学校へ行くと、そこは何ら変わりない、普通の日常が広がっていた。
衣替えでそわそわしていることを除けば、本当にいつも通り。朝一番に衣替えの話をし終えれば、会話は授業の話やテレビの話で持ちきりとなっていた。
……何だかまるで、わたしだけが別の世界に来てしまったかのようだ。
その変な感覚を抱きながら、いつの間にか昼休みに入っていた。
わたしは手早く昼食を済ませると、読書に興じようと本を開く。
今日の本はお兄ちゃんからのお勧めで、音楽を絡めた青春物語だった。
学園ものだと最近はバンドを組む話が多いけれど、この話ではバイオリンとピアノしか出てこない。クラシックを中心としていて、音が聴こえないのにどこからか音楽が聴こえてきそうな……ゆったりと進む穏やかで心温まるストーリーという印象を受けた。
昨日三分の二まで読み終え、もう少しで終盤に差し掛かる。
本当なら昨日のうちに全てを読みきれるのだが、どうしても一気に読んでしまうことが躊躇われた。
……この物語を終わらせたくない。
わたしのたったそれだけのワガママで、読むスピードが格段に落ちてしまっていたのだ。本を開いて数分経った今も、ページは三ページしか進んでいない。
ボーっと窓の外を眺めながら終わりゆく物語から目を逸らしている。
「……ずっと読んでいたい」
思わず小さく呟いて、一緒に溜息もこぼしてしまう。
お兄ちゃんの誕生日でそわそわする気持ちを落ち着けようと開いた本で、わたしは少し落ち込む。
続編があればまだ救いはあるものを、この本は三年前に発売されて以降続編の話はない。というか、後書きにはっきりと『続編はありません』と書いてあるそうだ。だからこそ、わたしはこの本を読みきることが怖かった。
……こんな感覚、どれくらいぶりだろうか。
きっと読み終えた時、結末を知ることに喜びを感じるだろう。でも反対に、どれくらいぽっかりと穴が空いてしまうんだろう……そう思うと、少し憂鬱だった。
「何落ち込んでるんだ?」
ボケッと窓の外を眺めている最中のことだ。
横から声をかけられたのが分かり、わたしはゆっくりと声の主へと視線を動かす。
「大好きな読書中に珍しい」
視線が合うと、声の主はにかっと笑ってそう言った。その笑顔は香澄先輩や榊くんのものとはまた別の種類のように見える。太陽みたいに明るく眩しい笑顔。
「ちょっとね……本を読みきるのが寂しくて」
話しかける人物に、わたしは躊躇なくそのままの状況を話した。
「へぇ~。そうやって落ち込めるってすごいな」
「え、すごいって……」
「落ち込むほどってよっぽど好きなんだろ? 読みきって落ち込むことはあっても、読みきるのが寂しいとかそういうのはないなー」
「そういうもの?」
「そういうもの」
こうして何気なく会話している相手は、中学からずっとクラスメートとして接している和泉(いずみ)恭(きょう)夜(や)くんだ。
彼はクラスで独りぼっちの人間を放っておけないタイプで、自ら望んで一人になっているわたしでさえスルーできずにこうして声をかけてくる。
勿論わたしがどうして一人でいるかという話はしてあるのだが、何かにつけては読書の合間に声をかけていた。時折お勧めの本を貸したりすることもある。
ただそれだけの間柄で、未だクラスメートの域を超えたことはない。
「まあ、何事にも始まりがあれば終わりもあるわけだし。心の準備ができたら最後まで読んでやれよ。んで、読み終わったらもう一度読め」
少々説教臭いが、それでも彼の言うことは正論だ。
和泉くんはそれだけを言うと、「じゃあな~」とわたしの元から離れていく。
彼との会話が少ないのはいつものことで、それは読書をしているわたしを気遣ってのことであることは知っていた。
ほんの少しの彼との時間は、それなりに心地のよいものだ。そう感じ始めたのは、正直ここ最近のことなのだけど。少なくとも四月までは、時々煩わしいと思うこともあった。
彼なりに空気を読んで声をかけてくれることは知っているのに、それでもそっとしておけばいいのにと思うこともしばしばだ。クラスメートを続けて五年目になるのだから、意図的に一人でいることを理解しているはずなのに。
だけど心地よく感じ始めたのは、五月も中盤に差し掛かった頃かもしれない。
図書室で香澄先輩と榊くんと仲良くなってから。
平気だった独りぼっちの日々が、寂しいと感じるようになってしまってから。
「ああ、忘れてた」
立ち去ったと思っていた和泉くんが、慌ててわたしの元へと舞い戻ってきた。
「何?」
まだ本を開く気にもなれなかったわたしは、特に邪険にすることもなく彼に反応する。
「そういや最近、立花変わったよな?」
そうしてわざわざ言われたことは、本人も驚きの内容だった。
「変わった?」
反射的に聞き返し、自然と首を傾げてしまう。太陽みたいな笑顔はほんの少し雲に隠れたかのように眩しさが抑えられる。そして、よく香澄先輩が浮かべるような優しい笑顔を浮かべた。
「そう。先月からか? 読書の時間が減った感じする。ボーっとすることが多くなったっていうか」
言われたことは全部当たっている。確かに読書の時間は減って、ボーっとすることが多くなった。
喜怒哀楽が今まで以上にはっきりしてきて、いろんな感情に振り回されて。
そのせいでボーっと考え事をすることが増えたのは事実だ。
「一分足りとも無駄な時間を過ごしたくない~とかで、特定の誰かとつるむこともなく読書をしてた立花が? ボーっと? 場合によっては誰かと接する以上に無駄になるという時間を過ごしてるのが、不思議でさ」
「う……まあ、そうだね」
図星なら反論する言葉なんて持たない。気まずくなって視線を逸らすと、わたしは小さく溜息をつく。
そういえばそうだった。
今までのわたしは確かに本の虫だった。今もそうだが、今よりももっと貪欲で、もっと必死に読んでいたところもある。
世の中には一日に何十冊、何百冊も本が出版されていて、それを全て読み終えることは不可能なのも分かっていて、それでも一冊でも多く本を読みたいと思っていて。
言ってしまえば、余裕もなく本に埋もれた生活を送っていたな、と思う。死ぬまでに一冊でも多く本を読めたら本望だと思っていた。
「……いろいろ、あったの。先月は」
先月のことを懐かしく思うように、わたしは自分語りを始める。
彼にとってはどうだっていいことかもしれない。ただ、わたしが自慢したいだけかもしれない。
こんなに素敵な友達が出来たという話を。
「へぇ~。それは興味深い」
和泉くんは主が不在の前の席に座ると、長話でも聞いてやろうじゃないかと言いたげな様子で、わたしの顔をじっと見つめていた。
こちらが黙っていても向こうが何か口を開く様子もなく、本当に話を聞くつもりでそこにいるんだという状況を把握する。
そうして、わたしは簡単に話をした。図書室で出会った、先輩と後輩の話を。
読書だけの繋がりだけでは収まりきれない関係。新しい世界を知って衝撃を受けたこと。
……ひとりぼっちが、寂しくなってしまったことを。
話し終えた時、わたしの心は軽くなったと同時に後悔を生んだ。
こんな話を彼にしたところで、この世界にどんな変化がもたらせるというのだろう?
「それはいい傾向じゃないですか」
一人でぐるぐると後悔にうなされていると、和泉くんはかしこまったような物言いで口を開く。
「もうさ~。立花の『読書の邪魔するんじゃねぇ』オーラがとんでもなくてさぁ~。誰とも関わりを持たないまま一生を終えるつもりなのかって、こっそり心配してたんだぞ」
「……すいません」
「恩着せがましい言い方すると、ちょっとでも誰かと接するのが楽しいって分かってもらえたらって思って声かけてたのに」
「ごめんなさい……」
「『何コイツ。わたしは意図的にぼっちになってるのよ? 邪魔すんなクズ』とでも言いたげなあの冷めた視線ときたら」
「いや、そこまで酷いことは思ったことないけど!」
……前半は若干思ってたけれど。
それは声にせず、わたしは彼のありがたいお言葉一つ一つに反応した。
「はは。まあそれは冗談だけど……ほんと、なんか安心した。ていうか、俺が一方的に心配してただけだから、立花が謝ることはねーよ?」
気さくに接する彼はもう一度太陽みたいな笑顔を浮かべて、迷惑そうな様子を全く見せずにそう言う。
わたしが知らないところでこんな風に見守ってくれる人間がいたとは……。
ただのお節介だと思っていたのに、何でだろう……嬉しくてしょうがないと思う自分がいた。
「でも、何でそんなに心配してくれたの?」
一つ疑問に思うことといえば、素直に飛び出したその言葉だけだった。
問われることを想定していたのか、和泉くんは特に驚いたり取り乱すこともなく、ほぼ即答で口を開く。
「教えない」
しかし、予想とは反する言葉で拒まれてしまった。あまりにも力強い返答がずしんとわたしにのしかかってくる。
「えっ! なんで……」
普段の彼ならば長々と話してくれると思っていたせいで、わたしの中で妙な違和感がぐるぐると渦巻いていた。
「絶対に教えな……いや、それじゃ変な誤解されそうだな」
「どっち?」
「あっさり言うのは癪だし、言わなかったら立花が自意識過剰な妄想に花咲かせそうだし」
「何それ」
「うーん」
突然優柔不断になった和泉くんの意思は、絶対に揺らがないかと思いきやぐらぐらと揺れまくっていた。
すぐに話せば楽になるはずなのに、彼の捻くれた部分が露呈されてしまったらしい。
素直になるのを躊躇い、話すことを迷っているようだった。
「よし、じゃあ!」
暫くうだうだした後、ようやく決心が着いたと勢いよく立ち上がった瞬間、昼休みの終わりを告げるチャイムが響き渡る。そう。休み時間は無限にあるわけではなく、時計が止まることがあるわけがなく、ちゃんと世界は動いていた。
「……んだよぉ」
がっくりとうなだれる様がおかしくて、思わずぷっと噴き出す。笑い出すと和泉くんはむっとした様子で一瞬睨んできたが、すぐに笑顔になって一緒に笑っていた。
「はは。また今度だな」
チャイムを合図に、教室を出ていたクラスメートが続々と戻り始める。
勿論彼が座っている席の主も帰ってくる頃なので、和泉くんは椅子を元に戻すと、わたしの頭をぽんっと叩いた。
「俺は立花から本を借りたあの日から、勝手に友達認定してるから。教室で寂しくなったら声かけて。……まあ、そう思っているのは俺だけじゃないけど」
その言葉を最後に、彼は今度こそ立ち去って自分の席へと戻っていった。
わたしは席に戻っていく和泉くんの背中を見送ることしかできなくて、席に座ったのを見届けた後にようやくじわじわと温かい感情に包まれていく。
「……やっぱり、特別だ」
ぽつりと呟いて、ゆっくりと机に突っ伏す。
学校では特別なんてなくて、いつもの日常が繰り広げられるものだと思っていた。
なのに、教室で特別なことが起こってしまった。それは事実で、夢でも幻でも何でもない。
自身のことを話して、クラスメートとして接していた人間から友達だって言われて。いつもはそれほど長く話すことはないのに、長々と本音をぶつけあったりして。
思い返しているうちに、自分がどれだけ自己中に行動していたかを認識して恥ずかしくなる。
わたしに話しかける人間は和泉くんほどでなくてもぽつぽつといたはずだ。気を遣って声をかけてくれたことだってあった。勿論拒むことはしなかったけれど、自分から積極的になることもなかった。
一人でも上手くやってる?
自分はよくても、周りは気にしてしまうんだ。
気にしてもらえたから、香澄先輩とああやって友達になれて楽しくやっている。もしも気にしてもらえなかったら……わたしはずっと、独りぼっちだっただろう。誰かと接することで得られる感情を知らないまま、欠落した状態で生き続けていたかもしれない。
今ならそれが、とてつもなく寂しくて悲しいことだって、理解できる。
わたしの周りは優しさで溢れていて、だから攻撃を受けることもなく平和に暮らせていて。
ただ、運がよかっただけだ。悪の世界から上手く逃れて生き延びていただけ。
いつもの日常だったら気付けなかったこと。
また一つ、今日という日を特別視する出来事が発生してしまった。
そしていつも見ていたはずの教室の景色が、がらりと変わったように感じた。