図書室の住人

42.お預けはお預け

「香澄くん、梨乃ちゃん。今日ご飯食べていかない?」
 榊くんが飲み物を取りに行って二十分経過した後、優里さんが部屋にやってきて、そんな誘いを持ちかけた。
 もちろん、突然のことに驚き、わたしと先輩は顔を見合わせる。
「今日両親いなくてさ、私のとっておき料理をバカ弟と二人で食べるっていうのもなんだか味気ないし。もし都合よかったらどう?」
 さっきまで榊くんと言い争っていたのがうそみたいに……とまではいかなくても、やはり見た目と違ってさばさばしている話し方だな。
 心の中でそんなことを思いながら、わたしは携帯を取り出す。
「あの。家に連絡してからでもいいですか?」
 いつも夕方くらいには家に帰って、お母さんが用意してくれたご飯を食べていた。今日もそのつもりだったから、連絡をしなければという使命感がわたしの中にあったのだ。
「うんうん。家族への連絡は大事よ。もしおうちの方が用意してたら申し訳ないしね。無理強いはしない」
 帰さない勢いだったらどうしようと思っていたが、心遣いのできるお姉さんだった。小さくホッと安堵のため息をつく。
「俺は今日外食でもして帰ろうと思ってたんで、大丈夫ですよ」
「おっ! じゃあ香澄くんは参戦ね。おうちの人はお仕事とか?」
「えぇ、急な出勤になってしまって。夜も遅いって話を聞いてたんで……お誘い嬉しいです」
「うんうん、任せてー。料理には自信あるんだから」
「料理だけだろ」
「へー? 悠吾、そんなこと言うんだ?」
「うっ……」
 楽しげな会話をバックに、わたしはお母さんが出てくるのを待つ。お母さんの携帯に直接連絡すれば、おそらく大きな問題にはならないだろう(お兄ちゃん辺りに見つかると何が起こるか分からない……)。
『はーい。どうしたの? 梨乃ちゃん』
 四度目のコール音を聞き終える前に、お母さんはいつものほわほわとした空気感で着信に応答してくれた。ホッとしながらも、わたしは簡単に用件を伝える。
 香澄先輩も榊くんも家に遊びに来たときに会っているので、帰りは香澄先輩と一緒だから大丈夫であることを告げると、あっさりと承諾してくれた。
『ちょうどよかったわねぇ~。理斗くん、さっき大学のお友達と飲んでくるって出てったのよ』
「えっと、ごはん大丈夫?」
『うん! なんとなく梨乃ちゃんも食べてくる気がしたし、まだ準備もしてないから~。たまにはお父さんと食事でもしてくるわ』
「ごめんね。ありがとう」
『楽しんできてね』
「うん!」
 電話を終えると、誰かの視線に気づいてその方向を見つめる。辿ってみると優里さんと目が合って、ほんの一瞬戸惑った。その表情はわたしから見てすぐに分かるほどいい笑顔で、逆にどんな顔をすればいいのか分からないものだった。
「梨乃ちゃんも大丈夫そうね! よしよし」
 見ていたということは、おそらく電話でわたしが話していることも聞いていたのだろう。答える暇もなくわたしも参加することに決まり、楽しそうな優里さんの勢いに乗っかる。
「んじゃ、そうねー……十八時半! リビング集合ね! それまでに準備するから!」
 やる気満々の様子になんだかこちらまでも楽しくなってきて、ようやく普通に笑顔が浮かぶ。料理が本当に好きなのか、誰かにごちそうするのが好きなのか、その真実は分からない。でも、楽しそうな姿を見ているとわたしも嬉しくて、どんな料理が飛び出してくるのかとわくわくする気持ちがわいてくるのだ。
「俺手伝いましょうか?」
 わたしがふわふわと浮かれているうちに、香澄先輩が気遣うようにそう尋ねた。
 確かにご馳走になるだけでは申し訳ない。なんて後から思い始め、出遅れたことに少しの後悔をかみ締める。
「うーん、大丈夫かな……いや! 香澄くんには手伝ってもらおうかな!」
 優里さんががしっと香澄先輩の腕をつかんでそう言った。
 ほんの少し頬を赤に染めた先輩の表情に思わず目を奪われそうになったけれど、今度はぼやぼやしていられない。
「あ、じゃあわたしも」
「ううん。梨乃ちゃんはゆっくりしてて」
 先輩に倣ってわたしも名乗り出たが、そこはなぜか却下された。
 やっぱり出遅れてしまったことが引っかかり、大して気にすることではないと分かっていても、少しだけ気持ちが沈んでいく。
「いや! 梨乃ちゃんには悠吾とおつかいに行ってもらう!」
 その些細なわたしの変化に気づかれてしまったせいだろうか。あっさりと先ほどの言葉をひっくり返し、そんな指令を下した。もちろん、役割を与えてもらえたことは嬉しい。
 でも、問題は……。
「あ、あの」
「よろしくね」
 ささっとすばやくお使いのメモを用意した優里さんは、それはもう、さっきの楽しそうな表情とはまた違う……何か面白いものを見つけたかのような顔をしていて、そのメモをわたしに握らせた。
「姉貴何を無理やり……」
 さすがに強引過ぎる展開に榊くんも黙っていられなかったのか、自分も役割に加えられたことが不服だったのか、榊くんも割り込んで抗議する。
「はあ? せっかく梨乃ちゃんが名乗り出てくれたのに、その優しさを踏みにじる気? そんで香澄くんや梨乃ちゃんが手伝ってくれるのにあんたが何もしないのはおかしくない?」
「……分かったよ」
 だけど早々に諦めてしまい、ため息をつきながら財布を駆け足で取りに行く。
 なんだかとんでもないことになってしまった……。
 わたしはどんな顔をしていいのかも分からず、ただただ立ち尽くすしかできない。
 あっという間に取りに行った榊くんはそのまま玄関のほうへと向かい、わたしも後をついていく。その後ろには優里さんと香澄くんもいるようだった。
「悠吾。ちゃんと帰ってくるのよ」
「どんな心配だよ!」
「ほら……まあ、いろいろよ。言わせんじゃないわよ!」
「いや! わけわかんねーから!」
 姉弟の軽快な会話を聞きながら、加速し始めた心音に早くも動揺が過ぎる。
「ほら! さっさと行く! 梨乃ちゃんも気をつけてね!」
「は、はい……」
 優里さんに背中を押されながら、わたしと榊くんは玄関先まで見送られる。先に靴を履く榊くんを見守っていると、不意に腕を引っ張られた。
「……まあここは、私が香澄くんと二人っきりになりたかったってことにしてあげるから。ゆっくりしてらっしゃいな」
 耳元でささやいた優里さんは優しく微笑み、わたしに言い訳をくれる。まるですべてを見透かしているようだ。そういうところは香澄先輩そっくりで、不覚にもドキッとしてしまう。
「じゃあね~!」
 返事をする間もなく、わたしと榊くんは追い出されるように家を出た。
 思わずぽかんと扉を見つめ、榊くんと顔を見合わせる。
「い……行きますか」
「……うん」
 そうしてわたしたちは気まずい空気の中、ゆっくりと歩き出した。

***

 今まで何度も一緒に歩いたはずなのに、今日はまったく会話が浮かばなかった。むしろどう接していたのかも、普段どんな話をしていたのかも分からない。いや、結構そういうことはあったのかもしれないと思う。榊くんがいつもと違ってたりして、ドキドキしていたことも多かったかもしれない。
 一方の榊くんも、わたしと同じ様子でぎこちなく、落ち着きのないまま無言になっていた。
 まだ十六時を過ぎた空は明るく、時折夏休みで楽しそうに遊んでいる小学生とすれ違う。気を紛らわすように見つめたおつかいメモには、
『ごま油(とりあえず今日の分はある)・なんかデザート(おまかせ)』
 と、特に緊急性の高い項目は記されていなかった。
 小さくため息をつきながら、わたしはただひたすらにうるさく鳴り響く心音に耳を傾ける。
 おそらく、気を遣ってもらい与えられたチャンスだ。それを無駄にはできない……がんばってさっきの返事を聞かなければ……。そうはいっても、勇気を使い果たしたわたしにはもう、この沈黙を破る術を見つけることなどできなかった・

「あの」
 すべてを諦めようとかと考えていた矢先、榊くんの方から沈黙が破られた。
「は、はい」
 心臓がはねたような衝動に頭が真っ白になりながらも、気づかれぬようにと返事をする。
「さっきの……話、なんですけど」
 ぽつりぽつりとつぶやくように、ほんの少し気まずそうな顔をしながら、榊くんはゆっくりと立ち止まった。
 さっきの話って?
 と尋ねるほど、わたしは鈍感でも愚かでもない……つもりだ。
 まさしく先ほどから考えていた聞きそびれた返事だろうと察し、覚悟を決めるようにぎゅっと拳に力を入れる。
 何を言われても大丈夫。
 この世界には何億の人間が存在していて、そのうちの二人が惹かれあって恋人になるだなんて、奇跡みたいなものだ。それに榊くんは人気だから、わたしの知らない場所でわたしの知らない誰かを好きになっていてもおかしくない。
 夏休み前、榊くんと図書室でやり取りした……わたしが自覚してしまったあの日、確かにわたしはそんなことを考えていたと思う。
 わたしはもう、好きと言ってしまった。
 もう戻れないことは分かっているし、もはやわたしにできることも思いつかない。
「うん」
 妙に静かな夏の夕暮れ。
 大きく返事をして、まっすぐ榊くんを見つめた。
 怖くて震えそうな声を必死に抑えながら、不安が顔に出ないように不自然なほどの笑顔を浮かべながら。たった数分、数秒が永遠のように感じながらも、言葉を探している榊くんを見守る。

 それから少しして、榊くんはひとつ深呼吸をした。
 それを合図として、静かな世界にひとつの声が響き渡る。
「少し、時間をくれませんか」
 生ぬるい風とともに運ばれてきた返事は、どちらの答えでもない。イエスかノーか。そのどちらかしか想定していなかったわたしにとっては意外で、言葉を失う展開だった。
 ぽかんとしているわたしなどかまうこともなく、榊くんは続きの言葉を口にする。
「あの、オレの答えは決まってます。ただ、ちゃんと気持ちを整理して、その……ちゃんと言いたいんです。オレ、まさか先輩に告白されるなんて……思わなくて」
 一生懸命話してくれる言葉ひとつひとつが、さらにわたしの思考を狂わせる。思いついたと思った言葉を、片っ端からつぶしていくようだった。
 真っ赤な頬は夕焼けと同調して、ひどくまぶしく感じる。でもちっともその赤色は困った様子を見せなくて……優しくて、あたたかな笑みを浮かべていた。
「姉貴が気を遣ってくれたのは、まあ……よかったんですけどね。でももう少しだけ、その、期待して待っててください」
 今まで見たどの笑顔よりも魅力的で、吸い込まれそうだった。わたしは言葉を失ったまま、どんな顔で、どんな反応を示すべきか悩む。想定外すぎる展開に頭がついていけない。
「それじゃ、さっさと買い物行きましょうか。姉貴に怒鳴られないうちに」
「う、うん……」
 まるで、榊くんが時をとめていたかのように、榊くんが歩き出した瞬間、ようやく返事をすることができた。隣を歩きながら、少しずつ先ほど起こった出来事を振り返り、考え始めていく。


 期待して待っててください。
 その言葉の意味は、きっとひとつしかない。
 けれど今はまだ……その意味を受け入れる余裕はなかった。
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