その時が来るまではやけに長く感じ、その時が来たらあっという間に過ぎていく。
またそんな日は訪れるはずなのに、どんな時も終わりというものは寂しいものだ。
カフェを後にしてふらふらと街中を歩いていくわたしたちは、行く当てを探していた。話すだけならカフェに留まっていればいいものの、待っているお客さんが目に飛び込んでしまえばそちらに気にしてしまうのも必然。
二人して申し訳なさが先行し、カフェを出て行ったのが先ほどの話だ。
「これからどうしよっか」
少し会話の中に沈黙が訪れたのを見計らって、わたしは行き先について尋ねた。
「まだ……時間、大丈夫なんですよね? どうしましょうか……」
十六時近くを指す時計を時折眺めながら、お互い特に行く先が思いつくこともなく、二人でどうしようを繰り返していく。
考えながら歩いていると、カフェにいた時よりも簡単に沈黙は訪れていた。それでも居心地が悪いとは思えなくて、すっかり眼鏡のない榊くんにも慣れてしまったわたしは、このままふらふら歩くのも悪くないと思ってしまう。榊くんも同じなのか、どこかリラックスしているように感じた。
そしてそれが慣れきった頃、きっとわたしたちの時間は終わってしまうんだろうなと終わりを妄想して自然と溜息がこぼれていく。
「先輩?」
「うおあ!」
突然顔を覗き込みながら声をかける榊くんは、不思議そうな顔でわたしをまじまじと見つめた。それに慌てて何歩か後ずさると、突然のことに驚いた心臓を落ち着かせようと、何度か深呼吸をする。
「す、すいません……。返事がなかったので、大丈夫かなと……」
何も悪くないのに謝罪を繰り返しながら、ばつが悪そうに笑う表情が目に映る。
ああ、わたしは何をしているんだろう。何でわたしは、終わりがあることをこんなに寂しく思っているんだろう。
「ごめんね、ボーっとしてて」
へらっと笑顔を浮かべながら、無駄だと分かっていても安心させたくなる。楽しい時間に水を差すのは何だか嫌で、気を遣わせるのは躊躇われた。
……わたしの方が年上なのに、どうして彼はこんなにもしっかりしているんだろう。少なくとも、わたしなんかよりは。
「あのね、榊くん」
「先輩」
何か言わなければ。
焦りが先行した結果、言うことを何も考えていないのに声をかけるという状況が生まれた。
ああ、どうしよう……そう思っていた時、榊くんと声が被ったことで全てが救われる。
「あ、すいません。先輩からどうぞ」
「う、ううん!! 榊くんからどうぞ!」
いつだったかも同じように声をかけるタイミングが被ってしまって、譲り合ったり気まずい思いをしたことがあったっけ。
そんな昔を思い出しながら、わたしは沈黙を保ったまま榊くんを見つめることしかできなかった。
「あのオレ、行きたいところがあるんです。駅から離れてしまうんですけど……いいですか?」
だけど結局、わたしは何も話さないままで終わってしまう。基本的に榊くんの発言で言いたかったことを忘れてしまうからだ。
穏やかにふわりと笑顔を浮かべた榊くんが、一瞬別人かと思うくらいに綺麗に見えた。他の感情が全く沸いてこず、ただ綺麗だという気持ちだけがわたしの中に残る。
呆然としたまま了承の意味も込めて頷くと、互いに立ち止まっていた足がようやく目的地へと進み始めた。
わたしには行き先が分からない。
でも行く当てがなかったわたしたちにしてみれば、榊くんの提案は救いでしかなかった。
歩き続けて二十分ほどだろうか?
駅周辺から歩いてきた場所は、見慣れるも何も、毎日見ているような場所だった。
「……家?」
自分の家が見え始め、もしかして送り届けて終わり? と、突然の終わりに少しだけ動揺してしまう。
「いえいえ」
わたしの発言に対してギャグみたいなことを言い出した榊くんは、颯爽と家の前を通り過ぎていく。疑問が浮かんだまま後をついていくことしかできず、ただただ目の前の背中を見つめることしか出来ない。だけど、それからすぐに目的地には辿り着くことができた。
「ここです」
ようやく立ち止まった場所は、家の傍にある公園だった。
この公園は遊具も少なければ広さも狭いので、ここから少し離れている遊具も充実した公園に普段子供達が集まっている。いつだってここは寂れていて、過ごしやすい日はよくここで本を読んでいたのを唐突に思い出して懐かしんだ。
「すぐに先輩を送り届けられてゆっくり話せそうな場所って……ここしか思いつかなかったんです。当てもなく歩き続けるのも疲れるかと思いまして」
気遣いの塊みたいになってしまった榊くんは照れくさそうに笑うと、この公園唯一の遊具であるブランコに腰かけて軽く漕ぎ始めた。
それに倣うようにわたしも隣を陣取って、ゆらゆらとブランコを揺らす。
こんな風にブランコに乗るのは久しぶりだ。
読書には向かないからとベンチにばかり座っていたから、こうして乗るのは……小学生以来かもしれない。
「今日、どうでした?」
会話が途切れて沈黙になったところで、改まったように榊くんが尋ねた。前を向いたままの榊くんの横顔が、わたしの目に映る。どこか、緊張したような表情に見えたのは、気のせいだろうか。
「わたしは楽しかったよ。楽しくないわけがないよ……」
答えは考えずとも飛び出して、ほぼ反射的に答えてしまった。それで安心したのか、交わらなかった互いの視線が絡み合う。
「オレも楽しかったです。先輩を誘ってよかった」
ふわりとした笑顔を一瞬だけ見せると、また前を向いて別の表情へと変えていく。それはいつも見ている赤色だった。
何だか心臓の辺りがぎゅっと締め付けられるような気がして、ほんのちょっぴり胸が苦しくなっていく。
「……今度は香澄先輩も一緒に……三人で出かけましょうね」
さっきよりも小さめの声で、榊くんは呟くように言った。
「うん、そうだね。今度は三人で」
呟いた言葉は、まるで叶わない願いに想いを馳せているように感じる。三人でいることはそんなに難しいことじゃないのに、どうしてとてつもなく困難なことのように思えるのだろう。
妙にざわつく感覚が落ち着かなくて、わたしも榊くんから目を逸らして空を仰いだ。
「香澄先輩、今頃修学旅行の帰りですかね?」
この流れから先輩の話題へと移り、不在の先輩のことを存分に思い出せる。
「今日の夜に着くんだっけ?」
「メールでは十九時近くに着くとかありましたよね」
「そういえばそうだったかも」
妙な感覚から離れたくて、ただただ会話に集中することだけを考えていた。
この感覚も、自分が何を考えているのかも分からない。分からないのだけど、何故か深く考えたいとは思えなかった。
「早く香澄先輩に会いたいですか?」
唐突……でないのかそうでないのか。榊くんの言葉の意味を、わたしはきちんと理解していなかったのだろう。
「そりゃそうだよ。また三人で本読みたいし」
「いや、そういうわけではなくて……」
即答してみても、榊くんは溜息しかつかない。その後、榊くんはブランコから降り、少しだけ前へと歩くとゆっくりと振り向いてこう言った。
「恋愛的に好きな香澄先輩に会えなくて、寂しくなかったんですか?」
そこまで言われても、わたしにはどうもぴんと来なかった。
やけに強調された『恋愛的に好き』という言葉と、『寂しい』という言葉。それからほんの少し剥きになったような様子で問いかける榊くんが、変に自分の中で引っかかって頭がおかしくなってしまいそうだった。
「恋愛的にって……」
実際に声に出してみてようやく、榊くんが誤解したままであることを思い出す。
わたしが香澄先輩のことを好きなんだと、そういう認識を持たせたのは榊くん自身もそうだったけれど、わたしにも責任がないわけではない。
「あ、あの、それはその」
「いや……すいません、変な質問して。忘れてください」
またデジャヴだ。質問してきたくせに、忘れろ、なんて。
「……忘れるわけないよ」
さっきは頭もごちゃごちゃで返答も慌てているだけでろくでもなかった。慌てていた時と今では、それほど間が空いているわけではない。
なのにわたしは酷く冷静で、次の言葉がすぐに飛び出るくらいにはまともに話せる状態になっていた。
「榊くんはさ……誰かに恋したことある?」
そして投げかけるのは、榊くんの質問に対する答えじゃなくて、全然違う彼への問いかけだった。勿論、驚いて目を丸くしている榊くんは、何を言われたのかすぐには理解できないようで反応がない。
「えっ…………え!?」
幾分遅れての反応を見せると、挙動不審に陥り、慌てふためく様子が目に映る。あまりにも突拍子がなさ過ぎたと質問を投げてから後悔しても遅い。
ずっと聞いてみたかった一つの質問だから、言ってしまったのなら、それはそれでよかったのかもしれないと自身を落ち着かせた。
「わたしはさ、ろくに経験もないからさ……何が恋愛的に好きで何が友達的に好きなのか、区別がつかないんだよ。だからもし経験があるなら話を聞きたくて」
動揺の雰囲気を壊すように語りかけると、榊くんの挙動不審はぴたりと収まった。顔の赤色は赤色のままだけど、表情が穏やかになっていく様を見ていると、少しは冷静さを取り戻せたのかなと想像してみる。
何度か深呼吸をして荒げた呼吸を整えると、榊くんはわたしに背を向けて一つ呟いた。
「……してますよ、恋愛。現在進行形です」
どんな表情で打ち明けてくれたのだろう?
そして、わたしの胸の苦しみが再び蘇るかのように襲い掛かってきた。
そんなわたしなんて知ったこっちゃないという風に、榊くんは言葉を続けてくれる。
「顔を合わせるたびに顔が熱くなってドキドキして胸が苦しくなって……ほんと厄介ですよ。涼しい顔してカッコよく接したいのに、いつもろくでもない接し方ばっかりで、相手を困らせて。ちょっと顔を合わせていなくても寂しくて、早く会いたいなって……すぐに会えるのに、そんなことばっかり考えて。というか常にその人のことばっかり考えてて……」
次々と飛び出す言葉ひとつひとつが、榊くんの大切な想いの欠片のように思えた。
背を向けたのは照れ隠しで、それがなければこんなことを話してくれなかっただろう。その相手が本当に好きで好きでしょうがなくて、きっと秘密にしていた大事なことを……わたしなんかに話してくれた。それが妙に嬉しかったり、ちょっぴり寂しかったり。
複雑に感情が絡み合って出来上がったこの感情を何て呼ぶんだろう?
新たなる疑問が浮かび上がって、見られていないことをいいことに首を傾げた。
「オレが好きなのは、」
そして別のことを考えている間に、榊くんはとんでもないことを口にしようとしていた。
「待った!」
思わず口を挟み、わたしも同じようにブランコから降りて榊くんの傍へ駆け寄る。驚いた勢いでようやく後ろを振り返った榊くんは、とんでもなく赤い顔でわたしを見ていた。
「別に名前まで言わなくていいよ。わたしはさ、どんな気持ちなのかなって知りたいだけだし……そこまで教えてもらうのは申し訳ないよ」
「え、でも」
「いいの! だけどわたし応援してるから! 榊くんがわたしを応援するって言ってくれたみたいに」
半ば無理やりだったかもしれないと、全部言い終わってから思った。
だけどわたしは心のどこかで、好きな人の名前を聞きたくないと拒んでしまったのかもしれない……そう思う。
「だってわたし、榊くんの友達だもん。力になれることがあったら力になりたいよ」
わたしはずるい。友達だから応援すると言うのに、名前を聞いてしまえば、友達が取られてしまうという現実が怖くて名前を聞かなかった。
……これじゃあまるで、偽善だ。
「そう、ですか」
どこか気が抜けたように、榊くんはぽつりと返答する。ほんの少し悲しそうに見えた表情がぐさりと胸の奥まで突き刺して、わたしの偽善が見破られているかのように思えた。
必死で笑顔を浮かべているつもりなのに、本当に笑顔なのかさえも分からない。
榊くんの悲しそうな表情は一瞬で、すぐに笑顔に変わっていった。
「じゃあ、応援してもらわないとですね」
だけどその笑顔は、わたしの不安を煽るだけのものに過ぎない。何か言わなきゃと思った時にはタイミングを失っていて、何を言っても駄目な気がする。結局、わたしにはどうすることもできないんだって思い知った。
そして、わたしたちの土曜日は呆気なく終わりを迎えてしまった。……何とも後味の悪い形で。
「……わたし、最低だ」
結局誤解も解けず、榊くんに踏み入ったくせに肝心なところに踏み込めないまま、日が暮れるまで公園に立ち尽くしていた。