図書室の住人

40.一瞬の夢と覚めた後

 確か、初めて香澄先輩の家に行った時のことだった。
 先輩がお茶を取りに行っている間にわたしと榊くんが二人っきりになって、その時に尋ねられた時のこと。
 わたしが初めて、恋という存在を意識した時のこと。
『……立花先輩って、香澄先輩が好きなんですか?』
 今のセリフも状況も、あの日を思い出すようだった。


 違うことといえば、わたしが思っていたよりも冷静だったこと。

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 こちらまで緊張が伝わってきそうなほどに、榊くんの表情は硬い。前に尋ねられた時と立場が交代したかのようだ。あの時、わたしは死ぬほど動揺したように思う。
 榊くんは答えを待つだけになり、わたしは答えるだけになる。
 なんて直球な質問なんだろう。心の中である意味感心する自分がいた。
 もしかしたら、何か確信を抱いてぶつけたのかもしれないし、単純に二人っきりだからかもしれない。ああ、わたしの態度もあからさまだったように思う。
 何を考えたところで、わたしが答えなければこの無言空間は永遠になる。
 言うことは決まっている。だからすぐに答えることはできるだろう。
 だけど、ほんの少し躊躇っていた。まだ少し、勇気が足りない……そうやって自分に言い訳をしてしまう。

 そんな言い訳ができなくなるように、わたしは最近の出来事を思い出していた。

+++

 二年生になってから、世界はだいぶカラフルになった。
 香澄先輩に声をかけてもらえて、榊くんと三人で過ごす日が増えて。クラスでは和泉くんが友達になってくれて、勇気を出して行ったクラスの集まりで三人の友達ができた。
 誰かがキッカケをくれたから、背中を押された気がして頑張れた。一歩踏み出したからこそ、今が存在する。
 あとは、ずっと仲違いしていた和泉くんとヤマちゃんを思い出した。二人は何とかしたいと勇気を振り絞って、歩み寄って……やっとうまくいった。
 一歩先は未知の世界だ。
 何があるかわからなくて、怖いと思う。前に進むのを躊躇ってしまう。
 でも、立ち止まったらそこまでだってことも、分かっている。

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 静寂の中で、『ぴーんぽーん』とこの家のチャイムが鳴り響いた。ふと時計に目を向ければ、針は十四時をさしている。
「香澄先輩ですかね」
 ほんの少し残念そうな声色で立ち上がりながら、榊くんは気の抜けた笑みをこぼした。
 わたしは完全にタイミングを失い、榊くんの動きを見守るだけ。
「先輩」
 すぐに部屋を出ると思っていたはずなのに、榊くんは一度立ち止まり、わたしの方へと振り返った。


「今オレが言ったことは、絶対……忘れないでくださいね」


 その言葉に、大きく胸が高鳴った。
 切なげな微笑みが、わたしの心をギュッとつかんで離さない。榊くんはそのまま部屋を出てしまい、この部屋もついにわたし一人となってしまった。
 苦しい。ちゃんと言えなくて悔しい。
 きっと香澄先輩が来てしまえば、しばらく後悔に溺れるだろう。
 いつも忘れてくださいというのに、今日は違っていたのだ。
 忘れないでという言葉は、わたしの中に漂っていた躊躇いも迷いも粉々に砕いていく。

「榊くんっ!」
 耐え切れず、わたしは後を追うように部屋を飛び出してリビングへ向かった。榊くんはインターフォンの受話器を取ろうとして、固まっている。おそるおそる振り返る榊くんと目が合い、互いを認識し合ったと確認してから……わたしは一度だけ静かに深呼吸をする。
 そうすると、今年の出来事がわたしの背中を押してくれているように感じて、自然と笑みがこぼれた。


「わたし、榊くんが、好き」


 少し遅れた返事は、もう少しタイミングを見計らう必要があったかもしれない……そう思った時には遅かった。
 静かな空間でわたしの言葉は完全に榊くんへと伝わった。信じられないと言いたげな、驚愕にあふれる表情が目に映る。
「………………え?」
 なんとも気が抜けた返事だった。
 何度も榊くんは瞬きをし、固まっている。
「え……えっ!? あ、えっ」
 しかし次の瞬間、左手を口元に当てながら顔を真っ赤にして大きな動揺を見せた。
「いや、えっと、あの。ほんとに」
「ほんとだよ」
「あっ! えっと、勘違いじゃ」
「ほんとだよ」
 まだ受け入れてもらえないのか、何度も何度も尋ねられる。その度にわたしは、同じことを何度も伝えた。
 信じてもらえないのが仕方のないことだと思うのは、日ごろの自身の行いのせい。今できるのは、信じてもらえるまで言い続けることだ。
「本当なの」
 わたしが答える度、榊くんは大きく目を見開いている。口元に当てていた左手は脱力し、だらんと下がっていく。呆けた顔が目に映り、いつお互いの心音が聞かれあってもおかしくなかった。


 そんな現実離れした空間で、開くはずのない鍵が開錠される。
 止まりかけた世界が加速し、我に返っていった。
「悠吾!? いるんでしょ!?」
 それは、ものすごい怒声の破壊力が原因かもしれない。聞いたこともない声に驚いたけれど、榊くんの反応を見てすぐに誰のものか分かった。
「あ……姉貴?」
 青ざめていく顔色と、怯える表情。だんだんリビングに近づいてくる足音に、思わず緊張が走った。
 ばーんと勢いよく扉が開け放たれ、わたしも榊くんも固まる。視線の先には初めてみる女性と、後ろに香澄先輩がいる。
 女性……榊くんのお姉さんは、先程の怒声の主とは思えないほど可愛らしい顔立ちで、ゴスロリという部類に入るであろう服装を身に纏っていた。……しかし、やはり表情には怒り一色に染まっている。
 わたしと目が合い、見つめ合う形になった。が、すぐにその視線は榊くんに向けられる。
「悠吾……昨日から妙にテンションおかしいと思ったらあんたねーっ!!」
「いてっ!」
 容赦なく頭をはたくお姉さんは、お嬢様という言葉がぴったりの見た目とは打って変わって男気溢れていた。
「下のインターフォンのところで香澄くん困ってたのよ!? なのにあんたはこんなところで女の子といちゃこらとっ!!」
「別にいちゃこらとかいてっ! やましいことは……いてっ!」
「うっさい! 問答無用!」
「痛いって!」
 さっきまでの出来事が本当に夢だったのではないかと思うほど、目の前で繰り広げられている光景は凄まじかった。
「お、おじゃま……します」
 そっとリビングにやってきたのは、お姉さんの背後にひっそりとたたずんでおり、理不尽な形で騒動の発端となってしまった香澄先輩だ。榊姉弟が二人だけの世界に入っている様子を、わたしたちは呆然としながら見守ることしかできない。
「す……すごいね」
「はい……」
 言葉を交わし合っても視線はそらせなくて、二人の(というか主にお姉さんの)過激な様子に釘付けだ。

「なんかおかしいと思ってたのよ! どっちの服がいいかなーとか鏡の前で何度もキメ顔練習したりさぁ」
「してねーし! なんだよそれ!?」
「してるし。どうせオレカッコいいとか酔いしれてるんでしょ? キッモー!」
「だからしてねーし! 姉貴の方がしてるし」
「はぁ!? こっちに話し向けるのやめてくれない? 問題はあんたが友達放っといて女の子連れ込んでやましいことしてたことでしょ!?」
 ここは本来止めに入るべきところなのだろうが、こんなに姉弟喧嘩らしいものを見たのは初めてで、物珍しい目で見てしまう。お兄ちゃんとはこんな喧嘩をしたことがないからかもしれないし、香澄先輩は元々一人っ子なので、やっぱり新鮮な光景に見入ってしまうのだ。
「そうだ、今日遅れてごめんね。家の安全点検とかで家に誰かいなきゃいけなかったんだけど、親が急に出勤になっちゃってさ」
 しばらくして、姉弟喧嘩をしっかり堪能した先輩が遅刻の事情を説明してくれた。
「いえ。来てもらえてよかったです」
「うん。でも本当、これてよかったよ。予定より業者さんが来るの遅くってさ」
「そうなんですか」
 榊姉弟の険悪さとは真逆の穏やかな雰囲気の中、会話をするわたしと香澄先輩は、なんだか今の状況がおかしくて、顔を見合わせると思わず笑ってしまった。
 次から次へと言い合うネタが飛び交い、脱線するかと思いきやすぐに軌道修正が入る。
 いつまでも止まらない喧嘩が仲の良さを見せつけるようで、ちょっぴり羨ましい。
「……そろそろ止めようか」
 確かに、もうかれこれ五分以上は言い合っている。さすがに止めないといつまでも言い合いが続きそうな様子は、香澄先輩も薄々気づいているようだ。

「あのー……」
 早速二人に近づき、おそるおそる声をかける。すると二人の言い合いはぴたりと止み、ものすごい勢いでわたしと先輩に近づいた。
「ごめんねー! うちのバカ弟のせいでこんなことになって……。えっと、あなたは……」
 さっきまでの怒声が嘘のように優しい声で謝罪をしてきたお姉さんが、わたしを見て口ごもったので、
「えっと……立花梨乃です」
 まだ名乗ってすらいなかったわたしはようやく挨拶をした。ぺこりと頭を下げ、反応を伺う。
「うん! 梨乃ちゃんね! 私は悠吾の姉で優里って言います! てか大丈夫? うちのバカ弟に何かされなかった?」
「いえ……何も」
 テンション高く心配するお姉さんに怖気づきながらも返事をし、先程の出来事を思い出して顔から火が出そうな気分になった。
「悠吾。あんた何しでかしたの? それとも彼女?」
 そんなわたしの隠し切れなかった部分を見逃さなかったのだろう。お姉さんはものすごい目つきで榊くんを睨みつけている。見た目からは想像もできないほどの迫力で、怒られていないわたしまでドキッとした。
「ち……違う! 友達だしっ! もう姉貴はさっさと部屋戻れよ! つーか、友達と遊ぶんじゃなかったのかよ!?」
「友達に用事できたから早めに帰っただけでしょ!? 自分の家に帰ることの何が悪いっつーの!?」
 第二ラウンドのゴングが聞こえたような気がして、わたしと先輩はまたしても苦笑を浮かべる。
 それからその喧嘩が落ち着いたのは三分後、再び先輩が止めに入ってからだった。
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