図書室の住人

44.前に進んだわたしたち

「お邪魔しましたー」
 香澄先輩と一緒に帰り支度を済ませ、榊家を後にした。
 もっとここにいたいという気持ちは強かったけれど、あまり遅くなるわけにはいかない。二十時を過ぎ、名残惜しくも帰らなければならない時間となっていた。
 夏とはいえ、さすがに空も暗い。
「またいつでも遊びに来てね!」
「お気をつけて」
 榊姉弟に見送られながら、エレベーターへと乗り込む。
 扉が閉じる瞬間が寂しく、なんだか夢から覚めたような気分にさせられる。けれど、全部現実だ。
「楽しかったね」
 にっこりと微笑みかけた先輩に釣られて、わたしも一緒に笑う。
「はい」
 返事をしているうちにあっという間に一階へとたどり着いていて、こんな風に今までの時間も流れていたのかもしれない、と黄昏るようなことを考える。
 よく考えれば、こんな時間に家族以外の人と出歩いたことはないかもしれない。
 いや……和泉くんともこうして一緒に帰ったっけ。あの時は驚きの展開が続きすぎて、勢いでとんでもないことを口にしたと思う。だけどあの時間がなければ、確実に今の自分は存在しない。

 ふわふわとした気持ちのまま、マンションの外に出た。夜とはいえ、生ぬるい空気は相変わらずだ。夕方よりは多少涼しい気もするが、歩けばその多少という表現は無意味になる。
 しかし、今そんな気温のことはどうでもよかった。
 それよりも……気になることがひとつ。
「……」
「……」
 いつもならよく喋る先輩が、今は無言だった。妙に静かに感じ、変な緊張感が過ぎる。
 ちらりと様子を伺うと、いつも見る穏やかな表情がそこにあった。なのに違和感は拭えない。
 何と表現すべきか悩むけれど、ちょっとだけ親近感が湧く。
 そう……どこか、黄昏ているように見えたんだ。
「あのっ」
 静寂に耐えられなかったのではない。気付けば声をかけていた、それだけの話だ。
 だけど、わたしの声は届かない。
 こんなに静かで、先輩はいつもと変わらない表情を浮かべているのに、珍しくぼんやりしているせいで気付いてもらえなかったのだ。
「香澄先輩?」
「え? あ、どうしたの?」
 二度目の声かけで反応した先輩は、少し動揺を見せる。ここでようやく、普通を装っても心はここにないことに気が付いた。意識は先輩の世界にあって、それがどんなものか、知る術はない。
「あ、いえ……ぼんやりされてたので……どうしたのかなって」
 初めて一緒に帰ったあの日とは真逆の立場に立たされているような気分を味わいながら、わたしは控えめに尋ねる。
 いつもならわたしとのやり取りなんて涼しげな顔でさらりとこなすのに、今の先輩は様子がおかしかった。驚くくらい困った表情で、返答に悩んでいるようだったから……。
「あはは。なんか俺、変だよね」
 でも、先輩はごまかしたりすることなく、わたしが感じていた違和感について言及する。逆にわたしの返答が困るくらいだ。
 ゆっくりと静寂を歩きながら、この時は無言を貫く。シャッターが閉まっている商店街の通りに入ると、さらに静寂が深まったような気がした。
 少しの間、わたしたちも会話が途切れたけれど、わたしの無言を肯定と受け取られてしまったのか……先輩はぽつぽつと言葉を紡いでいく。
「今日ちょっとだけ、優里さんのこといいなって思っちゃった」
 ほんの少し照れた表情で、はにかみながら先輩はそう言った。
 あまり驚かなかったのは、もしかしたら心のどこかで予想していたから……かもしれない。
「あ、なんとなく分かってた?」
 わたしの様子で察したのか、笑いながら尋ねてくる。本人にここまで話されたら隠す必要もなくて、遠慮なくこくりと頷いた。
「えっとね。勿論『なんとなくいいな』って思っただけだから、恋かどうかは分からないんだ。でも、一緒にいたらすごく楽しくて、安心できて、それに可愛かったし……って、何言ってるんだろうね」
 苦笑しながら話す先輩に、わたしはどんな言葉をかければいいだろう。
 先輩が抱いた想いの正体を決めつけるには早く、まだまだ未熟な自分にも分からない。
 だけど、いつの日か話してくれた先輩の話を思い出すと、何故だか嬉しい気持ちが溢れていく。
「立花さんに自分の話してからさ、考えたんだ。そりゃあ、悔しいし諦めがつかないこともあるし。怖いとか不安とかもあるし……」
「はい」
「でも、どんなことだって怖いし不安だし、何にだってすぐ気付けたりできるわけでもないし。それに、普通に生きてたら、俺の人生が明日終わるわけでもないし。先が長い未来まで悲観的になるのは……勿体ないよね」
 先輩が見つけた道筋を、わたしは素直にすごいと感じていた。たった一度話した後に、ここまで考えられることに対して尊敬する。
 ……いや、そうじゃない。
 ずっと先輩は悩んでいたはずだ。悲しくて悔しくて、そういう想いと闘い続けたはずなのだ。その結果を、一歩を踏み出すキッカケのひとつに、わたしも含まれているという話。
 止まった時間が、動き出したんだ。
「わたしは……先輩がどんな答えを出しても、応援したいです」
 適切な答えか分からないけれど、溢れた言葉を取り消そうとは思わない。それが恋じゃなくたって、立ち止まった先輩が動き出すキッカケとなったその想いは、きっと大切なものに違いないと思うのだ。
「わたしも、いろんな感情に振り回されて、たくさん勘違いして、回り道して、やっと今ここに立ってます」
 その中に香澄先輩がいて、和泉くんがいた。いろんな想いに翻弄されて……それでも想いの正体に気づくことができた。その答えを見つけることができた。
 見つけたから、今日わたしは、

「今日わたし、榊くんに好きって言いました」

 気づけば、さっき躊躇った報告をしていた。
 先輩は一瞬驚いた様子を見せたけど、すぐに柔らかく微笑む。
「まだ返事はもらえてないんですけど……わたし、やりました」
「え? 返事保留なの?」
「あ、はい」
「意外だなー。絶対両思いだと思ってたのに」
「えっ」
 話が脱線する音が聞こえる。いつもの先輩がひょっこりと顔を出し、気付けばわたしの話にすり替わっていた。
「と、とりあえず……わたしとしては、先輩が前にちょっとでも進んでくれたら嬉しいですっ」
 何だか照れくさくて、無理やり軌道修正を試みる。
 話しながら歩いていくうちに商店街を通り抜けていて、閑静な住宅街に入っていた。
「そうだね……とりあえずそういう可能性も、考えとかなきゃね。というかさ、何でこう年上に惹かれちゃんだろうね。ははっ」
「同じクラスの人とか気にならないんですか?」
「うーん、そうだね。告白されてもとりあえず付き合うって選択肢はなかったかも。恋したくないって気持ちもあったんだろうけど……多分、単純に年上の人が好きなだけなのかもなぁ」
 気づいた時には、先輩の好きなタイプの話になっていた。
 前に好きな人だった人は七歳年上で、優里さんとは六歳差。
 この事実に気づくと、先輩はほんの少し複雑そうな表情を浮かべていて、わたしも少しだけおかしくなって笑う。
 心の中で、先輩が年上に惹かれてしまうのは、誰かに甘えたいからかもしれないなんて思う。けれど、それはあえて言わなかった。両親共働きで甘えられなくて、無理してしっかり者を演じていたことだって、もしかしたらあるのかもしれない。
 ……なーんて、全部妄想だけど。

 住宅街を歩いた先に公園があり、隣に建っているわたしの家が見えてくる。話していると帰り道もあっという間で、先輩ともここでお別れだ。
「なんか、いろいろ話聞いてくれてありがとね」
 にっこり笑いかける先輩はどこかすっきりした様子で、わたしも自然と笑顔になる。
「わたしも、いつも聞いてもらってますから」
 今日だって別に、わたしは何かしたつもりはない。役に立った実感だってない。でも、知らないところで先輩の助けになれているのなら、それは嬉しいことだと思う。
「じゃあ、また宿題会でもしよっか」
「そうですね。ぜひ!」
「またメールするよ」
「はい。では、お気をつけて」
「はーい。おやすみー」
「おやすみなさい!」
 家の前でまたひとつ未来の約束を交わし、先輩は帰り道の続きを歩きだした。去っていく背中を見送りながら、今日が終わる現実を噛みしめる。

「……言っちゃったのか……」
 そして今更、ずしんと告白の事実がのしかかってきたのだった。
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