図書室の住人

45.初恋との向き合い方。

 八月に入った頃、わたしは猛暑など関係なく外出していた。
 榊くんの家に行ったその日の夜、ミナちゃんからとある誘いのメールが着ていたからだ。
『今度みんなで遊ばない? ヤマちゃんは八月の頭くらいがいいって言ってて、私とアイちゃんはいつでもいい感じなんだけど……梨乃ちゃんはどうかな?』
 今まで過ごしてきた夏休みの中で、一度もこんなイベントはなかった……と思う。誰かに誘われて、一緒に遊ぶだなんて。以前のわたしなら、読書をしたいがために断ってしまいそうだ。夏休みなんて、本読み放題の最高のイベントだし。
『うん! わたしもいつでも大丈夫だよ!』
 慣れない手つきでメールを打ち、送信ボタンを押すのに数分かけながらも誘いを受ける返信を送った。


 そして、今日が約束の日。
 暑さは今日も厳しくて、ちょっと日差しに当たるだけで汗がだらだらと流れ落ちてしまいそうだった。夏日更新なんてニュースが言っていたけど、毎日のように更新しているような気がしている。
「はぁ」
 今日の待ち合わせは十三時。少しだけ時間をずらし、一緒にお昼を食べようと話していた。なのに、時計は現在十二時よりも少し前をさしている。
 わたしが向かっているのは、駅前の大通りからはずれた少し離れたお店。香澄先輩や榊くんと一緒に一度だけ行ったことがある程度なのだけど、意外と道は覚えていた。
 せっかく教えてもらったお店だし、何より夏休みだ。いつもと違う夏休みだとしても、読書を全くしない選択肢は存在しない。

 歩いた先に見えてくる『古本屋 さがの』という看板。古びた外観……とは程遠い、新築でオシャレな雰囲気は相変わらずだ。
 一人で初めて来るため緊張するけれど、せっかく暑い中来たんだしと、自身をそっと励ます。
「よし」
 一度だけ深呼吸をして、そっと扉に手を伸ばす。力を入れてゆっくりと押すと、ふわりと室内から漏れ出す冷気が夏の熱に帯びたわたしを労わってくれる。
「いらっしゃい」
 それから、店長の嵯峨野さんも優しく迎えてくれた。
 わたしのことを覚えてくれているかは分からなかったので、軽く会釈をして、本棚に目を向ける。
 基本的に前に来た時と並びは同じで、いくつかのカテゴリに分けられた後、作者順に本が並んでいた。
 以前と違っていたのは、おすすめの一冊コーナーだろうか。
 前回来た時は大好きな推理小説コーナーだったが、恋愛小説特集に変わっている。
 どれくらいの周期で変わるのだろうか。ちょうど八月に入ったばかりだし、月替わりなのかもしれない。
 あ……もしかしたら、売れてなくなったという可能性も……。
「あっ……」
 しかし、恋愛小説特集に目を向けた瞬間、わたしのごちゃごちゃとした思考は一気に真っ白になった。そして浮かび上がるのは、以前ここに来た時に手に取るのを諦めてしまった……とある一冊の本。

『初恋との向き合い方。』

 その時は高いところにあったせいで諦めたのだが、今日はその本の表紙が良く見えるように配置されており、さらに傍には本の紹介文が書かれたポップが飾られていた。勿論、手に取れる位置にある。
 それはまるで、わたしのことを見透かしているかのような展開だった。あの時と比べると、わたしはちゃんと初恋に向き合えている。読んでもいいんだよ、なんて言われているような気がした。
 既にあの日が懐かしい……なんて思いながら、本に手を伸ばす。
 その前に嵯峨野さんのコメントが目に入って、わたしはその優しい手書きの字を一文字ずつ追っていった。
『初恋をまだ経験したことのない方、現在進行形の方にはオススメできない一冊です。ご注意を!』
「ん?」
 おすすめコーナーを見ているはずなのに、何故か注意書きを読んでいた。大抵、誰でも読める本が置かれるというのがわたしのおすすめコーナーについての認識である。だからこそ、わたしは首を傾げずにはいられなかったのだ。

「それ、やっぱり気になる?」
 ぼんやりと立ち尽くしていたわたしが気になったのか、背後から嵯峨野さんが声をかけてくれた。
 ゆっくりと振り返ると、優しく微笑んでいる嵯峨野さんと目が合う。それから懐かしむように、『初恋との向き合い方。』の本を手に取った。
 だんだんと恥ずかしくなってきて、どうしていいのかも分からずおどおどしてしまう。そんなわたしを気にも留めず、嵯峨野さんはわたしに話をしてくれた。
「この本ねー。僕が昔買った本だったんだよ」
 それは、本の内容ではなく、本を入手した時の話。誰かから買い取った物でないことに驚きながら、次の言葉を聞くために口を挟むのはやめた。
「初めて好きな女の子ができてね……中学生くらいの時だったかな。もうとにかく何でもいいから助けて欲しかったんだろうね。本屋でこの本見つけてさぁ。これ読めば大丈夫だ! って何度も読んで……」
 ぺらぺらとページを捲りながら経緯を聞いていると、失礼ながらも『かわいい』なんて思ってしまった。それがよかったのか、いつの間にか緊張も解け、声を発することも普通にできるようになる。
「参考になりましたか?」
「ううん、全然」
 そして、問いはあっさりと返された。
「もうね、はっきり言って時間の無駄だったよ。その時間を好きな子に使うべきだったって後で思った」
 あっけらかんとそう言う嵯峨野さんの表情は、まるで少年がいたずらに失敗したかのような、どこか悔しそうな表情だった。
「だってさ、まあ後で気付いたんだけど……恋っていろんな種類だったり形だったりするわけじゃない? 一つとして同じものが存在しないから、教科書もないし誰にも教えてもらえない。だから、この本を参考にしても意味がないってこと」
 ただ物語を楽しむ分には問題ないけどね、なんて付け足しつつ、わたしの中にある疑問を消化してくれた。
 まさかこの本にこんな裏話があったなんて知らず、ますます興味ばかりが湧いてくる。
「君は……確か静人くんと一緒に来てた子だよね。梨乃ちゃん、だったかな」
「覚えててくれたんですか……?」
「もちろん。静人くんのお友達だしね」
 もう少し詳しく聞こうかと思ったところで、話が少しだけずれた。でも、わたしのことを覚えててくれていたことは素直にうれしくて、思わず表情が緩みそうになる。

「それで、梨乃ちゃんは初恋は済んだ人?」
 だけど、緩みかけた表情はすぐに凍りついた。
 まさかそんな質問をされるとは思いもしなかったからかもしれない。『初恋との向き合い方。』の本は未経験者と現在進行形の人に勧めない、と嵯峨野さんは言っている。だからこそ質問を投げかけたのだろう。
 辺りを見渡し、誰もいないことを確認する。
 わたしが入店してから今まで誰も来ていないことは分かっているので、この会話は完全にわたしと嵯峨野さんだけのものだ。

「……現在進行形、です」
 頻繁に会う人でないことをいいことに、わたしは素直に答えた。それから、この本を手に取る資格がないことに気づく。きっと、資格なんて存在しない。けれど、なんとなく買って帰ることに些細な抵抗があった。
 買ったら絶対に読んでしまう。安易に信じてしまうことだってあるかもしれない。様々な考えが、ふわふわと頭の中で浮かんでいく。
「そっかぁ」
 どこか楽しそうで、嬉しそうにも見える嵯峨野さんの顔を見て、だんだんと恥ずかしさが込み上げてきた。
「初恋って実らないなんて言うけどさ。梨乃ちゃんは、実るといいね」
 それから、優しい言葉が飛び込んでくる。確かに『初恋は実らない』ってよく聞く言葉だ。迷信であってほしいと願うばかりだけど、未来なんて神様くらいにしか分からない。
「あの、その本」
 すっかり嵯峨野さんの手の中に納まっていた本に視線を向けながら、恥ずかしさをごまかすように話し出す。
 嵯峨野さんは不思議そうな表情を浮かべながら、とりあえず手に持った本を掲げると、わたしは小さく頷いた。
「落ち着いたら、買いに来てもいいですか?」
 ほんの少しの勇気を振り絞って尋ねる。わざわざ取り置きしてもらうのも恥ずかしいかも……そんな想いが尋ねた直後に押し寄せてきて、反応が怖くなってきた。
「うん、いいよ」
 そんなわたしの一瞬の悩みをあっさりと打ち消すような返事が即答で返ってきて、思わず大きく目を見開いた。
「僕が忘れないうちに来てもらえたら嬉しいな」
 にっこりと微笑みながら、飾っていたポップなどを片付けていく。この本は一点物のようだ。
「はい。必ず来ます」
「いい知らせと一緒に待ってるよ」
 嵯峨野さんは、本を持ってレジ付近にある棚にしまう。近くに置いていた付箋らしきものに何かを書いて貼り付けるところまで見守ると、時計に目をやってびっくりした。
 移動時間を考えると、もう行かなくてはならない時間だったのだ。

「すみません……またゆっくり来ます」
 一言嵯峨野さんに挨拶し、「また来てね」と手を振るところまで確認すると、わたしは慌ただしく店を後にする。
 何故か行きよりも足取りは軽く、暑いのにかなり浮かれていたのだった。

***

 余裕をもって動いていたつもりが、思っていたより移動に時間をかけてしまったらしい。
 駅に着いた頃には十三時の五分前で、先に三人が集まっていた。
「ご、ごめん……!」
 慌てて駆け寄ると、みんなは嫌な顔も見せずに笑顔で迎えてくれる。
「梨乃っちー! おひさだよぉ!」
「まだ五分前だから大丈夫」
「そうそう。そんなに気にしなくていいよ~」
 三者三様の反応を見せ、わたしもようやく笑顔になれた。
「暑いし早く移動しよ」
「おなかすいたー!」
 ヤマちゃんとアイちゃんが同じタイミングで口を開いた。思わずぴたりと動きが止まり、二人が顔を見合わせているのを見て、わたしとミナちゃんが噴き出す。
「二人は本当に仲良しだよね」
「そうそーう! だからごはん~~~いこ~~」
 アイちゃんは甘えた声でそう言いながら、よろよろとわたしに近づいてぎゅっと抱きついてくる。
「アイ、暑苦しいでしょ」
「いいもーん! ねー梨乃っち」
 突然のことに驚いたし、何より急いで来たから自分の汗臭さが気になる。けれど、抱きつかれたことが嬉しくて、振りほどこうとは思わなかった。
「とりあえず、ファミレス行こ?」
 一向に先に進めないことが分かったのか、ミナちゃんが提案して歩きはじめる。
 それに合わせて残りの面々も後に続き、ようやく空腹を満たす場所へ歩き出した。


 わたしたちがやって来た場所は、以前榊くんと香澄先輩の三人でご飯を食べたファミレスだ。十三時を回ったとはいえ、夏休み効果で店内は混み合っている。
 しかしちょうど団体が二組出て行くのとすれ違いに入店したため、それほど待たずに席へと案内された。店内は騒がしいが、外の猛暑から解放されたことで気にもならない。どうせわたしたちもこの騒がしさに加担するのだ。文句を言える立場ではない。
「私冷やしうどんにしようかな~。でも、ハンバーグも捨てがたいよね」
「私は新メニューも気になるかな」
「おっ! ヤマちゃんは相変わらず新メニューと期間限定に弱いね! さすがっ!」
「アイはさっさと選びなさいよ」
「私はオムライスにするもーん」
 わいわいと賑やかなやり取りを交わし、ドリンクバーとそれぞれ食べたいものを注文する。それからドリンクを素早く調達し、ようやく一同は一息つくことができた。
「うまい~!」
 アイちゃんがドリンクを一気飲みし、もう一度取りに行く姿を見届けながら、わたしもちまちまオレンジジュースに口をつける。
 古本屋から割と急いで来たせいで、渇いたのどにはたまらない味だった。潤うことで安心し、自然と溜息が零れる。その間にアイちゃんはメロンソーダを片手に戻ってきた。

「報告がある」
 全員が落ち着く頃を見計らって、ヤマちゃんがぽつりとそう言った。
「どしたどしたー? 宿題終わったから写させてくれるのかー?」
「アイちゃん。今はヤマちゃんの話を聞こうねー」
 まるでお母さんと子どもみたいな会話が間に挟まりながら、緊張気味のヤマちゃんが話を続ける。

「私、その……和泉と付き合うことになった」

 そしてこれが、今日一番盛り上がる話題になることを、わたしはまだよく理解していなかった。
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