図書室の住人

41.きっと、大丈夫。

「本当に……すみません」
 榊姉弟のバトルを二ラウンド分観戦した後、埒が明かないとのことで優里さんはリビングへ残り、わたしたち三人は榊くんの部屋に移動する。それから部屋の扉が閉まるのを確認すると、ものすごい勢いで榊くんが土下座をはじめ、わたしと香澄先輩は何度も顔を上げるようにと説得していた。
「うちの姉貴、黙ってたら普通に見えるんですけど、口を開けば最悪で」
 ぽつぽつと話をする榊くんは今にも泣きそうな震えた声をしている。予定外だったこともあり、驚いているのだろう。
「大丈夫だよ。俺たちは面白いものを見れて満足だし」
「えっと……見世物じゃないんですけど……」
「ああ、ごめん。珍しくてつい」
 フォローしているつもりが逆効果なパターンで、香澄先輩の言葉に榊くんは苦笑している。やはり二ラウンド分の喧嘩は疲れるのだろう。その後に漏らした盛大なため息からは疲れが感じられた。
 ひとまずわたしは先ほどと同じ、ベッドを背もたれにして座布団の上に座る。真ん前には香澄先輩が、斜め右の扉近くには榊くんが腰を下ろした。
「でもいいお姉さんだよね。可愛いし、意外と男らしいというのもギャップがあるし」
 宿題の問題集を取り出しながら、香澄先輩は優里さんについて話を始めた。そんな風に話し始めるのがなんだか意外に思う。
「変なフォローしなくていいですよ、香澄先輩」
「いや、本当のことだけどね。困ってた俺に声かけてくれたし」
「それは……本当にすみませんでした!」
 呆れたり、はたまた再び土下座を始めてしまったり、榊くんの方は忙しいようだ。多分、先輩がこの話を持ち出す度に土下座をしているかもしれない。
 だけど本当の原因はわたしだ。わたしがあの時あんなことを言わなければ、あのやり取りがなければ、こんな風に榊くんが土下座することもなかった。そう思うと、わたしも一緒に土下座すべきではないかという迷いが生じる。
「じゃあ、許す代わりにひとつだけいい?」
「は、はい! 可能な限りで!」
 そうこうしているうちに、香澄先輩が提案を持ちかけた。おそらく、罪滅ぼしの機会を与えることによって、榊くんの罪悪感をなくす作戦なのかもしれない。榊くんもここぞとばかり食いついている。
「出られなかった理由、聞いてもいい?」
 しかし、先輩の次の言葉は、榊くんを固まらせるには十分だった。
「えっ!?」
 返す言葉も声にならない榊くんよりも先に、わたしの口から反射的に驚きの声が漏れる。しまったと後悔したのは、異常ににこやかに微笑む先輩の顔を見たときだった。……完全に失敗した。
「冗談だよ。ここは立花さんに免じて聞かないことにするよ」
 すべてを見透かされているような気がして、わたしも榊くんもろくに反応することができなかった。
 顔を見合わせてみれば、先ほどの出来事を思い出して顔の熱が上昇していく。すぐに目をそらし、不自然な態度が何かあったと気づかれる原因であることに、残念ながらこのときのわたしたちが知る由もない。
「じゃあ、宿題……って雰囲気でもないか。何か話でもする?」
 問題集を開こうとしてやめた先輩が、にこやかにそんな提案を持ちかけた。その様子は明らかに気を遣っていて、わたしの心の中がざわざわと落ち着かなくなる。
 ふと思い出したのは、初めて香澄先輩の家に行った後……気を遣われて榊くんと二人っきりになったときのこと。あの時確か、わたしは気を遣われたくないと思っていた。何かあっても三人でいられたらいい、なんて。それを三人で話したことだって、ちゃんと覚えている。
「宿題! しましょう!」
 空気も読まずに叫びだすわたしを、先輩と榊くんはきょとんとした様子で見つめていた。そんな二人にかまわず、机に置きっぱなしにしていた問題集を手に取り、適当なページを開く。
「わたし、先輩に教えてもらいたいところあるんです! えっと……数学なんですけどっ」
 適当なページは以前苦戦していた応用問題のページを開いており、しどろもどろになりながらも問題をペンでさした。
 どんどん羞恥心ばかりがわたしの中で溢れ返り、なんともいえぬ空気に逃げ出したくなる。そういうやり取りもある意味わたしたちの中では日常茶飯事だけど、それをすんなりと受け入れられるほど耐性は強くない。
「じゃあちょっとだけやろうか。俺も今日は数学持ってきてるし、みんなでやる?」
 優しい微笑みを浮かべた先輩は、わたしに倣うように数学の問題集を取り出した。すると、榊くんもどこか観念するように、一年生の数学の問題集を鞄から取り出す。
 表紙の異なる問題集。
 ぎこちない空気の中、勉強会が始まった。

 最初に一緒に勉強したとき、香澄先輩にべったりだった榊くんは、今ではだいぶ親離れし始めた子どものように、基本的には自分の力で取り組むようになった。彼なりに努力した結果だと思うと、なぜだか妙にうれしくなる。何度も開いた勉強会は、よくよく考えると今年の語活から始まったものだった。
 出会って三ヶ月ちょっと。
 もっと昔から友達だった気がするけれど、みんなの学年が違うことを思い出すと、錯覚であると教えてくれる。
 何度も思っていることだが、本当に奇跡みたいな関係だと思う。今榊くんの家に集まっていることも、三人で宿題をしていることも。学年も、性別も違う。
 図書室が出会わせてくれた奇跡。

 ……それから。わたしが榊くんに、好きと告げたことも。

「あ。オレちょっと飲み物取ってきます」
 不意に立ち上がった榊くんは、わたしたちにかまうことなく、素早い動きで部屋を出てしまった。
 隣接したリビングから、扉が閉まっていても声が聞こえてくる。
「姉貴なんて格好してんだよ! 部屋行け!」
「はあ? クールビズよ。冷房代節約よ。キャミソール一枚になったくらいで何発情してんの?」
「なんで姉貴なんかに発情しなきゃいけねーんだよ! 見苦しいからなんとかしろってことだよ! 鏡見て出直せ!」
「へえ、いい度胸ね。悠吾、表に出な」
 どうやら第三ラウンドが始まったようで、わたしと香澄先輩は顔を見合わせて思わず笑ってしまった。
「はは。こりゃしばらく帰ってこれないねぇ」
 楽しそうな先輩の言葉に頷きながら、まだまだ響き渡る姉弟のにぎやかな声に耳を傾ける。
 本当にさっきの出来事が……わたしと榊くんの間で起きたやり取りがうそだったかのようだ。実は夏の暑さにうなされて見た幻だったのではないだろうか、とさえ思う。それくらい、遠い昔話のようだった。
「立花さん、わからないところある?」
 香澄先輩に視線を向けると、優しく微笑みながらわたし見ている先輩と目が合う。なぜか先輩の発言に驚いてしまい、慌てて問題集に視線を落とした。
「榊くんとのこと、聞いたほうがよかった?」
 すべてお見通しだと言われてしまいそうなほどに、先輩はわたしのことを見破っている。
 榊くんがいなくなって、しばらく帰ってこないと予測して。わたしは絶対聞かれるものと思っていたし、その答えをひたすら探していた。
「先輩には勝てる気がしないです」
 苦笑を浮かべながら、再び顔を上げ、先輩と目が合ってはにかむ。それから諦めの気持ちのせいなのか、わたしの気持ちは少しずつ落ち着いていった。
「あはは。でもね、こういうことは無理やり聞くもんじゃないなって思うからさ。話したいなって時に話してすっきりしてくれたらいいなって思う」
「はい」
「もちろん、俺はいつでも話聞くから」
 穏やかな気持ちになれる声色に、優しく安心できる言葉たち。いつも救ってくれる存在に、わたしの顔は自然とそれらに影響されていく。
「ありがとうございます。ちょっと……また、改めて話します」
 まだうまくまとまらないこともあって、今は話すことをやめることにした。
 ……それ以前に、突然榊くんが戻ってきたら気まずい。
「うん。じゃあ続きやろっか」
「はい!」
 ほっとするやり取りが一区切りすると、隣の部屋から聞こえる姉弟喧嘩をバックミュージックに宿題を再開した。
 混乱していた脳もすっきりし、生まれかけていた焦りや後悔も落ち着いていく。夢と錯覚していた感覚も、ようやく現実なんだと受け入れられる。先ほどよりも手が進み、宿題がはかどっていく。

 わたしはさっき、言ったんだ。
 この部屋で問われ、リビングで答えた。
 もう、わたしたちは戻れない。
 断られてしまうかもしれないけれど……でも、いまさら怖がっても遅いのだ。

「先輩、ここ聞いてもいいですか」
「ん? ああ、これは……」
 いつものように問いかけ、先輩が教えてくれる。
 世界に劇的な変化はない。
 だけど、少しずつではあるけれど変わっている。
「うん、正解。あとは大丈夫そう?」
「はい、大丈夫……だと思います」
 いろいろなことが未熟で、頼りないわたし。でも少しずつ、経験を重ねて前に進んでいく。
「立花さんなら大丈夫だよ」
 先輩が突然そんなことを口にして、一瞬意味を理解できなかった。たぶん、その真意はきちんと聞いてみないとわからない。
「うん、大丈夫」
 だけどその言葉が心強くて、違う意味かもしれないけれど、わたしは勝手に解釈して勝手に勇気をもらうのだった。
「はい。ありがとうございます」
 同じところを、ぐるぐる……ぐるぐる。
 それでもわたしは、少しずつ前に進んでいる。
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