図書室の住人

25.わたしが気付いた大切なこと

 気付いてしまったら、もう気付かない振りなんてできなくなっていた。
 普段目に入らないことも気になって、当然が大切なことだんだと自覚させられる。
 午後の授業で四人グループを作ることになった時、最後まで残されることなくクラスメートに誘われた。
 そのメンバーは仲良し三人組で人数合わせだと思っていたのに、いつも邪険にせず親しげに接してくれる。
 休み時間は隙を見て、また和泉くんが声をかけてくれた。和泉くんの雰囲気に誘われて、通りすがりの男子生徒も話の中に自然と入り込んでくる。
 些細なことだった。
 それはずっと自然なことだと思っていた。
 あまり気にすることはなく、意識して過ごしたことがなかった。ただ本のことだけを考えていたから。その読書が、わたしが優しさに守られていたことを隠してしまっていた。
 普通なら、もしも本当に興味のない人間なら……わたしのことなんか無視しているはずだ。どうしても気に入らないなら、とっくの昔にいじめられていたかもしれない。
 それで榊くんは自分を偽ってまでも教室で生きている。
 なのにわたしは何の苦労もしないまま、温かい世界に守られていた。
 わたしは長い間、大切なことから目を背け続けていたんだ。
 今気付けたことは果たして早かったのか……遅かったのか。その答えは分からない。



+++

 放課後、わたしは一目散に教室を飛び出した。
 とにかく香澄先輩や榊くんと話がしたい……ただその一心で。未だに本音を話せる人間は少なくて、この気持ちを打ち明けられるのは二人しかいなかった。
 家に帰ればお兄ちゃんの誕生日会が待っている。そこに暗い気持ちを持ち込むのは忍びなくて、できるなら家に辿り着くまでにスッキリしたい。
 それもまた自分勝手なことだと承知しているけれど、わたしは今日、どうしても二人のどちらかとでもいいから話がしたかった。

「あ、立花さん」

 図書室のある人気のない廊下を歩き続けると、図書室の前で香澄先輩が待っていた。
「こんにちは」
 にっこりといつもの優しい笑顔を浮かべ、その表情がわたしのそわそわとした気持ちも落ち着かせていく。
「こ、こんにちは!」
 なんとか挨拶を返すと、図書室の扉へちらりと視線を向けた。
「ああ、まだ開いてないみたいなんだ。今日は榊くんの当番なんだけど、ホームルームが長引いてるのかな?」
「そう、なんですか」
 いつもの雰囲気を纏った先輩も、今日はやけに眩しく感じる。そしてまた出来すぎた展開にごくりと生唾を飲み込みながら、両手に力を込めて拳を握った。
「あの、先輩」
 チャンスは今しかないと、ドキドキと胸打つ心臓に気付かない振りをして話しかけた。
「どうしたの?」
「その……ちょっと、話したいことがあるんです。いいですか?」
 思っていたよりすんなりと言葉が飛び出して、ほんの少し首を傾げていた先輩は不思議そうな表情でわたしを見つめている。
「うん、いいよ。中庭で話そうか」
 それでも迷惑そうな様子は見せず、話しやすい雰囲気作りに努めてくれた。
 不思議そうにしていた表情は元の優しい表情に戻り、歩き出した先輩の後を追いかけるようにわたしも歩き出した。


 放課後の中庭というのはほとんど人が存在しない。
 時々女の子たちがわいわい話していたり、告白スポットになっていたり。大抵の生徒は部活動か帰宅しているため、わざわざここで長居しようと思う生徒はあまりいなかった。
 今日も静寂に包まれている中庭には、今訪れたばかりのわたしと先輩以外の人間はいない。
 前に話した時と同じようにベンチに座り、さて何と切り出そうかと最初の言葉に悩む。
 しかし、何を悩んだところでこの状況から逃げ出せるわけではないことも分かっているつもりだ。
「先輩、突然すみません」
「ううん、大丈夫だよ。どうせ図書室が開くまで暇だったしね。それでどうしたの? 悩み事?」
 優しく話しかけてくれる先輩に、わたしは溢れそうな涙を必死で堪える。
 この優しさだって、本当は当たり前のことじゃない。
 先輩の優しさは優しさだけじゃないってことを、わたしは前にここで理解したはずだ。
「先輩に、報告したいことがあるんです」
 言葉にして、先輩がタイミングよく一人で図書室の前に待っていたことに感謝した。
 最初の出会いの頃を思い出して、一番伝えるべきは榊くんではなくて香澄先輩であることに今更気付いてしまったから。
「そっか。じゃあ、聞かせてもらえるかな?」
 穏やかな表情で話しやすい雰囲気を作る先輩に、わたしは小さく頷く。
 そして、たどたどしい言葉を少しずつ口に出していった。
「わたし、読書以外の時間が勿体無くて、周りの人間と接したりすることをないがしろにしていたところがあるって……最初に先輩と一緒に帰った日、言いましたよね?」
 ぽつりと尋ねると、「そんな話もしたね」と頷いてくれた。忘れられていたらどうしようと思っていたので、小さくホッとしながら続きを話し始める。
「先輩は誰かと接することで世界は広がって、読書以外の知識を得ることができるって……そう話していて。わたしは先輩や榊くんに出会った五月のあの日から今まで生きてきて、今が一番楽しいって……知らなかった世界がこんなに素敵だったなんて……今更理解しました。誰かと一緒に過ごしたり遊んだり勉強したり。ただそれだけのことが、大切なことだったんだって……今更、気付きました」
 周りにもたくさんの大切なことが散りばめられていて、世界はこんなにもわたしを守ってくれていて、それがどれだけ幸せなことだったんだろう。
 気付くには、遅すぎたかもしれない。
 それでもきっと、まだ間に合うことだってあるはずなんだと……そう思ったから、誰かにこの話を聞いてもらいたかった。

 ……わたしを別の世界へ誘ってくれた、この素敵な先輩に。

「今更、じゃないよ」
 一区切りした時、先輩はタイミングを見計らって返答の言葉を口にした。
 大きく目を見開き、図書室方面へと視線を向けていたわたしは、反射的に先輩の顔を見つめる。
 目が合うと、先輩は先程よりも優しい笑顔を浮かべた。
「まだまだこれから、どうとだってなるよ。今更なんて、まるでもう手遅れみたいじゃないか。立花さんは今から挽回したって遅くない。高校生活だってまだ二年生が始まったばかりだし、まだまだこれから……大丈夫だよ」
「先輩がそう言うなら、本当は手遅れなことも何とかなりそうって、そう思える気がします」
 力のない笑みを浮かべ、少しずつ気持ちが軽くなっていくのが分かる。
 ああ、こんなに楽しい世界なら……もっと早くに知っていたらよかった。
 そう思ったとしても、後悔だけはしたくない。
 もしもこんなわたしじゃなかったなら、先輩や榊くんとの出会いはなかったはずだから。
「これからはクラスでも他の人と話したりできたらなって思います。わたし……もっと友達を作りたいです」
 先月のつまらないわたしから大きく前に進んだ。
 勝手にそんなことを考えながら、きっと簡単に上手くいかないであろう未来に思いを馳せる。
「うん。少しずつ、できることからゆっくりね」
「はい! ありがとうございます」
 相変わらず応援姿勢の香澄先輩に、言葉では言い表せない感謝を何度も何度も心の中で叫んだ。
 ……こうして誰かと積極的に関わりたくなったのは、全部先輩のおかげだから。


 話終えると、わたしは鞄を持ってそのまま校門の方へと向かう。先輩に図書室へ来ないのかと尋ねられたけれど、今日はお兄ちゃんの誕生日だからと断った。
「じゃあ、お兄さんにこの話してあげて? きっと一番心配しているのはお兄さんだろうから」
 帰り際に先輩からそう言われ、今まで散々心配されてきたことを思い出す。
「はい、そうします」
 お兄ちゃん相手に照れるし、家には持ち込みたくないことだった。
 だからこそ先輩に話をしたわけだし、実際もうスッキリして解決している節もある。
 それでも話すことにしたのは……やっぱりお兄ちゃんを安心させたい……ただそれだけのことだった。



 先輩に見送られて帰宅すると、お兄ちゃんは既に帰宅しているようだった。
 確かに早く帰ってこいと念を押されていたとはいえ、わたしより早く帰ってくるとは思いもせずに緊張感が走る。
「ああ、おかえり」
 玄関の音に釣られたのか、リビングからお兄ちゃんが顔を出し、そのままわたしの方へと近づいてくる。
「ただいま。今日は早いんだね」
「梨乃も母さんも早く帰ってこいって言ってただろ? 今日はたまたま仕事が早く片付いたからさっさと帰ってきたんだよ」
「そっか」
 軽く頭を撫でるお兄ちゃんは穏やかな笑みを浮かべていて、何だか緊張が解けていくようだった。自分の話をするから緊張していた、なんてのが嘘みたいに、わたしはいつも通りのわたしになっていた。
「お兄ちゃん、わたしね」
 それからは、わたしのただの自分語りの時間だ。
 ご馳走がいっぱいのバースデーパーティーの前の、ほんの少しの空白の時間に、さっき香澄先輩に話したことをそのまま伝えていくのだった。
 一度話したことだから二度目はすんなり話すことが出来て、これから苦労することさえも楽しみになっていく。
 読書漬けになっていた時よりも、今が充実していて楽しくて幸せなんだと……そう思って、また笑顔を浮かべた。


「それは、何よりも嬉しいオレへのバースデープレゼントだな。朝のプレゼントとは別の意味で」
 そして……お兄ちゃんの嬉しそうでホッとしたような表情がわたしの後ろめたさを消し去り、喜んでくれたお兄ちゃんにも心の中でたくさんの感謝を叫んだ。

 お兄ちゃん、ありがとう。
Page Top