図書室の住人

38.ふたり・ふたたび・ふたりきり

 夏休み三日目、わたしには早々に予定が入っていた。
 前に香澄先輩と榊くんとファミレスへ行ったとき、三人で会おうと約束をしていたのだ。
 十二時に駅前で待ち合わせ、お昼を食べて榊くんの家に向かう。それからは夏休みの宿題をやったり、話をしたりする予定。
 さあ、一体どんな一日になるだろう。榊くんを変に意識してしまわないだろうか?
 今日一番の心配はそれで、何事もなければいいと願うばかりだ。
 前回榊くんと出かけたときと同様、前日は服選びで悩み、当日の朝は早く目覚め、読書で心を落ち着かせる。
 そんな午前中を過ごしながら、またわたしは予定よりも早く家を飛び出した。


 落ち着かない足取りで待ち合わせ場所を目指す。いつもより早足だったせいもあり、到着時間は十一時四十五分を指すところだった。
 まだそこには見知った顔はおらず、ひとまず誰も待たせていない現実にほっとする。
 やけに暑い今日は特に日差しが強くて、わたしは建物の下へ逃げ込んだ。分かりやすい場所に立っていれば、きっと見つけてくれるだろう。
「先輩!」
 刹那、遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。視線を動かし、声の主の姿をとらえる。
「榊くん」
 近づいてくる榊くんは休日仕様で、眼鏡をかけていなかった。こんな暑い日でも涼しげにやってきた榊くんの姿に、無意識に目を奪われる。
「あ……あとは、香澄先輩だけだねっ」
 見惚れてしまいかけた瞬間我に返り、わたしは慌てて話しかけた。
 いつもならもっと普通に接することができるはずなのに……。
 顔がどんどん熱くなっていくのは、早足でここまで歩いてきたせいだと分かっていても、奇妙な熱を意識せずにはいられない。
 頭の中でひとり動揺していると、目の前にいる榊くんは少し気まずそうな表情を浮かべた。
「えっと……先輩、メール見ました?」
「え?」
 言われてようやく携帯を開くと、確かに一通メールが届いている。それは香澄先輩からのもので、開く前から嫌な予感だけがわたしの中を駆けめぐっていた。


『ごめん! ちょっと急ぎの用ができちゃって、十二時に行けなさそうなんだ。途中参戦でもいいかな? 十四時くらい?には行けると思う!』


 メールを読み終わってから一分ほど、意識が全然違うところへ行ってしまったような気がした。
 ぽかんとしているうちに頬を赤くした榊くんと目が合い、次は先ほどとまた別の動揺がわたしの中に流れ込んでくる。その波に冷静さは流されていき、どんな顔をしていいのかさえ分からなくなっていった。
「どうしましょうか……。一応来るみたいですし、せっかく集まったんでとりあえず昼飯でも行きませんか?」
 気遣うように榊くんが提案する。二人でご飯を食べるというのは、一緒に出かけたとき以来だ。
 あの時と違うのは、わたしの気持ちが変わってしまったこと。
 そこに意識が傾くと、夏の暑さが何倍にも感じられ、思考回路がますますおかしくなってしまいそうだった。
「う、うん。せっかくだし行こう」
 考えもまとまらぬまま、勢いだけで返事をする。
 きっと意識したまま自分の世界にこもってしまえば、確実におかしなことをしでかしそうな予感がしたのだ。
「じゃあ、行きましょうか」
 ほっとしたような表情を浮かべる榊くんはそう言うと、目的の店を探しに駅前から移動を始めた。


 前に並んで歩いたときも、確かドキドキしていた気がする。
 いつもと違う格好で、初めて二人で出かけたこともあり、あの時はひどく緊張していたように思う。
 でもなんとなく、今感じているドキドキと似ている気がした。都合良く付け足した後付けだと思うのに、どうしてもその錯覚を嘘とは言えない。
 ちらりと隣を盗み見る。視線は連ねる飲食店に向いていて、多分どこで食べるのかと考えているのだろう。前もこうして見惚れて、榊くんに見つかって気まずい思いをしたような気がしたっけ。
 もう一度こうして歩くことになるとは思わなかった。
 そのうちあるかもとは思っても、まさかこんなに早い……今日であるとは想定外過ぎる。
「な……何、見てるんですか……」
「えっ」
 今日は絶対に見つからないように気を付けなきゃと思っていた矢先、真っ赤な顔をした榊くんと目が合った。
「あはは……ごめんね」
 笑ってごまかしながら、わたしは慌てて目をそらす。
 そのやり取りはますます以前の状況とかぶり、わたしまでもが顔を赤くしてしまいそうだった。
「……前もこんなこと、ありましたよね」
 気まずい雰囲気の中で、ぽつりと榊くんは呟く。
 わたしと同じことを考えているのだと思うとちょっぴり嬉しくて、心の中が少しだけあたたかくなった。
「だって……いつもと違うから」
「眼鏡、ですか?」
「う、うん」
 無言が一番気まずいことを理解しているので、わたしは素直に思ったことを口にした。
 やっぱりいつもと違うと、そんな姿に見惚れてしまうのは仕方がないことだと思う。
 榊くんはわたしの返事に少し躊躇いながら、ぽつりと言葉をこぼす。
「その、先輩が……眼鏡がなくてもカッコいいって……言ってくれたので」
 やけに子どもっぽい口調だと思った。
 でもそれは今のわたしにはどうでもいいことで、いつの間にそんな大それたことを言ってしまったのかと記憶をたどる方が重要だった。
「えっ! あ、えっと! そんなこと言った!?」
 しかし、混乱の中で思い出すのはなかなかに難易度が高い。
 思い出そうと考える度に迷宮入りへと近づいていく。
「言いましたよ」
 雑踏の中でも、よく聞こえる声だった。
「オレ、絶対忘れませんもん。あまりにもさらっと言うから……その、かなり驚きましたし……」
 照れる様子で、だけどどこか不満げな表情が脳裏に焼き付く。
 それが事実であると告げているようで、過去のわたしの無意識の言葉を、今更のように恥ずかしく思いつつ……驚いた。
 勿論言葉に偽りはないけれど、それでも、とんでもないことを口にしたものだ。
「あ。あそこにしませんか?」
 気まずさを紛らわしたかったのか、榊くんは少し駆け足で店に駆け寄り、提案してくれた。
 その店は、前に休憩で入ったカフェだった。



 オシャレでゆっくりとくつろげそうなそのカフェは、どうやらランチタイム限定でパスタも取り扱っているらしい。お値段は学生のわたしたちには少々お高く感じるかもしれないが、それでも千円以内で食べられる。
 今日は特に買い物をする予定もないし、お互い財布を見て大丈夫であると確認すると、店の中へと入っていった。
 以前入ったときもタイミングがよかったが、今回もそれほど待たずに席に案内される。
「すぐ座れてよかったですね」
 にこっと笑う榊くんに目を奪われそうになりながらも、店員がお冷を運んできてくれたおかげで遮られた。
「えっと、ミートスパゲッティと……先輩はカルボナーラですよね?」
「あ、うん」
「はい。ミートスパゲッティとカルボナーラですね。少々お待ちください」
 ランチタイムはパスタメニュー三種とシンプルなため、店に入る前に食べるものをお互いに決めていた。そのおかげで去りかける店員をすぐに呼び止め、榊くんがスムーズに注文してくれたのだ。

 今度こそ店員が去っていき、お冷をちみちみ飲む。
 目の前に座る榊くんを意識せざるを得ない状況にそわそわしながら、わたしは何を話せばいいのかと悩み始めた。
 そういえば、前に来たときも榊くんは余裕そうにしていたっけ。
 あの日、メロンソーダをすすっていた姿が重なる。
「前来たとき、先輩にはびっくりしました」
「何かしたっけ?」
 唐突に話しかけられ、わたしは思い出せず首を傾げた。今に精一杯で、正直そこまで気が回りそうにない。懐かしそうな顔をする榊くんは、照れくさそうに微笑みながら話を続ける。
「いや……ケーキおすそわけ、とか言い出して」
「あっ」
「思い出しました?」
「うん……あの時はごめん」
 話し始めてすぐに、記憶は鮮明によみがえった。
 確かにわたしは、世間一般でいう『あーん』を考えなしに行ってしまった。今考えると、いや、普通にどう考えてもあの時の対応はまずかったと思う。今からでも土下座したい気分だ。
「なんで謝るんですか?」
 だけど榊くんは、怒るどころかきょとんとしているように見える。
「むしろ、いいのかなって気持ちの方が強かったです。あれって……」
 いいも悪いも、ケーキをお裾分けしたかったのはわたしだ。
 不自然に途切れた言葉に首を傾げながら、あの行為に何か深い意味があっただろうかと考える。するとおそらく気付いていないことを勘付かれてしまったのだろう。榊くんは呆れるように苦笑を浮かべた。
「……榊くんは、いつも言いかけてやめちゃうよね」
 何だか一人だけ分かっていないという状況が悔しくて、恥ずかしさをはぐらかすようにわたしは話題転換を試みる。
「えっ」
「今も、こないだの電話も……他にもいろいろ」
 なんとなくとっさに口から飛び出した話題だったけれど、よくよく考えれば言いかけることと忘れてくれと言われることが何度もあった。その度に『まあいいか』と忘れてしまうのだけど、今思えば気になって仕方がない。
「えっと……そうですか?」
 いつもよりも真っ赤な頬は焦っている証拠で、視線がなかなか定まらない。わたしはと言うと、そんな榊くんを逃がすまいと追求する。
「そうだよ」
 一度気になり始めたら最後。脳はひとつのことに集中力を発揮し、次の言葉をじっと待つだけ。さっきまで意識していたとは思えないくらい相手をじっと見つめ、形勢逆転といわんばかりに榊くんの余裕を奪っていた。
 その時間は大した時間ではなかったと思うけれど、なんだか妙に長く感じる。
 だけど、しばらくして諦めのため息が聞こえたところで、不思議な時間も幕を閉じた。
「……後悔しないですか?」
「うん、しない」
「絶対?」
「うん」
 負け惜しみのような、それほど言いづらいことを言いかけたのかはわからないが、最後に念押しをされ、それもあっさりと受け入れる。
「……絶対後悔すると思いますけど……」
 それから榊くんに手招きをされると、きっと内緒話のように小さな声でやり取りをするのだと察し、そっと顔を近づけた。
 そして、控えめな声で言うのだ。
「……あの時、その…………間接キス、したな……って」
 言われてすぐには、何を言われたか理解はできなかった。それも仕方のないことだろう。聞き慣れない言葉が出てきたのだ。首をかしげてしまうのも仕方ない。そう、仕方ないのだ。
 しかし、それを何度も確認するほど、わたしもバカではなかった。
「え……っと」
 さらに赤く染まっていく榊くんの顔へと視線を合わせるが、すぐにその視線は別の場所へと向かっていく。奪った余裕はどこかへ消えてしまい、形勢逆転どころか墓穴を掘っている。
「あの……ごめん」
 なんと言っていいのかもわからず、顔を見ることもできず、気づけば顔はテーブルに向いていた。
 榊くんもさすがにこの後の言葉は考えていなかったのかもしれない。返事をすることもなく、無言を貫き通していた。ただ、視線は『ほら、後悔するって言ったでしょ』なんて言っているような気がして、なんとなく身が縮こまるような想いを抱く。

 思い返せばそうだった。
『あーん』という行為は、主に大人が小さな子どもにしてあげたり、利き腕が骨折して物が食べづらかったりと、自分で食事ができない人がしてもらうことのようにイメージする。それは主に『あーん』される者が食べる物であって、特に思いつくのは家族間、もしくは恋人同士、介護現場、保育園幼稚園……考えれば他にも出てくるかもしれない。
 なのにわたしときたら、友達の……しかも異性としてしまった。いや、それすらも気にすることではないかもしれない。香澄先輩や和泉くんとならどうだ? と問われれば、特に気にもしないだろう。たぶん。
 今回はきっと、相手が悪かった。……最近自覚してしまった、想い人だったなんて……。

「お待たせいたしました~」
 気まずい雰囲気をありがたく壊してくれた店員が、注文したパスタを運んできた。
「カルボナーラのお客様は……」
「あ、わたしです」
「はい」
 それぞれのパスタが目の前に置かれると、店員は伝票を置いて去っていく。
「た……食べよっか」
「そ、そうですね」
 動揺はまだ隠し切れないが、なんとか多少の気まずさからは脱出できた。助けてくれた店員に心の中で感謝をしながら、『いただきます』と手を合わせて食べ始める。
 食べている間は会話もなく、無心で黙々と食べてしまった。
 その間になんとか打開策を考えようと思ったけれど、榊くんの言葉に衝撃を受けすぎたのだろう。何か名案がひらめくこともなく、あっという間にパスタを完食してしまう。それは榊くんも同じだったようで、同じタイミングで食べ終わったわたしたちは、また次の話題を探す旅に出る羽目になる。

 おかげで、見た目はあんなにもおいしそうだったパスタの味は、何ひとつとして記憶に残らなかった。
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