図書室の住人

29.夏休み直前:住人編

 時の流れがあまりにも速すぎて、気付けば六月も終わりを迎えようとしていた。
 夏休みが近づいている喜びに浸ることもなく、先に訪れる期末テストという難関が待ち構えている。勉強をしなければいけないこともあり、わたしたちの読書活動は停止となっていた。
 そして中間テストと同じく、部活動禁止期間に入ってすぐ、閑古鳥が鳴いていた図書室は人で溢れかえっていた。静かではあるが、人の気配がぎゅうぎゅうに詰まっているようで、何だか息苦しさを感じる。
 そのためか、わたしと香澄先輩、榊くんの三人は放浪する日々だった。
 勿論、榊くんが図書当番の日は図書室で勉強していたけれど、その他では中庭だったり、カフェだったり、ファーストフードだったり……時には図書館の自習室を使ったりもした。あれから二度ほど香澄先輩の家で勉強もしたし、ほぼ毎日と言っていいほど、わたしたち三人は一緒に過ごしていた。

 ぎくしゃくもしない。気まずいことはない。
 三人は皆別々の学年だったけれど、不思議と嫌ではなくて、勉強も一人より全然捗って、何より楽しかった。
 わたしはそんな関係が心地よくて……それ以上もそれ以下も望まなくなってしまった。
 ただ一つ願うとすれば、これしか思い浮かばない。


 この繋がりが、永遠になればいいのに―――。


 永遠がないことを分かっていてもなお、わたしは願わずにはいられなかった。
(もうその願いは、何度も願ったことだけど)




「終わったね~」
 期末テスト最終日。わたしと香澄先輩、榊くんの三人は、歩きながらテストが終わった解放感に浸っていた。
「榊くん、テストどうだった?」
「香澄先輩が教えてくれたおかげでばっちりです! ……と思いたい、です」
 テストに対しての感想はそれぞれだったが、共通しているのは、三人とも笑顔でいること。
「とりあえず、あとは夏休みを待つだけだねー」
 そして香澄先輩の一言で、わたしたちは今日一番の笑顔を見せた。


 テストは午前中で終了し、その後生徒たちは帰宅という流れになっていた。
 わたしたちはテストお疲れ会と夏休みの計画を立てようの会を兼ねて、午後は遊びに行こうという予定になっている。
 お昼を一緒に食べ、夏休みの計画を立てつつ本屋へ行ったり、何かあれば買い物に出かけたり……。
 勉強会の終盤、香澄先輩が提案してくれた会なのだった。
 今まで真っ直ぐ家に帰って読書をしていたわたしからすれば、不思議なことのように思える。前回の中間テスト後はこうして集まることをしなかったため、今こうして集まれたことは心の底から嬉しい。
「先輩、どうしたんですか?」
「え?」
 突然話しかけられたわたしは、榊くんの不思議そうな視線に少し驚く。ふわふわした気持ちのまま榊くんを見つめていると、次に香澄先輩からも視線を向けられた。
「何だかとっても嬉しそうだね、立花さん」
 その言葉に、思わず顔を俯ける。
「……そりゃあ、嬉しいですよ」
 だけど先輩の言葉に嘘偽りはなくて、わたしはぽつりと返事をするのだった。


 平日のお昼時は休日ほど混んでいない。
 しかし、わたしたちと同じようにテストを終えた学生がちらほらといて、そんな生徒たちを横目に、わたしたちはファミレスへと入っていく。
「いらっしゃいませ~。三名様で」
「はい。三人です」
 店員が言い切る前に先輩がそう言うと、わたしたち三人は席へと案内される。
 わたしが座った後、隣に榊くんが香澄先輩に押されて無理やり座らされているのが見えた。
 そしてわたしたちの目の前に、楽しそうに笑う香澄先輩が座る。
「何で押すんですか!」
 無理やり座らされた榊くんは怒り口調で問い質すが、
「立花さんの隣が嫌なの?」
「……質問を質問で返すのやめてください……しかもその質問はずるいですよ」
 あっさりと先輩にあしらわれ、榊くんは困ったように呟いている。
「とりあえず注文しよ。おなかすいちゃった」
 そんなことはお構いなしで、先輩はマイペースにメニューを開いた。怒りの行き場がなくなってしまった榊くんも、不貞腐れるようにメニューを手にする。
「立花先輩、先に見ていいですよ」
「あ、ありがとう」
 グランドメニューを受け取ると、榊くんは季節限定メニューの方を眺める。
 そういえば、三人でこうしてご飯を食べるというのは初めてじゃないだろうか。
 榊くんとは一度、一緒に出掛けた時にファーストフードで食べたことはあるけれど、先輩とはない気がする。
 だから今の状況がとてつもなく新鮮なことのように思えて、気持ちが浮かれているのもよく分かった。

「ミックスグリルのセットで」
「わたしは……ミートドリアを」
「オレはオムライス」
「あとドリンクバー三つお願いします」

 三人がそれぞれ注文し、各々にドリンクを手に席へ着く。
「テストお疲れさま~」
 先輩の声で乾杯をし、何だかおかしくなって三人で笑いあった。
「夏休み何して遊ぼうか」
 楽しそうな先輩に、わたしは夏休みのことを考える。
 家族で出かけることはあっても、友達と遊びに出かけるなんてしたこともない。大抵家で本を読む日々だったし、一人で外に出るとすれば図書館くらいだ。
「先輩は受験勉強じゃないんですか?」
 榊くんが先程の仕返しと言わんばかりに、嫌味口調で尋ねる。
「勿論勉強もするよ? 夏休みの課題もあるし、夏期講習だってちょっとは参加するしね。だからたくさんは遊べないかな」
 しかし真面目に返答されたため、榊くんは気まずそうに俯いた。
「まあその代わり、遊べるときは遊ぼうね」
 先輩はにっこりと笑顔を浮かべながら、沈みそうになる雰囲気を明るく照らす。榊くんも苦笑を浮かべながら顔を上げ、おもむろに手元のカルピスを飲み始めた。
「そういえば……この間二人でデートしたんだって? 俺がいない間にさ。どうだった?」
「ぶっ! ゲホッぐっ……」
 楽しそうに話す先輩に榊くんは動揺してカルピスを噴き出し、激しくむせる。
 最初は何のことか分からなかったわたしも、すぐに榊くんと出かけた日のことが脳裏をよぎった。
「えっと……ちょっと出かけただけですけど……」
 助け舟を出すようにわたしは話すのに、先輩はきょとんとしたままだ。
「そうですよ! ただ姉貴の誕生日プレゼント買うのに付き合ってもらっただけで……」
「わたしもちょうど、お兄ちゃんの誕生日プレゼントを……」
「でもデートでしょ?」
「………」
 どんなに言い訳を繰り返しても、簡単にあしらわれてしまう。
 少なくともわたしにはデートという意識がなくて、男女二人で出かけてしまえば勘違いされても仕方がないのかも……そんな可能性が薄らと芽生えていくようだ。
 何だか照れくさくなり、わたしはちらりと隣を盗み見る。だけど、タイミングが被ってしまったのだろう。隣に座る榊くんも同じようにわたしを見ていて、目が合った瞬間恥ずかしさがぐんぐん上昇していくようだった。
 慌てて目を逸らし、次に先輩へと視線を向けてみれば先輩は楽しそうに笑っている。楽しそうというよりは、微笑ましいものを見ているような優しい目をしていた。
「青春だねぇ。妬けちゃうなぁ」
 台詞と表情が合わない様子を、言葉にできない気持ちを抱きながら見つめることしかできない。

「お待たせいたしました」
 先輩だけが有利な状況の中、唯一の救いとなるウエイトレスさんが料理を運んできたことで、気まずい空気は途切れた。
 全員分の料理が並び、いただきますと手を合わせて食事が始まる。
 さっきよりも口数が減ったのは、それぞれ食べることに夢中なのもあるが、わたしと榊くんが完全にさっきの気まずさを引きずっているように思えた。
 何でこんなにも気まずいのだろう。照れてしまうのだろう。
 榊くんのことは分からないから置いておくとしても、わたしの妙な感情には疑問を感じずにはいられない。
 最近は妙なことばかりだ。
 でも、そんなことを言い出してしまえば、二年生になってから変わったことばかりである。

「さて、夏休みどうしよっか」
 気まずさを引き出した張本人のはずの先輩が、重たい空気を断ち切るように明るく話しかけてくれた。おかげでわたしの思考も途切れ、大げさだけど、がらりと雰囲気が変わったようにも思える。
「あ、それなんですけど……よかったらオレの家に来ませんか?」
 黙々と食べていた榊くんからの提案が飛び出すと、話はどんどん進んでいく。
「いいの?」
「はい。オレばっかりお邪魔するのもなーっていうのと、夏休み入ってから家族が留守にする日があるんで、その時にでもよければどうですか?」
「俺は全然大丈夫だよ。立花さんは?」
「わたしも大丈夫です」
「じゃあ決まりだね」
 気付けば一つ決まり、気まずさの代わりに笑顔が溢れていた。
 そういえば榊くんの家は行ったことがなかったっけ。どんな部屋だろう……?
 いろいろ考えていると、楽しみな気持ちが生まれていく。
「特に何もない家なんで、読書するなら持ってきてもらわなきゃですけど」
 苦笑しながら、榊くんはそう言う。
 その後榊くんの家で何をするかで話が盛り上がった。夏休みの宿題だったり、おススメの一冊を持ち寄って読書会だったり、ただ話すだけでもいいじゃないか、なんて意見も出る。
 手元のご飯を食べながらほんの少しの未来の話をするのは、妙に楽しくて、わくわくした。
 今までの夏休み前といえば、どんな本を毎日読もうかとわくわくしていたけれど、そのわくわくとは種類が違う。
 夏休みに約束を交わして誰かと過ごす。それは未知の世界で初めてのことで。

 だから、わくわくするのだ。


「ちょっと飲み物取って来るね」
 話が一区切りしたところで、先輩が空のグラスを手に席を立った。
 先輩の背中を見送りながら、わたしは残り少なくなったドリアを口に運ぶ。
 沈黙が降りたち、だんだんと心音のうるささが目立ち始めてきた。
 おかしい。
 さっきまでただ楽しくてわくわくしていたはずなのに、まるで気まずさが舞い戻ったかのように、わたしの頭の中がざわつく。

「立花先輩」
 そんな時、不意に榊くんが名前を呼んだ。驚いたわたしは、返事をする代わりに榊くんの顔を見つめる。そこには真面目な表情があって、思わず息をのんだ。
「先輩に話せなかったこと、今度話していいですか?」
 ファミレスの喧騒にかき消されそうな小さな声は、わたしの耳にちゃんと届いている。見つめ合う形となった状況と、榊くんの言葉と、普段の赤く染まった表情とは別の表情。
 何かが違うとすぐにわかり、緊張感がわたしの中に宿った。
 話せなかったこととは、わたしが前に尋ねた、あの話だろうか?
 実際にはどんな内容か分からないので、想像することしかできない。
「いつでもいいんです。ただ……夏休みのどこかで、話せたらいいなと思ってます」
 真面目な声色にドキッとしながら、わたしは勢いで小さく頷いた。
 すると榊くんが明らかにホッとした様子を見せ、表情が緩んでいくのが分かる。
「よかった」
 ふわりと浮かべた微笑みから目が離せない。いつもと様子が違うせいかもしれないけれど、多分、それだけじゃない気がする。
 とくん、とくん。
 ファミレスの喧騒などなかったかのように、心音だけが耳に残る。

「おまたせ~。なんかドリンクバー混んでてさぁ……」
「遅いですよ~。あ、オレも取ってきます」
「今なら空いてると思うよ」
「ありがとうございます! いってきます」
 先輩が帰ってくると、ほんの少し前のやり取りが夢だったのではと思わされるほどにいつもの空気が戻ってきた。榊くんもいつも通りで、先輩と入れ替わるように席を立つ。
 まるでわたしだけが先程の奇妙な時間に取り残されたような気がして……頭の中は混乱しっぱなしで。

 そしてこの鼓動を、暫く味わう羽目になってしまったのだ。
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