ腰掛ける。するとお兄ちゃんも釣られるように隣に座った。
 顔を見ていると話しにくいかもしれないと、わざと夕焼けを見つめて雲の流れを見守る。
「実は、その……今日、彼女ができた」
 ようやく話し始めてくれた……と思ったが、わたしの冷静さは一気に消失していく。
「えっ!?」
「やっぱ悲しいか!? 辛いか!? 寂しいか!?」
「いや……おめでたいなぁって」
「怒るか? ヤキモチ妬くか?」
「ううん……お幸せに」
 それは予想外の言葉をぶつけられたからかもしれない。正直どんな反応をすればいいのか分からないけれど、お兄ちゃんが言うような負の感情は存在しなかった。
 だけどわたしの反応が面白くないのか、少ししょんぼりとした様子で小さく「そうか」と呟く。
 でも、それほど驚かなかったのは、なんだか奇遇だと思ったせいかもしれない。
 ……まだ、答えは保留だけど。

「わたしも、こないだ告白した……から」

 この流れなら言えそうな気がしたわたしは、さらっと事実を報告した。少しずつ恥ずかしさが込み上げてきて、徐々に顔が熱くなってくる。今日だけで何度目の報告なのかと思っても、やっぱりこの感覚には慣れそうにない。
 ちらりと隣を盗み見ると、意外なことに顔面蒼白という言葉が似合いそうな表情を浮かべて固まっていた。
「梨乃……が?」
 まるで信じられないとでも言いたげな言い方だ。
「そうだよ」
「え、梨乃が?」
「わた、わたしだって……言えるよ」
「じゃあお兄ちゃん大好きって言ってくれ」
「えっ」
 わけのわからない流れ、反応、理解しがたい台詞。
 クールで優しくて大人なお兄ちゃんからはかけ離れた様子に、わたしの戸惑いは頂点に達しそうだった。
 確かなことは、お兄ちゃんが壊れてしまったこと。
「あの、お兄ちゃ」
「さっきのヤツか? 前に家に来たヤツか? クソメガネか?」
 ものすごい勢いで詰め寄られ、さらに戸惑いが襲う。しかし、どうしても聞き捨てならない言葉が聞こえて、わたしは思わず反応してしまった。
「ちょっと……榊くんのことそういう風に言うのは……」
「あー!! やっぱりアイツかよ……」
 お兄ちゃんは頭を抱え、世界の終わりと言わんばかりに悲痛の叫びをあげる。すっかりペースにのせられたわたしはまんまと相手を暴露し、思わず口に手を当てた。
「……分かってた。そんな気はしてた。あーうん……そうか」
 ぶつぶつと独り言を口にし、貧乏ゆすりを始める。
 どこで確信したのか気になったけれど、既にもうわたしが口を挟む隙など存在しなかった。

 でも、二人が初めて顔を会わせたあの日からそうだった。
 お兄ちゃんは榊くんにいちいち突っかかっていたし、別の時にも似たようなことはあったと思う。
「もしかして、最初から……?」
 恐る恐る尋ねると、大きな溜息だけが返ってきた。
 何と言おうか悩んでいる顔をしている。……少し困っているようにも見えるだろうか。
「……というより、アイツがあからさまに下心みえみえっぽかったんだよ」
 なんて根拠のない答えなんだ。
 お兄ちゃんは溜息をもう一つ零しながら……というより次々と溜息が零れ、どんどんトーンが低くなっていく。
「あー……うん、分かってる。オレだって彼女できたし、梨乃に男ができてもおかしくない。可愛いし、オレの妹だし、可愛いし」
 勝手にひとりであーでもないこーでもないと考えている姿は、何だか新鮮で面白い。そう感じるのはきっと、わたしが狭い世界から飛び出したせいだろう。
 家族と読書がすべてだった頃とはまた違う、反応や表情の数々。
 飛び出した影響は確実に内部にも広がっていることを、今更になって思い知った。
「お兄ちゃんの、言う通りだったね」
 去年のことを思いだして、わたしは懐かしみながら微笑む。
 聞き流していたはずなのに鮮明に蘇るお兄ちゃんの言葉は、今ならよく分かる気がした。


 ―――ちゃんと友達は作っとけ。それは読書よりも価値のある存在になるから。いつかいてくれて本当に良かったって思う時が来るさ。


「……なんかオレ言ったか?」
 勿論何のことか分かっていないお兄ちゃんは、首を傾げながら問いかける。
「ううん、何にも」
 でも、前に友達についてはお兄ちゃんの誕生日の時に話したし、ここで話すと更に話のレールが逸れてしまいそうだ。
「わたし、お兄ちゃんに彼女ができて嬉しい。幸せになってね」
 いつまでも公園にいるわけにはいかない。夏でも夜はやってきて、太陽と月は入れ替わる。今日はお母さんもご飯を作って待っていることだろう。ベンチから立ち上がって、わたしはにこやかにそう言った。その台詞は本心からであり、いつもわたしを見守ってくれたお兄ちゃんだからこそ幸せになってもらえると嬉しい。
 ぽかんと呆然としていたお兄ちゃんも釣られて立ち上がり、複雑そうな難しい顔をしつつ、最終的には微笑みに変えた。
「まあ……梨乃は絶対大丈夫だ」
 そしてはっきりと、そう言い放つ。
 何のことかは言ってくれなかったけれど、わたしの中では答えが出ていた。
「もしも梨乃が泣くようなことがあったら、オレがぶん殴ってやる」
「笑顔で物騒なこと言わないでよ、お兄ちゃん」
 いつもの優しいお兄ちゃんが復活していて、妙に嬉しい気持ちが込み上げてくる。
「でも、ありがと」
 ぽつりとお礼を言うと、くしゃりと頭を撫でられた。
 ここでようやく二人並んで家へと歩き出す。
 思えばこうして並んで歩くのも久しぶりのように感じて、なんだか気持ちが弾むようだった。
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