図書室の住人

31.告白と、交わした約束。

 それぞれ本を買い、三人は店長の嵯峨野さんに見送られながら店を後にした。
「また行きます」
 わたしは無意識のうちにそう呟いていたけれど、榊くんも同意するように頷き、香澄先輩は嬉しそうにニコニコと笑っている。
 何だか今三人の気持ちが一つになったような気がして、ちょっぴり嬉しかった。


 楽しい時間というのはやっぱりあっという間で、商店街の近くまで話しながら歩いた後、解散ということになった。
「じゃあまた」
「また学校でね」
「またね」
 家が学校側にある榊くんと反対方向のわたしと先輩の二手に分かれることになり、それぞれ帰路を歩いていく。
 なんとなく一度だけ反対方向へ振り返ると、偶然なのか、わたしたちを見送るように立ち止まっている榊くんと目が合った。
 小さく手を振ると、向こうも振り返してくれるのが見える。
「どうかした?」
 不意に香澄先輩が声をかけてきたことで再び前を向き、
「いえ」
 榊くんのことを言わずに、何事もなかったように歩いていく。
 どうして言わなかったのか、この時のわたしには分からなないままだ。
 ただ、偶然かもしれないアイコンタクトがどうしても嬉しいと感じてしまい、その喜びを心の中にひっそりとしまっておきたいという願望だけが残る。
 先輩は少しの間不思議そうな表情を浮かべていたけれど、すぐに気にしない様子で微笑みかけた。

「今日は楽しかったね」
 次に話しかけてくれた先輩の表情は幸せそうで、わたしは大きく頷く。
「はい! 素敵なお店を紹介してもらえてわたしも嬉しかったですし、楽しかったです」
 今日の出来事を思い返せば、楽しいことだらけだった。
 先輩には話せないであろう疑問やもやもやの件については言えずにいるのだけど……。でも三人で過ごす時間は特別で、三人で集まるだけで満足していた。
 だから、わたしが抱く疑問やもやもやは、晴れない方がよいのではないかと思っている。いつまでも胸の奥にしまっておけば、わたしたちはずっと三人でいられるような気がしたから……変わらずにいられるような気がしたんだ。
 ……そのもやもやはいつか晴れるだろうし、変わらないものはなくて、永遠もないことは、分かっていても。
 それでも、変わってしまう瞬間はいつだって臆病になる。

 もしもやもやが晴れた時、わたしたちはどうなってしまうんだろうか……?


「……さん。立花さん?」
「は、はい!」
 はっと我に返った時には、もう何度も先輩に声を掛けられていたようだった。
 先程見せた不思議そうな表情……よりはどこか心配そうな瞳にドキッとしながら、またわたしが考え事をしていたことに気づく。
「考え事?」
 せっかく何か話しかけてくれていたのかもしれないのに、勝手に上の空になってしまったことを申し訳なく思った。
 それでも先輩は優しくわたしを案じて問いかけてくれる。
「す、すいません……」
 思わず謝罪すると、
「謝らなくてもいいよ。でも、もし悩みとか辛いこととかあったらまた話してね」
 そうやって優しく返してくれた。
 わたしは自分でも正体がわからない感情に振り回されるだけで精一杯だというのに、怒ることも呆れることもしない先輩は、ただありのままのわたしを受け入れて、優しく接してくれる。
「ありがとうございます。でも今は大丈夫です」
 せめて安心させたくて、わたしはそう答えた。笑顔を添えると先輩も安心したように一つ息をつく。
「うん、わかった」
 そしてそれ以上踏み込んでこないのも、わたしにとっての救いだった。
「そうだ。榊くんとのデートはどうだった?」
 だけど、次の問いかけにはさすがのわたしも驚きを隠せない。
「え? あ、えっと!」
 突然すぎる話題に、わたしは上手く反応できなかった。
 しかも榊くんに関する話題は、今のわたしにとっては先程までの考え事にも関係するような気がして、何をどこまで話していいのか悩む。動揺を隠せずおどおどするばかりだったが、先輩はそんなわたしにお構いなしに質問を続けた。
「どこ行ったの?」
「えっと……榊くんのお姉さんの誕生日プレゼントを受け取りに行って……お兄ちゃんの誕生日プレゼントを買いに行って……カフェでお茶して……くらいです」
「そっか~」
 頭で考えるよりも先に口が動き、熱くなっていく顔にも気付かずにぽつりぽつりと答えていく。
「楽しかった?」
「は、はい……」
 でも、勢いで返したはずの言葉はどこか弱々しい。
 あの日確かに楽しかったけれど、それだけじゃなかった感情が楽しさを押しのけて主張してくるものだから、どうしても自信が持てなかった。
「楽しくなかった?」
 思っていた反応とは違っていたのか、先輩は先程とは逆の質問をぶつけてくる。
「そんなことは……なかったんですけど」
 返事はするのに、答えはきちんと考えていなかった。もう一つの感情を言葉にしてしまってもいいものか、一瞬過ぎった躊躇いのせいだろう。

「嫌なことあった?」
「そんなことは!」
「じゃあ、ドキドキしたとか」
「……」
 先輩の質問は容赦もなく、矢継ぎ早にわたしに襲い掛かった。だからきちんと考える間もなく答えていき、勢い任せの答えはわたしの本心を浮き彫りにする。
 隠したかった感情も表に出てくる形になって、顔の火照りに気付いたのはこの時だった。
「そっか」
 いつもわたしの気持ちをエスパーのように察する先輩は、この時も何かを察したようだった。
 わたしに向けていた優しい表情は空に向けられ、顔の熱さがだんだんと頭の中にも流れ込んでいく錯覚に陥りながらも、先輩の意味深な言葉に首を傾げながら見つめる。
 何だか先輩のたった一言の言葉にたくさんの意味が込められているようで、どこか引っかかったのだ。

「前にね、立花さんが俺に恋をしたことがあるかって聞いたの、覚えてる?」

 視線は空に向いたまま、いつの日か話したであろう話題が飛び込んできた。
「えっ!?」
 あまりにも唐突な話に驚きながらも、小さく頷くことで質問の答えとする。だけど先輩はそんなわたしを確認することもなく、そのまま話を続けていった。
「俺はさ、全部気付いた時には終わってたんだ」
 何の話だろう。
 首を傾げなくても、察しが悪いわたしでも、これくらいは理解できた。
 人通りが多めの商店街を抜けると、人の数はかなり減り、静かな雰囲気がわたしたちを包み込んでくれる。
 そのせいなのだろうか、先輩の声がやけに大きく聞こえてきた。
「相手は近所に住んでた七歳年上のお姉さんで、いろんな縁があって仲良くさせてもらってたんだ。読書の楽しさはその人に教えてもらった」
 この話は、普段知ることのできない先輩の話。なかなか聞けなかった、わたしの知らない話だ。
 こうして先輩から先輩自身の話を聞けるなんて、今までにそれほどなかったかのように思える。
 何か反応できればよかったのだけど、話の腰を折ってしまいそうで、ただひたすらに先輩の話を聞くことしかできなかった。
 ……それに、先輩の表情が今までに見たことのない、寂しそうな表情をしていたから。
「もしかしたらただの憧れだったかもしれない。でも俺はあれを恋だと思っていて、気付くのが遅すぎたって悔やんで……泣いたんだ」
 そしてようやく視線がわたしに向けられる。寂しそうと感じたことは嘘ではなかったようで、先輩はわたしが初めて見るような、本当に寂しそうな笑顔を浮かべていた。
「その、お姉さんは……?」
 聞いてはいけないことだったり、傷つけてしまう言葉かもしれないと分かっていても、ここまで聞いてしまえば多分わたしが聞かずとも先輩は答えてくれただろう質問を、ぽつりと声にする。
 先輩は表情を変えず、静かに答える。
「うん……俺がこの気持ちに気づいたのは、お姉さんが結婚すると知った時なんだ」
 そしてわたしは、ずきんと胸を痛めた。それは前に味わった痛みとは違う。醜い自分が現れることもない……ただ、悲しかった。それだけのこと。
 自分の痛みではなく、先輩の痛み、そのものだった。
「俺はめちゃくちゃ後悔して、今も恋することを躊躇ってる。俺はまた何もできずに終わるんじゃないかって、立ち止まったままなんだ」
 いつもの優しい声色なのに、わたしには悲しそうに聞こえてくる。先輩に何か声をかけたくても、言葉はちっとも浮かんでこない。いつも先輩はわたしのためにたくさんの言葉をくれたのに……そう思うと、自分の無力さを嫌というほど思い知らされるようだった。
「ごめんね」
 困っていることを、声をかけられないもどかしさを察するように、先輩が謝罪する。
 こんな話をしていても歩く足は止まらなくて、もうすぐわたしの家が見えてくる場所まで来ていた。
「俺の終わった話はどうでもいいんだ。でも、立花さんには同じ想いを味わってほしくないと思ってる」
 少し強い口調で、先輩はどこか念を押すようにそう言う。
 そこでようやく歩いていた足が止まり、わたしも釣られて立ち止まった。先輩と見つめ合う形となり、その背景ではオレンジの光が眩しく輝いている。

「だって、大切な友達だからね」

 一際大きく響き渡る声に、わたしは大きく目を見開いた。それから胸の奥がポカポカと温かくなっていく。
 前に先輩から友達と言われた時はもやもやとしていたはずなのに……いろいろなことを勘違いしていたあの時とは違う。全然違っていた。ただただ嬉しくて、大切な友達という言葉に安心さえ覚えてしまう。
 だからわたしは、先輩に抱く感情に、恋という名前を付けることはできなかったのだ。
 寂しそうな表情を吹き飛ばすような笑顔をわたしに向けると、先輩は再び歩き出した。置いて行かれないようにわたしも後を追いかけ、自然と笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます。わたし、先輩の話が聞けて……嬉しかったです」
 歩きながら、素直な気持ちを言葉に表した。
 先輩はいつもわたしや榊くんのことを気にかけてくれて、話を聞いてくれた。だけどわたしは先輩に甘えてばかりで、何もできなかった。何も知ることができなかった……多分、知ろうともしなかったことがあったと思う。
 今から何か始めるのは今更かもしれないけれど、まだまだこれからかもしれない。後者であることを信じながら、わたしは前に進むために話を始めた。

「わたし、最初は先輩のことが好きなんだと思ってました」
 ぽろりと零した言葉は、本当はとてつもなく緊張するような告白の言葉。
 なのに、今のわたしには緊張感はなくて、それがまた一つの可能性を否定する。
 まだ話したいことがあるため、あえて先輩の反応や表情は確認せず、すぐに次の言葉を口にした。

「先輩は優しくて、どうしようもないわたしを幸せな世界に連れてきてくれて……でも、そうやって優しくしてくれるのはきっとわたしだけじゃないんだろうなって落ち込んだり、もやもやしたりして……。そんないろんな感情を勘違いして、恋だって思っちゃったんです」

 今までに抱いた想いが走馬灯のように駆け巡る。
 そして同時に、クラスメートの和泉くんのことも思い出した。
 あれもまた、優しさに勘違いをして恋なのではないかと思ったけれど、その感情はどこか先輩に似ていたかもしれない。
 後付だからなんとでも言えるかもしれないけれど、今はそう思えてしまうのだから仕方がないんだ。

「先輩。先輩に抱いていたと思っていた感情は、今もちゃんとわたしの中にいます。そして、近いうちに向き合おうって決めてます。先輩がわたしのためにくれた言葉も忘れません。具体的にどうすればいいのか分からないですけど……後悔しないように頑張りますから……」
 わたしの家の傍に辿り着いたところで、話しながら立ち止まる。伝えたい言葉をすべて伝えるには距離が足りなかったのだ。
 先輩は黙ったままわたしに従うように立ち止まり、声が届くことを確認して願いを口にする。
 大好きで大切な先輩だからこそ、その願いが叶ってほしいと心の底から願うばかりだ。
「先輩もゆっくりでいいですから……また歩き出してくださいね」
 にっこりと、今日一番の笑顔を浮かべる。
 そしてもう一言付け加えるのだった。
 ……前に先輩からもらった、携帯につけたウサギのストラップを見せながら。
「だって、大切な友達ですから。幸せになってもらいたいです」


 わたしはずっと、勘違いばかりだった。
 ちょっと優しくしてくれた先輩に恋する気持ちを抱いたりとか。
 優しい先輩はいつも優しくて、何でもできる完璧超人だとか。
 でも、そうじゃなかった。
 先輩だってできないこともあるし、立ち止まることだってある。
 優しさのすべてがわたしにとって幸せを与えるかと考えると、そうじゃないと考える。
 今日だって、先輩が話してくれて初めて、ずっと立ち止まっていることを知ったんだ。
 わたしが恋に翻弄されている間に、先輩はずっと、うずくまったままわたしを見守ってくれていた。
 そんな先輩に手を差し伸べることは……きっと悪いことじゃない。


 一瞬驚いた表情を浮かべた先輩は、すぐに嬉しそうな笑顔に変えた。
「うん、そうだね」
 その声は震えていて、目にはうっすら涙が浮かんでいるように見える。だけどわたしは気付かない振りをした。
「ありがとう」
「わたしも、いつもありがとうございます」
 二人で感謝の想いを伝えながら、おかしくなって噴出した。
 これでひとつ、わたしの中のもやが晴れてしまった。
 わたしは想いの正体から逃げられず、どんどん暴かれてしまう。
 でも、今はそれもいいかと思えてしまうのだから、わたしは単純だ。
 あんなに臆病だったのに、臆病ではいられないと思わされてしまったのだから仕方がない。


「そうだなぁ……もし立花さんの決着がついたら、俺も頑張ってみようかな。カッコ悪いけどね」
 先輩が苦笑しながらそう言うと、わたしも同じように返事をした。
「じゃあ、わたしも頑張らなきゃですね」
「うん。よろしく!」
「はい」
 何気ない会話だったが、大変な約束を交わしてしまったように思える。
 これで本当に逃げ場はなくなってしまったのだ。
「それがいい結果でも悪い結果でも……俺はずっと友達でいるし、頑張る決意は変えないからね」
 恐れていた心の内を読むように先輩はそう言う。それはわたしが一番欲しかった、安心の言葉だった。
「はい、ありがとうございます」
 おかげで前を進む不安が少しだけ軽くなったんだ。
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