図書室の住人

43.幸せな食卓

 買い物自体は特に何の問題もなく、あっさり終わった。
 ごま油はスーパーで、デザートは榊家お気に入りのケーキ屋で特に好きなショートケーキを人数分買った。元々買い物自体の難易度は低く、苦戦するようなことは一切ない。
 苦戦といえば榊くんとの会話だが、先程まで抱いていた気まずさは弾む会話でかき消され、行きの静けさが嘘のように語らい合った。
 毎年どんな風に夏休みを過ごしているかとか、家族の話とか。
 わたしは基本的に本ばかり読んでいるけれど、全員の都合が合えばたまに旅行に連れて行ってもらえたりとか。
 榊くんの家も旅行に行くことがあるらしく、今まで行った場所やこれから行きたい場所について話す時間は楽しかった。
 家族のことは主に榊くんの家のことで、優里さんがバリバリの事務系の会社員で、社会人四年目の二十四歳なこととか、両親もなかなか優里さんに似てサバサバしているのだとか。
 うちは両親がほんわかしているからと話すと、うちに遊びに来てくれた時の話で、また話が広がったりだとか。
 話しているとあっという間で、気付けば榊くんの家に辿り着いていた。
 オートロックを開き、エレベーターのボタンを押して到着を待つ。少しの無言の時間が流れたけれど、今はそれも気まずいとは感じなかった。
 勿論、すべてがいつも通りに戻ったとは思わない。
 気にしていることはいくつかあるし、たとえ気にしないようにしていたとしても、心臓の音はごまかせないのだ。

「先輩」
 エレベーターが一階に辿り着き、扉が開いた瞬間。不意にわたしは呼ばれた。榊くんはわたしを見ないままエレベーターに乗り、とりあえず同じように続いて乗り込む。
 開くボタンを押していた榊くんが目的地である五階のボタンを押し、扉が閉まるとエレベーターは動き出す。
「夏休みの終わりに」
 それから、ぽつりぽつりと、帰り道に楽しげな様子で話していた時よりも、何倍も緊張した声色で、大きな背を向けたまま榊くんは話し出した。
 エレベーターが動き出したように、わたしたちの一度保留とされた時間が、動き出す。
「夏休みが終わる頃、会ってくれませんか」
 それは、逃げ道を塞ぐような誘いだった。
 いつも榊くんが『忘れてください』となかったことにしていたから、そんな失礼なことを考えてしまうのかもしれない。
 しかしエレベーターというものは到着までそれほど時間がかかるものではなく、返事をしようと思った時には扉が開いていた。榊くんは開くボタンを押したままで、わたしはまだこの場を動けない。多分、返事をしないと進めないのだろう。そんなシステムを組み込まれたかのような感覚が駆け巡った。
「分かった」
 とはいえ、答えは一つしかなかった。
 頷く以外の選択肢は存在しないし、あってはいけない。
「また連絡します」
「うん……待ってる」
 ここでようやく安心した表情の榊くんと目が合い……またわたしたちの時間は止まる。
 さっさとエレベーターから降りると、榊家はすぐそこにあり、鍵のかかっていない玄関の扉を開いた。

***

「おかえり」
 靴を脱いでいる間に、玄関の音に気付いた香澄先輩がわざわざ出迎えに来てくれた。それから少しして、いい香りが漂っていることに気が付く。家を出た時には感じなかったそれは空腹を刺激し、思わず音が鳴ってしまいそうなのを堪えた。
「もうちょっと時間かかるみたいだから、部屋で宿題でもしててってさ」
 香澄先輩のにこやかな状況説明を聞きながら、玄関先に飾ってあった置物の時計に目をやる。まだ予定の時間よりはだいぶ早そうだ。
「姉貴の手伝いありがとうございました」
「ううん。いろいろ楽しかったから大丈夫」
 申し訳なさそうな榊くんとは対照的に、香澄先輩は意外と満足げな表情で答えた。何があったんだろうということよりも、先輩の普段と違う反応がなんとなく引っかかる。
 が、その話題もすぐに流れていき、一同はぞろぞろと廊下を歩いてリビングへと訪れた。リビングを通らなければ榊くんの部屋には辿りつけないのだ。
「おーい。買ってきたぞー」
 榊くんは隣接しているキッチンへと向かい、戦利品を優里さんに手渡していた。ちなみに見通しの良いカウンターキッチンのため、わたしたちもリビングにいながら優里さんの様子はうかがえる。
「おかえりーサンキュー。あっ! アンダンテのケーキじゃん! 悠吾にしては気が利くわね」
「うっせーよ」
 また喧嘩が始まるかと思いきや、楽しそうに話すだけに止まった。心の中でホッとしつつも、姉弟の微笑ましい会話にほっこりする。と同時に、榊くんの普段は見せない一面に妙な高揚感を抱いていた。
「予定通り十八時半ごろになりそうだから、もうちょい宿題してなさいな」
「おう」
 会話が一区切りついたところで、榊くんがキッチンから出てくる。三人はぞろぞろと移動を再開し、今度こそ榊くんの部屋で宿題に励むのだった。


 宿題が軌道に乗り、目標ページ数を超えた頃、だんだんと食欲をそそる香りが強まっていた。密かにくんくんと嗅覚に集中しながら、おいしそうなハンバーグ匂いなんて予想を立ててしまう。勿論空腹感はピークに達し、だんだんと問題に集中できなくなってきた。
「できたよーっ!」
 扉をノックする音が聞こえたと思ったら、すぐに大きくて可愛らしい声が飛び込んできた。時計に目を向ければ約束の時刻で、ぷつんと勉強に費やしていた集中力は途絶える。
「行きましょうか」
 最初に榊くんが立ち上がり、それに続いてわたしたちも動き出した。

 部屋を出ると、正方形のローテーブルにたくさんの料理が並べられているのを確認する。
 さっき予想していたハンバーグや、彩り豊かなサラダ、魚のフライ、たまごのスープ。様々な料理はどれもおいしそうで、わたしはよだれが心配で思わず唾を飲んだ。
「好きなとこ座ってー」
 既に座っている優里さんの目の前を、特に迷うことなく榊くんが座った。おそらく定位置なのだろう。わたしも空いた席に座り、目の前に香澄先輩が座った。
「さ、みんな手を合わせて」
 食べる前の恒例の儀式は榊家も共通のようで、
「いただきますっ」
 初めて四人で食事をするというのに、やけに揃った声が不思議なようなおかしいような、だけどあったかくて心地よく感じられる。
 しかしそんな余韻に浸ったのは一瞬の話で、目の前に広がる料理を一刻も早く口にしたい気持ちには勝てなかった。
「おいしい……」
 一口食べて、無意識に呟いてしまうほどに優里さんの料理はおいしかった。絶品といってもおかしくないのだけど、そんな言葉で収めてしまうのは勿体ないほど、とにかくわたしの大好きな味がそこにあったのだ。
 形の整ったハンバーグにかかっているソースは、まるでレストランで食べたことのあるようなデミグラスソースで、ふわふわした食感に思わずうっとりしてしまう。
 サラダもただ千切っただけとは思えないほど、見た目もこだわっているように思えた。レタス、トマト、玉ねぎ、卵……カリカリに焼いてあるベーコンもおいしい。かかっているドレッシングも食べたことのない味で、だけど優しい味だった。
 優里さんは、
「千切ってお皿に並べただけだよ? あ、そっちのフライは揚げただけ」
 なんて謙遜するが、料理とは無縁のわたしにはとてもそれだけで成せる業ではないと尊敬の眼差しを向けた。
「榊くんってこんなにおいしい料理をいつも食べてるんだー。羨ましいなぁ」
「そうなんですよ。暴力と喋らなければ最高の姉です」
「悠吾、あんた喧嘩売ってんの?」
 弾む会話が更に料理をおいしくしてくれているようで、普段そこまで食べないわたしの箸は順調に進んでいた。今だけでも胃が大きければ……なんて気持ちが生まれてきそうなくらいに、おいしかったのだ。

「ごちそうさまでしたー」
 食べた時と同じように、食べ終わった後も声を合わせると、一気に満腹感がわたしを襲う。少し食べ過ぎてしまったけれど、後悔はない。
「とーこーろーでー?」
 食器を流し台に置いてきた優里さんが、突然ニヤッと何か企んでいるかのような笑みでそう言った。視線はわたしと榊くんを交互に向けていて、料理の余韻に浸っていたわたしには心当たりを探すことすら億劫になっている。
「……いや、いいわ。やめとく」
 しかし本題に入ることはなく、優里さんは立ち上がって「デザートでも食べよっか~」とキッチンへ向かった。
「なんだよ、気持ち悪い」
「あぁ? あんた喧嘩売ってんの?」
「どんだけオレ喧嘩の安売りしてんだよ……」
 二人で仲良く喧嘩しつつも、てきぱきとデザートの準備をする二人のコンビネーションは見事だった。机を拭きながら新しい皿を並べる優里さんに、ケーキを置いていく榊くん。手伝う間もなく、喧嘩が終わる頃にはケーキをフォークですくうところだった。
「これ、すっごくおいしいケーキだからっ! 二人とも遠慮せずに食べて!」
「ショートケーキが最高なんですよ」
「そうなのよ~~」
 好きなものに対する共感については別の意味で息がぴったりで、喧嘩をしている時とは空気がガラッと変わって微笑ましい。
 言われるがままに食べてみると、確かに今まで食べたどのケーキよりもおいしかった。
「これなら何個でもいけそう」
 香澄先輩が好きな本を見つけた時のような嬉しそうな表情を浮かべていて、わたしも釣られて頷く。
「でっしょー! 商店街の方にある『アンダンテ』っていうケーキ屋なんだけどねー。もう昔っからおいしくて! 超オススメ!」
「俺も今度行ってみます」
「うんうん! 他のねー、チーズケーキとかガトーショコラもおいしいのっ」
 優里さんと先輩が楽しそうに会話する姿を見守りながら、なんだかほっこりと温かい気持ちを抱いていた。
 確信は持てないけれど、なんとなく、今の状況にぴったりの言葉が頭の中を駆け巡る。
「ごちそうさまっ」
 先に食べ終えた榊くんと少しの差で食べ終えたわたしは、立ち上がりキッチンへ向かう榊くんの後を追う。
 そんなわたしたちに気を留めるわけでもなく、ケーキから別の他愛もない話をしている二人の様子を、キッチンからこっそりと盗み見ていた。
「先輩、楽しそう」
 別にいつも楽しそうじゃない、わけではないことは分かっている。わたしたちと話す時だって、いろんな表情を見せてくれていた。
 だけどそれとは違う、何か別の一面を見たような気がするのだ。
「そうですか?」
 榊くんは不思議そうな様子で尋ねたけれど、
「うん。なんだか幸せそう」
 確信なんてないはずなのに、気付くとそんなことを口走っていた。
 おかしなものだ。
 昼間はあんなに自分のことで精一杯だったのに、今は周りを観察していられる余裕があるだなんて。
 思わず笑みを浮かべながら、もしかして普段、先輩もこうしてわたしを見守ってくれてたのかな、なんて妄想を膨らませる。
 わたしは今まで、こんなささやかな幸せに見向きもしなかったんだなぁ。本を読むだけでは得られない世界はこんな感じなのかな。
 いろんな想いと、ちょっとした後悔がぐるぐると渦巻いていく。
「相手が姉貴なのはちょっと気の毒ですけど……香澄先輩が楽しんでるなら、オレもなんか嬉しいです」
 ようやく何か感じ取ったのか、榊くんも同調するようにそう言った。

「悠吾ー。そこにいるならお茶持ってきてよー」
「ういうい」
 見守っているうちに優里さんから声がかかり、仕方ないと言いたげな表情で冷蔵庫から麦茶の入った入れ物を取り出す。食器棚から可愛らしい犬のキャラクターが描かれたグラスを二つ取ると、音を立てて麦茶を注ぎ、キッチンから離れていった。
「ほれ。先輩もどうぞ」
「ありがとー」
「ありがとう」
 さっきまで眺めていたリビングに榊くんも加わり、麦茶をそれぞれ渡していく光景を見守る。わたしもそこに加わるべきだったが、何故かその時足は動かなかった。
 いつまでもこの光景を眺めていたい。
 そんな想いが、わたしをキッチンに縛り付けているようなそんな気がしていた。

 この時初めて、幸せすぎて怖いと、自分を抱きしめた。
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