図書室の住人

21.憂鬱だったはずの月曜の朝

 月曜日の朝がこんなにも憂鬱なのは生まれて初めてだ。
 規則正しく鳴り響く目覚ましに起こされて思ったことは、ただそれだけだった。
 今日はまだ、修学旅行の代休で香澄先輩は登校してこない。……ということは、今日の図書室の集まりも榊くんと二人ということになる。
 土曜日に気まずさを残したまま、その日は解散してしまった。役立たずの折り畳み傘は結局使われることもなく、家に入る前にぱらっと降った程度で収まったことを思い出す。
 そして、気まずいまま月曜日を迎えてしまった。正直気まずいのは自分だけで、榊くんは何も気にしていないかもしれない。だけど、土曜日のことで嫌われて会ってもらえなかったら……そう思うと、心中穏やかではいられなかった。榊くんも、あの時は街中にいた時よりも大人しくなってしまって、それが心のどこかで引っかかっている。
 ……とはいえ、うだうだしていても朝の貴重な時間が失われるだけだ。
 余裕を持って起きているとはいえ、ちょっとでもボーっとすればあっという間に遅刻の時間まで辿り着く時だってある。
 溜息をついていた時間の分慌しく支度をし、朝御飯も食べずに家を飛び出した。今日はまだ余裕の時間なのに、落ち着かない気持ちがわたしの身体を動かしていく。
 ……そしてこの時間は、ちょっと前に朝、榊くんに出会えた時間だった。


 会ってどうするかはちゃんと考えていなかった。
 本当は会うのが気まずくて、怖くて……それで憂鬱だったはずなのに、家を飛び出してみれば早く会ってこの気持ちから解放されたいと願っていた。
 何がどうなるかは分からない。
 そもそも、榊くんはどういう気持ちなのかをわたしは何も知らないままだった。ちゃんと話をせずに仲違いするのはスッキリしない。距離が広がってしまうのは寂しい。
 できることなら……また普通でいたかった。
「いるのかな……」
 学校に着くや否や、下駄箱で急いで上履きに履き替える。
 こないだ会ったのはこの時間、下駄箱近くの廊下でクラスの女の子に囲まれているところだった。あの時は囲まれていたおかげで足止めされていたものの、いつも足止めされているとは限らない。
 今日はあの時の騒がしさなんて微塵もなく、ひっそりと静まり返っていた。人はいるものの、通り過ぎる人間ばかりで目的の人物は見当たらなかった。
 というより、偶然出会えたたった一日を頼りにこの時間に来るのは間違いだったのかもしれないと、今になっては思う。
 わたしだってこうしていつもより早い時間に来ることがあるし、起きた時間やその日の気分によって時間が変わることなんて普通だ。それに、あの日の榊くんの気分があの時間だっただけで、実際は別の時間が普通の登校時間だったのかもしれない。
「……榊くんにもっといろいろ聞いておけばよかったなぁ」
 溜息をつきながら思わずぶつぶつと独り言を呟く。
「何がですか?」
 するとどこからか天の声が降りかかり、わたしは溜息のまま独り会話を始めた。
「うん……いつも学校に何時くらいに来るのかなぁって……」
「オレは、七時五十分到着を目指して学校来てます」
「そうなんだー。ありが……」
 だけど欲しかった具体的な答えが返ってくると、さすがにおかしいと思う。
「え?」
 恐る恐る後ろを振り返る。今更になって背後に誰かがいると気配を察知し、振り返れば探していた張本人がいた。
「おはようございます、立花先輩」
 いつもと変わらぬ声色と態度。相変わらずの犬っころみたいな愛らしい笑顔に赤い頬、そしてちゃんと眼鏡もかけている。
「お、おおおおおおはよう! 榊くん!」
 いつもと違うのはわたしで、挙動不審なまま勢いで挨拶を返す。大袈裟にぺこりと頭を下げながらもう一度榊くんの顔を見ると、必死で笑いを堪えているのがよく分かった。
「な、何で笑うの……?」
「い、や……す、すいません……くっ……先輩の反応がふっ……面白くて、つい……」
「えー……まあ……否定はしない」
 自分の今の挙動不審さは把握しているつもりなので、反論するための言葉を探しても見つからない。何を言っても敗北しか未来はなさそうだったので、意地を張らずに素直になる選択肢を選ぶ。
 暫くすると、榊くんは笑いが抑え切れなかったようで、努力もむなしく噴出してしまっていた。恥ずかしくて仕方ない。でも、土曜日のことを思い出せば、この状況はかなりいい方向に進んでいるのだと思う。
 ……避けられるか気まずそうな雰囲気か、どっちかでしか考えていなかったから……。
「すいません、そういえばオレに何か用事でした?」
 ひとしきり笑い終えた後、ようやく榊くんはわたしに問いかけてくれた。
 本題に入るのかと思うと緊張も走るが、朝の貴重な時間だし、何事も早いほうがいい。
「あ、うん……用事。とりあえず歩きながらでも……」
 正直歩きながら話すことじゃないかもしれないが、そうでもしないとわたしがいろいろなものに押しつぶされてしまいそうだ。
「分かりました、行きましょう」
 不思議そうな顔をしているものの、それ以外で負の要素が見当たらない榊くんにホッとしながら、わたしたちは教室までの道のりをゆっくりと歩き始めた。


「あのね、土曜日のこと、なんだけど」
 歩きながらなので、前を向いていれば顔なんて何も見えない。気まずさのあまりこういう状況も利用してしまい、自分の情けなさを痛感した。
 おかげですぐに榊くんの反応が分からず、返事を待つ以外の選択肢はない。
「ああ、はい」
 返事は至って普通で、ただ単に相槌を打ってくれているだけのように思う。ここで歯切れの悪い言葉が聞こえても気まずいので、それはそれで安心なのだけど……。
 朝の時間は貴重だ。さっきもそれは思っていたことなので、勿体ぶらずにさっさと用件を話そうと心の中で何度か深呼吸をする。
「わたし、榊くんに無神経なこと聞いちゃったというか、いろいろ言わせちゃったというか……嫌な気持ちにさせてたらどうしようって思って……それが気になってて」
 次第に手に持っていた手提げ鞄を持つ力が強くなり、思わず下唇を噛む。
 多分、ここまでの様子だとそこまで気にしていないことはよく分かった。……だけど、分かっていてもやっぱり、不安は拭いきれない。
 上辺を偽ることは榊くんにとってよくあることだ。クラスでは人気者を気取っていると初めて話した時に聞いたことを思い出しながら、今だって普通を装っているのかもしれないと思うと、胸の奥が痛んでしょうがない。
 ほんの数秒が永遠に感じるくらいに、返答を待つ時間は長くて息苦しく感じた。

「……そんなこと気にしてたんですか?」
 そして返ってきた言葉は、不意を突かれたように驚いているという感じであった。
 榊くんの足が止まり、その反射でわたしの足も止まる。当然振り返るしかなくなり、榊くんの顔を見なければいけなくなってしまった。恐る恐る振り返れば、やっぱり言葉の印象どおり驚いた顔をしている。
 でも、次第にその表情は柔らかいものへと変化していった。
「何で先輩が気にするんですか。オレ、あの時ちょっと動揺はしましたしショックとかそういう気持ちも少しはありましたけど、考え方を変えたらすごく嬉しくて、頑張ろうって気になれたんですよ」
 今度はわたしが驚く番で、榊くんの言葉の意味を全く理解できずに困ってしまった。いや、前半は分かるけれど……後半?
「なんで嬉しいの?」
 疑問はあっさりと声になり、榊くんへと伝わっていく。するとわたしと立場が交代してしまったのか、挙動不審な様子を見せ始め、赤い顔は更に真赤に染まっていくのが分かった。
「い、いや……その……あの時の先輩の反応が……その……」
「わたし?」
 もごもごと喋っているので、先輩という単語しかろくに聞こえない。
 反応してみると更に挙動不審さは増していき、俯いたまま顔を上げる様子も感じられなかった。
「先輩には秘密にしておきます。そっちの方が面白いですし」
 だけど次の瞬間に榊くんが顔を上げた時には、もうさっきの榊くんは存在しなかった。どこか悟りを開いたような、穏やかな表情が浮かんでいる。
 でも、わたしにとってはこの展開は気になることしか残していない。
「え、何それ!」
「申し訳ないと思っているなら、こういうのも許してくれますよね?」
 反論しようにも、あの笑顔にそんなことを言われてしまったら何も言い返せない。無理に言わせるのも躊躇うし、せっかく気まずさを和らげることができたと安心したのに、また気まずい思いをするのはごめんだ。
「…………じゃあ、聞かないでおく」
 ぼそぼそ呟きながら目を逸らしてしまったのは、どこか拗ねている子どものように思える。それが妙におかしく感じて、わたしは思わず自分で噴出した。
「あはは、何かおかしいね、わたし」
 笑いながらそう言うと、榊くんも同じように笑う。
「そうですね、今日は変です」
 はっきり言われてしまったけれど、それでも今の状況は嬉しかった。
 もう榊くんと接することができなくなって、図書室は気まずい場所として残ってしまったら……もっと深刻な事態に陥っていたらと思うと、不安でしょうがなかったんだ。
 ……香澄先輩がいない間に変な状況にしてしまっていたら、それこそ申し訳ないし……。

「あ、先輩。これを」
 うだうだと考え事をしていると、唐突に榊くんがそう言いながらわたしに一つの袋を渡してくれた。やけに可愛らしくラッピングされていて、わたしは目を丸くしながら差し出されたものを見つめる。
「土曜日の帰りに渡そうと思ってたんですけど、渡しそびれてしまって……。買物に付き合ってくれたお礼です」
 その言葉にわたしは驚くしかなかった。いや、嬉しい。嬉しいとは思う。でも……。
「あの日はどっちかっていうとわたしの方がお世話になったんだけど……いいの?」
 誘われたのはわたしだが、実際に時間をかけて買物に付き合ってくれたのは榊くんの方だ。お礼をするのがわたしであっても、榊くんではないように思う。しかもわざわざラッピングされたものだし……。
「いいんです。オレは誘いを受けてくれただけで嬉しかったんですし」
 何だか釈然としないというか、納得がいかないというか。それでも榊くんがいいというなら、わたしには受け取る以外の選択肢しかない。
「ありがとう」
 これ以上意地を張っても貴重な朝の時間は待ってくれない。わたしは素直さを思い出しながらプレゼントを受け取り、まじまじと見つめた。
 本当にわたしがもらってもいいんだろうか? それとも、榊くん的にはちょっとしたお礼でも、可愛くラッピングされたものをプレゼントするのだろうか?
「気に入ってもらえるかは分かりませんが……。では、オレは行きます。また放課後!」
「あ、うん! また放課後!」
 プレゼントに気を取られている隙に榊くんは次の約束を残して去っていき、残されたわたしもようやく歩き出した。
 そっと携帯の時計を確認してみれば、もうあと十分もすればチャイムが鳴る。
「わたしも急ごう」
 手提げにプレゼントを大事にしまい、急ぎ足になって自分の教室へと向かい始めた。いくつか疑問は残るものの、一番のもやもやはいつの間にか落ち着いていて、憂鬱だった月曜日が和らいでいくのを感じる。
 ああ、よかった。安心感でいっぱいになり、また会えるであろう放課後が待ち遠しくて自然と笑顔が浮かんだ。
 ちなみにプレゼントは、可愛らしい、ピンク色の花がついたヘアピンでした。
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