図書室の住人

23.二十三回目の六月一日

 六月に入ると、すぐに一つのイベントがある。
 それは毎年のように、平日休日関係なく発生していた。
 六月といえば衣替えの季節だったり、梅雨の季節だったりと浮かぶものは他にもあるが、そんなイベントは些細なもの。
 世間ではそういう季節でも、我が家だけは……きっと特別だ。

 六月一日は、お兄ちゃんの誕生日である。

「おはよう」
「おはようお兄ちゃん。お誕生日おめでとう」
「……そろそろ喜べる年じゃなくなってきたけどな。でもありがとう」
 朝の会話は毎年同じようなものだった。それも恒例の儀式のように今年も行い、朝食を食べるために定位置につく。
 変わったことといえば、お兄ちゃん自身が年を取ることを喜ばなくなってきたことくらいだろうか。
 それでも『おめでとう』といえば笑顔を浮かべてくれる。
 わたしはその笑顔を見るのが毎年楽しみで、今年も無事に迎えられたことにほっとしていた。
「おはよう、二人とも。理斗くんはお誕生日おめでとう~」
「ありがとう母さん」
「おはよう、お母さん」
 ほわほわとしているお母さんも、今日はどこかそわそわした様子で落ち着きがない。
 朝食を運んでいるのだが、その動きは普段に比べて無駄が多く感じられる。
「理斗くん何飲む? というかご飯それで足りる? 他に食べたいものある?」
 そして、やたらとお兄ちゃんに気を遣っているようだった。気を遣うという表現はおかしいか……多分これは、特別な日をもてなしたいという気持ちの現われなんだろう。
 ぐいぐいと迫ってくるお母さんにお兄ちゃんはたじたじになり、怒ることも適当にあしらうこともできないまま、ただただ苦笑を浮かべている。
「飯はこれでいいよ。コーヒーくれ」
「はーい。とびっきりのコーヒー淹れちゃうね!」
 どこぞの新婚夫婦みたいな光景が繰り広げられてしまうのは、お兄ちゃんがすっかり大人になってしまったせいなんだろう。
 何より異常なのは、年を感じさせない若さを保っているお母さんの方かもしれない……。
 お兄ちゃんの希望を聞けたことが嬉しかったのか、るんるん気分で台所へ戻っていく姿を遠くから見送る。
「……ったく。いくつになっても変わらないな、あの人は」
 溜息交じりでぼやきながら、お兄ちゃんは用意された朝食を口へ運ぶ。
 お母さんがいなくなった隙を狙い、わたしはそっと隠し持っていたプレゼントをテーブルの上に置いた。
 毎年毎年、このタイミングなのは変わらない。
 お兄ちゃんにひたすら尽くすお母さんの隙を突いて、誰よりも早くプレゼントを渡すのが恒例だった。
「おめでとう」
 祝福の言葉をもう一度口にし、ずずいとお兄ちゃんへプレゼントを押し付ける。
 お兄ちゃんは一瞬目を丸くしたかと思えば、すぐに目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。今年は何だろうな」
 プレゼントに手を伸ばし、丁寧にラッピングを解いていく。その瞬間が毎回緊張する。
 もしも気に入られなかったらとか、がっかりされたらとか。毎年何を渡しても喜ぶ事は分かっていても、不安な気持ちはどうしても消えない。
 ラッピングのリボンを解き、出てきたのは青い眼鏡ケース。
 それをぱかっと開くと、驚いたように眼鏡を手に取った。
「ダテ眼鏡か?」
「う、うん……どう、かな?」
 結局選んだ眼鏡はチェック柄だった。
 柄物の眼鏡を見たことがなかったこともそうだが、何よりこの眼鏡をかけたお兄ちゃんが見たいと思ってしまったこともある。
「いいじゃないか。オレは気に入ったぞ」
 お兄ちゃんはそう言うと、早速眼鏡をかけてくれた。
 休日スタイルとは違う眼鏡をかけた姿は新鮮だったけれど、幸いよく似合っていて安心する。何より、気に入ってくれたことが心底嬉しかった。
「どうだ?」
「うん! 似合ってるよ」
 勢いよく頷きながら力強く言うと、お兄ちゃんはふわりと笑う。
 実の兄に言うのもなんだけど、こんなカッコいい人がわたしのお兄ちゃんだなんて本当に幸せ者だ。
「大事に使わせてもらうよ」
 お兄ちゃんの言葉に釣られてへらっと笑みを浮かべると、目の前にあったトーストをかじる。
 このトーストも普段と変わらない焼き加減で、ただバターが塗られているだけのはずなのに、妙に美味しく感じるのは特別だからだろうか?
 自分の誕生日でもないのに、やっぱり大切な人の特別の日は特別だ。
 空もお兄ちゃんを祝福しているのか、青い空がどこまでも広がっている。数日前に梅雨入り宣言されたばかりだというのに、どこまでこの世界は優しいんだろう。傘の心配はいらないかな。
 心の中だけで呟きながら、ようやく今日が平日であることを思い出した。
 お兄ちゃんもようやくトーストに手をつけ、いい音でかじっているのが聞こえてくる。

「ところで」
「ん?」
 お互い朝の時間がどれだけ貴重かを思い出したようで、黙々と朝食を口にしていた……はずだった。
 それでも食べることはやめず、食べながらお兄ちゃんはわたしに話しかける。
 改まった言い方が妙に気になるけれど、わたしだって遅刻は避けたい。
 スクランブルエッグを口に詰め込みながら、ただ本題を聞くことに専念する。
「そのヘアピン……初めて見るけどどうした?」
 でも、次の瞬間に手は止まる。普段そこまで言われないことを指摘されて、わたしは驚くことしか出来なかった。
 わたしは毎日ヘアピンをつけている。
 小学生の時にお兄ちゃんが誕生日プレゼントで366個のヘアピンをくれたことが毎日つけるキッカケとなっていた。お兄ちゃんが初めてのバイトのお給料で買い集めてくれたそれは、今でも大事に使わせてもらっている。
 どうしてこんなにくれたのかと聞けば、なくしてもいいようにとか、選択肢は多い方がいいだとか。
 いろんな説があるにしろ、毎日いろんなヘアピンをつけることができるのは本の虫であるわたしの唯一のオシャレであり、本以外で楽しめることの一つだった。
 ……というのは、今は割とどうでもいい。
 今日つけているヘアピンは、指摘されても無理はない……お兄ちゃんからもらったものではないのだから。
 プレゼントを買いに行った時のお礼として榊くんに渡されたヘアピンを、そういえばと思い出したようにつけてみた。……それが全て仇になったかもしれない。
 まさかお兄ちゃんがあの数のヘアピンを全て記憶しているとは思わないだろう。
 多分『つけたことがないヘアピンを発掘したんだよ』とでも言っておけばごまかすことだって容易なはずだ。
 でも、嘘をつくことだけは躊躇われる。かと言って、榊くんからもらったものだとは言えなかった。自分で買ったって言うのも、榊くんのことを思うと居たたまれなくなる。
「えっと……これは」
 何と言い訳しよう。
 お兄ちゃんの怪しむような表情が突き刺さり、さっきまでせっかく優しい笑顔を浮かべてくれていたのに全部台無しになってしまった。
 ああ、やっぱり空気を読んでごまかせばよかった。
 後悔してもこの状況から救われることもなく、無言で朝食を食べながら睨むように見つめるお兄ちゃんがとてつもなくわたしを追い詰めるようで、変な汗が流れるようだった。

「はーい! あっつ~いコーヒー淹れましたよ~」
 そこで空気を変えてくれるのは、いつもタイミングがいいのか悪いのか、どんな空気でも突撃してくれるお母さんだ。
 そういえばコーヒーを淹れると言ったまま帰ってきていなかったことを思い出して、本当に丁寧に淹れてきたのかと驚く。
 湯気が絶え間なく立ち上がり、普段のコーヒーの香りとは少し違う、もっといい香りが漂ってきた。
 だけど湯気を煩わしそうに見つめるお兄ちゃんは、不満げにお母さんへと視線を向ける。
「……オレ、すっげー猫舌なの知ってるよな?」
 そうだった。
 お兄ちゃんはとてつもなく猫舌で、あまりに熱すぎるものは暫く冷まさないと口にできないのだった。
「やだぁ! ごめんね。お母さんがふーふーしてあげるから、それで許して?」
 可愛らしく謝るお母さんは、運んだばかりのコーヒーカップにそっと両手を添える。
 でも、自分でもこんな反応ができないくらいには可愛らしい反応が憎めなくて、お兄ちゃんは諦めたかのような溜息をこぼした。
「いや、いい。飯食ってる間にいい温度になるだろうから」
「えぇ~。そんなに遠慮しなくてもいいのよ?」
「いや遠慮するだろ普通」
「昔はふーふーしてあげたよ?」
「いつの話だよ」
 気付けばお兄ちゃんはお母さんの相手で忙しくなり、わたしはただ黙々と朝食を食べるだけになった。
 そのおかげで早々に食べ終えてしまい、手元には空っぽになったお皿だけが残る。
「ごちそうさま! いってきます!」
 今がチャンスと逃げるように、わたしはお皿を流し台まで運んで傍に置いておいた鞄を掴んだ。
「おい! まだ話は」
「理斗くんも早く食べないと遅刻よ?」
 後ろから二人の話し声が聞こえるが、今は何も聞こえなかったことにしてしまう。
 そして慌しく玄関へと向かい、躊躇うことなく家を飛び出した。

「……学校で言い訳考えなきゃ」

 本当は正直に話すしか選択肢はないのに、何故か言い訳を考えようと今から脳をフル回転させ始める。
 ……だけどその前に、あの人にこのヘアピンを見せてお礼を言わなければ。
 今日は特別で朝から慌しい。
 一体今年はどんな一日になるのだろう?
 あれこれ今日の予定を考えながら、駆け足だった歩みを緩めていった。
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