図書室の住人

39.恋の病

 カフェを後にしたわたしたちは、榊くんの家に行くには時間が早すぎるということで、駅前の本屋にやって来た。
 以前二人で出かけた時に、本屋へ行くのを忘れていたことを思い出したわたしが提案したのだ。榊くんも特に異論はなく、二人で駅まで戻り、本屋の中へと入っていく。
 店内に入った瞬間、気持ちのよい冷気が夏の暑さにやられたわたしたちを優しく包み込んでくれる。それから自動ドアが閉まると、心地よい静寂が歓迎してくれた。外の喧騒から隔離されたようなこの空気がやっぱり好きで、妙な安心感が生まれる。
「何か見たいものありますか?」
 控えめの声で尋ねてきた榊くんに、「二階の文庫コーナーかな」と簡潔に伝えると、そのまま二階への階段を上っていく。
 先を歩く榊くんの背中は、私服効果もあって思わずドキッとした。大きくて、どこかお兄ちゃんに似た背中。背も同じくらいだったような気がする。
 だけどそれでも、お兄ちゃんとは違うのだと確信していた。
 ……その答えは、鼓動が教えてくれる。

 二階は一階の雑誌コーナーに比べると、さらに人の気配が少なく、静けさも増していた。
「先輩は新刊チェックですか?」
「うん。まだ今月はちゃんとチェックしてなくって……」
 他愛ない会話でなんとかカフェで失った冷静さを取り戻しつつ、いつものように平積みされた文庫の数々を眺める。
 話題になっている本、ちょっと気になっていた本。それから香澄先輩から聞いていた新刊のタイトルなどが並んでいて、なんだか一時間くらいはここにいられそうなわくわくとした気持ちが湧いてくる。
「榊くんは?」
 しかし、今は榊くんと一緒なのだ。できるだけわくわくを抑えつつ、何か見たいものがないか問いかける。
「オレは……先輩と一緒に見ていたいので」
 すると、あまりにも予想外の言葉が返ってきた。
 ドキッとしながら「そっか」と一言返すだけで精一杯で、あっという間にカフェでの動揺が戻ってきたような錯覚がわたしを襲う。
 本屋の静寂は大好きだったはずなのに、その静寂が榊くんの存在を際立たせるようで落ち着かなかった。心臓の音は意識するにつれひどく大きな音のように感じ、誰かに聞かれていないかとそわそわしてしまう。
 薄っすらと視線を感じ、ちらりと隣へ視線を向けると、こっそりのはずがばっちりと目が合ってしまった。そこでわたしがずっと見られていたのだと気づく。
 ……偶然とか自意識過剰で済めばよかったのに、本当にずっと見られていたのだから気まずさも倍増だ。
 なのに視線の先の人物はというと、ふわりと優しく微笑んでくる。そんな些細なことさえ、わたしをおかしくさせる。慌てて視線を本に戻し、適当な本を手にとっては戻すを繰り返した。もちろん、手に取った本の内容も頭に入ってこない。
「今月は……大丈夫そう」
 空気に耐え切れず、わたしはぎこちなく笑いながらそう言った。
 正直気になるタイトルはあるので、また落ち着いたときにでも確認しておきたい。
「そうですか。オレも大丈夫そうです」
 にっこり笑い返しながら、榊くんもわたしと同じ意見を口にする。
 明らかに気を遣われたような気がしたが、ここで追求しても仕方がない。
「行こっか」
「はい」
 会話は最低限にして、わたしたちはあっさりと本屋を後にした。


 だが、一番困ったのはこのあとだった。
 時計は十三時を過ぎたところで、もうすぐ半に差し掛かる。香澄先輩は十四時頃に来ると言っていたとはいえ、まだ少し時間が残されていた。しかし行く当てもなく、外は猛暑。
「ちょっと早いですけど……オレの家、行きますか?」
 ほんの少しだけ躊躇う様子を見せつつ、榊くんが提案する。
「うん。榊くんが大丈夫なら、行こうかな」
 あと三十分ほどなら、家に行って宿題をやっていればすぐだろう。そちらのほうが変なことを考えることもなく、有意義な時間を過ごせるかもしれない。それに、今日の暑さは異常だ。あまりふらふらと出歩くのは気が進まない。
「そう……ですか。じゃあ、行きましょうか」
 少し歯切れの悪い榊くんの返事の意味にも気づかず、わたしたちは榊くんの家へと歩き出した。


 十分弱歩いた場所にある、榊くんが住むマンションに辿り着いた。学校を通り過ぎて五分ほどの場所にあり、確かに通学は楽そうだと思う。
「五階なんですよ」
 入り口のオートロックがかかった扉を通り抜け、エレベーターで五階のボタンを押しながら榊くんが教えてくれた。五〇一号室、角部屋。
「前も言いましたけど、今日は両親と姉貴は留守なんです。気軽にくつろいでください。まあ……先輩たちの家よりは窮屈ですけど」
 苦笑気味に話す様子をぼんやりと聞いているうちに目的の階に到着し、どんどん歩いていく榊くんの後を追いかける。
 かばんから鍵を取り出し、慣れた手つきで扉は開錠された。
「どうぞ」
 榊くんが入るようにと促すと、
「おじゃま……します」
 少し控えめの声でそう言いながら、靴を脱いで部屋へとあがる。
 誰かの家に行くのは二度目だ。
 静まり返った室内におそるおそる足を踏み入れながら、物珍しさにきょろきょろと辺りを見渡す。
 いくつかの扉の横を通り過ぎた先に、広い空間があった。
 一目でリビングだと気づき、様々な物であふれる賑やかさにどこか安心する。
「あんまりキレイでもないんですけどね。あ、こっちがオレの部屋です」
「あ、うん」
 おとなしく榊くんの後をついていくと、初めて入る榊くんの部屋に辿り着いた。勉強机とベッド、三段のカラーボックスには教科書類や最近買ったであろう文庫本が少しだけ並んでいる。
「狭くてすみません。好きに座ってください」
「あ。ありがとう」
 確かに、勉強用にと置かれた折りたたみテーブルが狭さを感じるかもしれない。だけど、広すぎる部屋よりも榊くんが身近に感じられて、少しだけホッとする自分がいた。
 わたしはベッドを背もたれにし、用意されていた座布団に座った。そしてその向かい側に榊くんが座る。

 さあ、これで落ち着いた……と思ったはずが、一番厄介な状況になったと気がついたのは、無言になり、お互い見つめあったときだった。やたらと静かな室内。他の部屋には誰もいない。つまり、わたしたちはこの密室で二人きりなのだ。
 ずっとテンパっていて、こんな簡単なことにも気づけなかった。
「そ、そうだ……宿題……」
 なんとか目的を思い出し、かばんから宿題を取り出す。とりあえず今日は英語と数学を持ってきていて、数学の宿題から始めようと問題集を開いた。
「榊くんは……?」
 でも、一向に榊くんが動く気配がない。おそらく宿題は勉強机にあるのだろうけれど、取りに行く様子がないのだ。
 ごくりと息を飲みながら、わたしは次の反応を待つ。

「……少し、話しませんか?」
 そしてわたしは、宿題に没頭する野望を速攻で打ち砕かれてしまった。


 しかし、話はすぐに始まらなかった。榊くんに話したいことがあるのだろうと思っているけれど、どうやら何から話すか悩んでいるらしい。
 一方のわたしはというと、なぜかこのタイミングで、先日学校で繰り広げた榊くんとのやり取りを思い出していた。
 抱きしめられているかのような状態と、いつもと様子が違っていた榊くん。ぬくもりと、心音と、呼吸。困らせるような言葉とは裏腹に、声はひどく震えていた。あの、わたしを完全におかしくさせた日。はっきりと榊くんを意識してしまった日。
 今は、そんなあのときの「いつ誰が来るかわからない学校の廊下」とは違うのだ。
 この家を開ける鍵の持ち主がいなければ、ここではわたしと榊くんだけの世界。それを意識してしまった瞬間から、鼓動の高鳴りは激しさを増し、乱れている。
 ……言ってしまえば、何が起こってもおかしくないのだ。

「あの、先輩」
 小さな声でも、やけに声が響いたような気がした。完全に自分の思考に入り浸っていたため、驚きが隠せない。
「な……何?」
 ほんの少し身体をこわばらせながら、次の言葉に緊張が高まる。
 すると、向かい側に座っていた榊くんはゆっくりと立ち上がり、少しだけ距離を開けているものの、正座でわたしの近くまで寄ってきた。テーブルを挟んでいたときよりも距離がぐっと近く感じ、緊張のあまりわたしも同じように正座で向き合う。
 真っ赤な顔の榊くんとばっちり視線を交わらせ、再び訪れた沈黙が永遠のように感じた。
 だけどおそらくそれほどの時間は経っていないようで、すぐに榊くんは口を開く。

 それが、いつだったかの不意打ちとかぶるなと気づいたのは、榊くんの言葉を聞いて、しばらくした後だった。


「立花先輩は……オレのこと、好きですか?」
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