図書室の住人

16.先輩がいないとある放課後

 家に招いた数日後、五月下旬に入ったところで、香澄先輩は修学旅行へと旅立たれてしまった。
 前に修学旅行の買出しという名目で不在だった時もあったし、別に知らなかったわけじゃない。昨日だって、先輩にいってらっしゃいを伝えている。
 こればっかりはわたしたちには何もできないので、ただ留守を任されるしかない。
 先輩は三泊四日の旅行で水曜に出発し、土曜の夜に帰ってくる。
 本日は二日目の木曜日。わたしたちは昨日に引き続き、図書室で本を読んでいた。榊くんの当番日も重なっているので、図書室に入り浸るのも必然となっている。
 図書室の利用者は相変わらず皆無で、昨日はかろうじて他に数人の利用者がいたものの、今日はわたしと榊くんのみだった。
 先輩がいない穴は思ったよりも大きく、本を読んでいても何となく落ち着かない。たった数日……月曜日になればまたいつも通りに戻る。
 分かってはいるのに、わたしはどうしても落ち着くことが出来ずにいた。
「立花先輩、香澄先輩からメール着ました?」
 二人きりということもあって、普段ならこっそりと交わす言葉も、今日は気にすることなく交わす。
 不意に榊くんから話しかけられ、わたしは本から携帯へと意識を移した。
「うん、着てたよ。京都の写メついてたヤツ」
 返答しながら昨日の夜に届いたメールを開く。
『京都に来たよ!』
 という一行のメールと、京都駅の写メ。他にも京都らしい特徴的な建物や街並み、舞妓さん、人力車に乗った先輩、食べ物、宿泊先のホテル……。
 いろんな画像を送ってくれて、楽しそうだなというのがひしひしと伝わってきたのを覚えている。
「香澄先輩楽しそうですよね……」
 榊くんへと視線を向けると、自分と同じように携帯を眺めていた。羨望を含んだその言葉に、わたしも同意してしまう。
「わたしは来年だー」
「あ、そうですよね。オレはまだまだ先だ……」
 二人で虚しくなるような呟きを繰り返しながら、わたしは自分が修学旅行へ行っているところを想像してみる。
 先輩がとっても楽しそうだし、旅行なのだ。きっと楽しいに違いない。そう思うのに、どうしても自分が同じ立場になった時のことを想像できなかった。
 先輩の画像には友達と写っている写真もいくつかあって、それがまた楽しそうだなとうらやむ気持ちでいっぱいになっていくのだろう。
 それにわたしにはまだ、一緒にいて楽しいと思える人間は少ない。そんな状況で修学旅行なんて……楽しいんだろうか。友達がろくにいないからとか、そういうわけでは…………いや、もう考えるのはよそう。

 そこから会話は途切れ、わたしはもう一度本へと視線を移す。
 今日の本は本日新刊として図書室にやってきたホラー小説だ。普段、わたしはあまりホラー小説を読まない。だからこそ、ワクワクしながらページをめくっていたけれど、さっきから集中できず、なかなか頭の中にストーリーが入ってこない状態が続いている。
 ……集中できない理由は、自分でもよく分かっている。

 もっと普通の時に、しかも夜に読みたいな。
 文章の雰囲気がとてつもなく好みだと感じるからこそ、わたしは脳内にこの本のタイトルをしっかりと刻み付けながら思う。
 ……また借りよう。
 心に一つの誓いをたて、わたしはそっと本を閉じる。
 もっと本に没頭できれば、物足りなさや寂しさというものは紛れるというのに……。今はどうしても、本に集中することが出来なかった。
 こうやってぼんやりしている間にも、きっと十ページくらいは読みきれることだろう。今日もまた何十冊も本が出版され、世に送り出されている。
 また野望から遠ざかっていくのを感じながら、それでもどうしようもないんだと心の中で悟った。集中できなければ、本の内容が頭に入ってこなければ、読んでいても何も意味はない。

 席を立ち、新刊コーナーに本を戻した。今日はきっと、集中して読むことは難しいだろう。何だか悔しいけれど、どうしようもないと諦めてしまったならそれに従うしかない。
 カウンターでぼんやりしている榊くんを見つめながら、小さく溜息をつく。向こうも本を手にしているはずなのに、一向にページをめくる気配が感じられなかった。
 多分だけど、わたしと同じく何か気になることがあって、落ち着かないのかもしれない。

「何か、お互い読書が進まないね」
 そんな彼に思わず声をかけ、苦笑を浮かべた。
 突然話しかけられたことに驚いたらしい榊くんは、動揺しながらも本を閉じ、視線を泳がせている。顔も相変わらずの赤色だ。その様子が面白くて、ほんの少し気持ちが軽くなるのを感じながら、わたしはカウンターの傍まで歩み寄る。近寄ってみると、動揺している様子がはっきりと分かった。
 ……でも、そこまで驚かせるようなことを言っただろうか?
 今でも気まずそうに顔を真赤にしたままの榊くんは、わたしを見たり見なかったりと落ち着きがない。
 何か話そうと思っていたのに、近くで榊くんの顔を見ると言葉なんてどこかへ行ってしまった。榊くんがうつってしまったかのように、わたしまでもが動揺する羽目になり、何だか居たたまれない気分になる。

「た、立花、先輩っ」
 ガタッと大きな音を立て、カウンターの傍で座っていたおもむろに榊くんが立ち上がった。
「はいっ!」
 その音が脳内をフリーズさせ、何も考えられぬまま目をぐるぐるさせる。
 改まって名前を呼ばれると、この先が想像できなくてどうすればいいのか分からない。
 真赤な顔に見つめられると妙な恥ずかしさが生まれて、うっかり伝染してしまうのではないかと戸惑いも生まれ始める。
 見つめたり、視線を逸らしたり。
 それを繰り返しながら、ほんの少しの無言が永遠のように感じていた。
「…………どっ……土曜日って、空いてますか……?」
 告げられた言葉は、想像もしていない言葉だった。
 さっきよりも真赤な、それこそ茹蛸と表現してもいいくらいの顔色で、小さく小さく呟いた言葉。
「え……?」
 上手く理解ができないわたしは、思わず聞き返してしまった。
 何の意図があっての言葉なのか、動揺中のわたしには冷静に考える暇もない。
「その、えっと……本屋とか、回れたらいいなってのもあるんですけど……オレの姉貴が今度誕生日……でして……。そっ、それで、買い物に付き合ってもらえたらって……思ったんですけど……何か、急にすいません」
 丁寧に説明してくれた榊くんは、最後まで言い切ると、何故か視線を合わせてくれなくなった。榊くんから、申し訳ないという気持ちがひしひしと伝わってきて、何だか頭が弱い自分が逆に申し訳ないと思ってしまう。
 そして、そんなことを自分が頼まれるとは思いもしなかった。
 意外な展開に驚きながらも、返す言葉は既に決まっている。
「わたしでよければ全然いいよ。あんまり助けにはならないかもしれないけど……土曜日は特に用事もないから大丈夫」
 普段から休日に出かけることも少なく、榊くんの頼みなら断る理由もない。
 その気持ちを素直にそのまま言葉にしてみると、俯いたままもう顔を上げないんじゃないか……と思うほどに落ち着きのない榊くんは、ようやく顔を上げて視線を合わせてくれた。
「い、いいんですか?」
「うん」
「本当に?」
「うん、いいよ」
 信じられないと言いたげな様子の榊くんは、自分が信じられるまで(かは分からないけれど)何度もわたしに尋ねた。
「いつも榊くんにはお世話になってるし、榊くんの頼みなら全然オッケーだよ。それとわたしもお兄ちゃんがもうすぐ誕生日だから、一緒にプレゼント買っちゃおうかなぁ、なんて」
 へらっと笑いながら、問いかけられるたびに安心できるような言葉を返す。
 逆に重荷になっていないだろうか?
 いろいろ考えながら言葉を紡ぐけど、結局最後には考えることさえ放棄する。
 何度目かのやり取りの後、ようやく落ち着いたのだろう。榊くんは一つ深呼吸をすると、気が抜けたような顔でわたしを見つめた。
「よかった…………です」
 心底ホッとした顔だ。何だかこっちまで釣られてホッとした気分になって、安心している自分がいるのが分かる。
 ……もしかして図書室でずっと落ち着きがなかったのは、わたしを誘うのに緊張していたから……なんだろうか?
 確かに、友達にどこかへ行こうと誘えって言われたら、わたしだって数日は悩むに違いない。
「じゃあ、土曜日の十二時に駅前に集合でもいいですか?」
 ほんの少し収まった顔の赤色を眺めながら、わたしは榊くんの提案に頷く。未来の約束が気持ちを舞い上がらせ、香澄先輩がいなくて物足りない、寂しいと思っていた気持ちを軽くさせるようだった。
 助けてくれるのは香澄先輩だけじゃない。
 改めてそれを実感させられて、本当に自分は幸せ者なんだと改めて思った。

 下校時間の放送が流れ、いつも通りの手際で図書室の戸締りをする。
 榊くんと知り合う前はそのまま帰ってしまっていたものの、当番に付き合うようになってからは、戸締りの手伝いも日課となっていた。
「こっち戸締り大丈夫だよ」
「オレも終わりました。……じゃあ、行きましょうか」
 机に置きっぱなしになっていた鞄を手に取り、二人で図書室を後にする。鍵を閉め、職員室へと向かうために静寂に包まれた廊下を歩き出した。
 あまりにも人気が感じられないと、この世界で二人だけが取り残されたような気分になる。だけど少し外に出てみれば、耳を傾けてみれば、部活に勤しむ運動部の大声が聞こえてきて、ちゃんとみんないるよと教えてくれているような気がした。
 榊くんとわたしの間には会話がない。
 ないけれど、最近ではそれでも居心地がいいと感じてしまう。少しずつ接することに慣れてきたのか、無言でも許されるのだと安心してしまっているのか。分からないけれど、居心地がいいのはありがたいことだ。
 誰かと接することは苦手じゃないけれど、積極的に話せと言われると悩んでしまう。常時会話を強要されていないこの関係は心地よくて、こっそり心の中で感謝した。
 ……だからこそ、こうして一緒にいられるのだとわたしは思う。
「先輩、明日はちょっと用事があるので放課後は先に帰ります」
 無言の状況でぽつりと話しかけた榊くんは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ううん、平気だよ。毎日一緒にいるのは強制じゃないしね。部活とかじゃないし……謝らなくて全然いいよー」
 何とか顔を上げてもらい、笑顔で乗り切ろうとする。
「それにほら、さっき土曜日の約束したでしょ? 明日は土曜のために下調べでもしてるよ。だから気にしないで?」
 プレゼントのことも全然考えていなかったことだし、一日空くくらい全然大したことはない。それよりも……学年も性別も違って部活仲間というわけでもないのに、放課後が訪れる度に一緒に過ごす方が不思議な気がする。
 会えない日が多いのが普通だと今気付いたわたしは、最近の充実した日々は榊くんや香澄先輩が傍にいてくれたおかげなんだと気付いた。
「それなら……いいんですけど」
 ようやく折れてくれた榊くんは、まだどこかすっきりしないような表情でわたしを見つめる。
「土曜日……楽しみにしてます」
 だけどすぐにひとつ深呼吸をし、力を抜いたところで榊くんは控えめにはにかんだ。
 そこで職員室に辿り着き、動かしていた両足はゆっくりと立ち止まる。
「じゃあ、今日はここで。ちょっと担任に用事があるので先輩は先に帰っててください」
 わざわざ立ち止まって向き合った理由は、ここでお別れという合図だったのか。
 気付いた時にはもう遅くて、待っているつもりだったわたしは何とか気持ちを切替させる。
「あ、うん。じゃあまた、土曜日に」
「何かあったらメールします」
「うん。またね」
「気をつけて帰ってください」
「はーい」
 手を振って別れると、わたしは背を向けて靴箱へと向かっていった。

 いつもなら、三人で並んで校門を潜り抜けて帰るというのに。
 ひとりで潜り抜けるのはなんとなく寂しくて、二人に出会う前の自分に戻ったかのようだった。
「……何考えてるんだか」
 自分自身をバカにするように笑いながら、真っ直ぐに家への道のりを歩いていく。
 とりあえず、土曜日に買うプレゼントのことだけを考えることにして、わたしは寂しさを忘れることにした。
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