図書室の住人

37.二人の行く末、わたしの想い

 楽しかったクラス会から一夜明け、わたしの夏休みが始まった。
 普段ならもう少し遅めに起床してもいいところだが、どうしても気になる事案がわたしを覚醒させる。
 二度寝しても大丈夫なのに六時に起きてしまった。ラジオ体操にでも出かけるのかという時間に笑ってしまうけれど、本を読んだり宿題にいそしんだり、なんとかそわそわした気持ちを抑えようと必死になる。

「……そわそわしてどうした?」
「あ、うん……ちょっと」
 土曜日ということで家にいるお兄ちゃんが、不思議そうな顔をしながら尋ねてきた。
 自室にひとりで過ごすことに限界を感じ始めてリビングに来たものの、お兄ちゃんに絡まれるとそれはそれでどうしていいのか分からなくなる。
 しかも、返事が思いつかず上の空状態だ。
 何故こうなってしまったかというと、昨日和泉くんが送信したメールが原因だった。
『今日はありがとう。ちょっと話したいことがあって会いたいんだけど、明日あいてる?』
 わたしの名前でそんなメールを送信して一時間後、
『明日の午前中なら会えるよ。学校の前でいいよね?』
 という、あっさりとこちらの誘いに乗るヤマちゃんからの返信があったのだ。
 すぐにそのメールを和泉くんに転送し、テンションの高いお礼メールを受け取ってから……自分のことでもないのにそわそわしっぱなしである。


 お兄ちゃんは今も怪しむような目つきで「何があった?」と訴えていたが、しばらくしてお母さんがリビングに来たことでその場をしのいだ。
 二人の待ち合わせは十時半。今まさにその時間で、ドキドキは最高潮に達している。
 ……二人はうまくいっているだろうか?
 おそらく唯一、二人の気持ちを知っているであろうわたしとしては、絶対に二人がうまく行くと確信している。同じ想いを抱いている二人なら、きっと大丈夫だと信じたい。
 だからわたしにできることは、ひっそりと祈りながら結果を待つことくらいだった。

 そんな落ち着かない、時間的にも絶妙なタイミングで携帯が震えた。
 滅多なことでは携帯が鳴ることがないために、わたしは大げさすぎるほどの驚きを見せる。……傍にいたお兄ちゃんまで巻き込むほどだ。
 しかもそれはメールではなく電話で、ますます動揺は激しさを増す。
 和泉くんとヤマちゃんの件だからではない。
 ……相手が悪かった。
「も、もしもし」
 電話が切れてしまうことだけは避けたくて、わたしは震える手つきで応答する。
『あ、先輩。どうもです』
 耳に入ってきた声に思わずどきっとしながら、失いかける言葉を必死で手繰り寄せる。
 数日ぶりに聞く声が妙に懐かしく感じ、胸の奥がじんわりあたたかくなってきた。動揺はするのに、自然と笑みがこぼれていく。
「ど、どうしたの?」
 電話で話していると、しばらくして鋭く痛い視線に気づき、わたしはその場から離れる。話の内容によっては、後々面倒ごとが起こるかもしれない。
『いや……その、昨日は……会えなかったので』
 自室がある二階へ続く階段をのぼりながら、声の主……榊くんの、おそらく深い意味のない言葉に階段を踏み外しそうになった。どうやら動揺は全身に広がってしまったらしい。
「うわぁっ!」
 おかげでこんな間抜けな声を聞かれてしまうことになってしまった。……恥ずかしさのあまり、勢いで電話を切りたくなる。
『えっ、先輩!?』
「あ、ご、ごめん……階段踏み外しそうになって」
『大丈夫ですか? 気を付けてくださいね』
「う、うん。それで?」
 なんとかごまかしつつ体勢を整え、榊くんの次の言葉を促した。まさか、用もなくそれだけのために電話なんてあるはずがない。
 何度も自分に言い聞かせながら、平然を取り戻そうと必死になる。
『あの、夏休み前にオレの家にって話、覚えてますか?』
 不安そうな、自信のなさそうな声色で、榊くんはおそるおそる尋ねた。
「うん、覚えてるよ。明後日だよね……?」
 香澄先輩も含めた三人で遊んだあの日、わたしたちはお昼を食べながらそんな約束を交わしたのだ。
『そうです。一応、十二時に集まってご飯でも食べてから家に行くのはどうかな、と思いまして』
「うん、わたしは大丈夫。駅に集合かな?」
『一応そのつもりです』
「分かったよ」
 いろんなことに埋もれて忘れてしまいそうになるけれど、ちゃんとあの時の約束が生きていて、夏休みでも会えることが嬉しかった。
 だけど約束の話を一通り終えると、妙な沈黙がわたしたちに舞い降りてくる。
 それこそ忘れたかった緊張が蘇り、そのまま「じゃあね」と切ればいい流れにも乗り切れず、声を失ったかのように黙り込んでしまった。

『あの』
 おどおどしている間に、改まった様子で話しかけられてしまった。
「う、うん」
 その先なんて予想もできないまま、わたしはドキドキしながら榊くんの話に耳を傾ける。
 自然と携帯を握る手が強まり、やけにうるさく響く心臓の音に押し潰されそうになった。
『あー……いや、なんでもないです。そのうち話します』
「え?」
『じゃあ、明後日に』
「え、あ……うん。また」
 しかし、どんな予想もはずれに終わった。
 ぽかんとしたままベッドに寝転がり、うるさい心臓の音を静める気にもなれずに天井を眺める。耳元にはまだ榊くんの声が残っているような気がして、ふわふわした気持ちでいっぱいだ。
 今までもあんなに普通に話していたし、きっとこんな電話もただ「嬉しいなぁ」という気持ちに満たされて終わっていたに違いないのに。
 なのに、それだけでは逃がしてくれない。
 ついでのように、ずるずると榊くんとの思い出が引き出されていく……。


 初めて会った日のこと。
 香澄先輩が好きなのかと問われたこと。
 図書室で二人っきりになった時のこと。
 二人で街を歩いたこと。
 その時榊くんは眼鏡をかけていなくて、ちょっぴりドキドキしたこと。
 榊くんの好きな人が気になってもやもやしたこと。
 榊くんの恋を、応援できなかったこと。

 榊くんが、わたしの感情をひどく揺さぶっている。
 初めて恋愛について意識したのは、榊くんがキッカケだった。
 初めて男の人と出かけたのも、プレゼントをもらったのも。
 ……咄嗟だったとはいえ、あんな風に抱きとめられてしまったことも。


 今までこんなに、誰か一人のことばかりを考えたことなんてなかった。
 毎日毎日飽きることもなく、想うことになるなんて思わなかった。
 ただ思い出しては恥ずかしさに押し潰されそうになったり、幸せな気持ちを噛みしめたり、相手の気持ちにもやもやしたり。
 本人がそばにいなくたって、わたしはいつだって翻弄されてしまうのだ。
 ひとりで一喜一憂を繰り返し、相手の前では動揺してしまう。ドキドキして、胸がぎゅっと締め付けられるようで、自分が自分でないような感覚。
「あー……もうだめ」
 思わず声を漏らしながら、枕を抱えてこう思う。


 やっぱりわたしは、好きになっちゃったんだ――


 さっきまで和泉くんとヤマちゃんのことでそわそわしていたというのに、もうそのそわそわはドキドキに塗り潰されている。
 本当にどうしようもなく、恋に溺れる自分がいる。
 それは恋に恋した自分じゃない。何度も勘違いしたそれとも違う。
 どんなに認めたくないと思っても、認めずにはいられない。
「榊くんが、好きなんだ」
 声に出してみれば、言葉にすれば、想いはますます強固なものになる。嘘なんかじゃないと、ごまかすなと言われているような気持ちになる。
 いろんな感情に揉まれ、本当は違うんだと自分の中で否定してみたけれど……残ったものは、『恋』だった。
「うわああぁぁぁ……」
 ぎゅっと枕を抱きしめ直し、ひどく熱い自分自身に驚く。
 しかし、その熱さを夏のせいにしてわたしは起き上がり、ぼんやりと窓の外を見つめた。

「……明後日、どんな顔して会えばいいんだろう……」
 その問いには、誰も答えてくれない。わたしもそれを知っているから、嘆いたり恨んだりはしなかった。
 結局、なるようにしかならないのだ。何をどう悩んだって明後日は必ず来る。答えが出なくても、会わなければいけなくなる。そこまで分かっていても、今のわたしには賢明な策など浮かんでくることはない。明後日のわたしが、上手くやってくれることを祈るしかなかった。


 それから和泉くんとヤマちゃんからメールが着たのは、榊くんとの電話を終えた三十分後。
 メールのおかげで一時的にでも気持ちが別方向へ行き、喜びで表情がゆるむ。
 一応関わった身として、共犯者という立場として、素直にぶつかれなかった二人の行く末が気になっていたわたし。
 でも、今携帯に表示されるメールで、喜びと勇気をもらえた……そんな気がしたのだった。



『ありがとう。全部うまくいきました。  和泉・山口』
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