図書室の住人

15.今晩は寂しさに溺れることでしょう

 我に返った時には全てが遅かったように思う。
「お母さん……」
 お兄ちゃんから解放され、何のために書斎を出たのかを思い出し、慌ててキッチンに行けばもぬけの殻だった。お母さんだけではなく、ケーキや飲み物さえもない。ついでに言うと、書斎にも既に誰もいない状態だった。
 もしやと思って自分の部屋へと向かってみれば、ケーキを囲んで談笑している三人の姿がそこにあって……思わず小さな溜息が漏れる。
「あら、梨乃ちゃん!」
 わたしの視線にいち早く気付いたのは、扉が視界に入る場所に座っていたお母さんだった。
 異常に耳がいいのか、どんなに小さな声で呼んだとしても反応してくれるお母さんは、立ち上がって扉の方へと駆け寄り、わたしにぎゅっと抱きついてくる。
「ごめんね。梨乃ちゃんがお世話になってますってご挨拶だけしようと思ったんだけど、梨乃ちゃんが帰ってくるまで待ってようって、つい居座っちゃって……」
 理由がまさに予想通りで、わたしは思わず苦笑を零した。……というより、お母さんが申し訳なさそうにしている表情に弱いだけなのだけど……(お兄ちゃんが反抗できないのもよく分かる)。
「ううん、お茶とか持ってきてくれてありがとう。助かったよ」
「ほんと? ならよかった!」
 ぱーっと笑顔全開にさせながら、取り残されている香澄先輩と榊くんの方へもう一度向き合った。
「二人ともゆっくりしていってね」
 どうやら長居をするつもりは本当になかったらしい。わたしと入れ替わるようにお母さんは部屋を去り、さっきまでお母さんが座っていた場所に座って小さく溜息をついた。

「おかえり。先に案内されて立花さんの部屋に入っちゃった。もし嫌だったらごめんね」
 落ち着いたところでやけに大人しくしていた香澄先輩が謝罪を口にする。ちらりと榊くんへと視線を向けると、こちらも居たたまれないと言いたげな表情で落ち着かない様子を見せていた。
「い、いえ! こちらこそすいません……遅くなってしまって。書斎は飲食禁止ってルールがあるので、どっちにしろ自分の部屋に案内する予定だったんです。気にしないでください」
 慌てて弁解すると、わたしは何度か頭を下げる。謝罪はわたし担当であるのは十分承知していたので、何だか本当に申し訳ない。
「そう? ならいいんだけど。なかなか女の子の部屋って来ないから、ついそわそわしてしまって……主に榊くんが」
 そこで言葉を切り、視線をちらりと榊くんへと向ける。意味深な先輩に倣ってわたしも同じように視線を向けてみれば、二つの視線にぎょっとした榊くんが更に顔を真赤にする様がよく分かる。
「な! ななな何でオレを引き合いに出すんですかっ」
「いや……もう今まさに落ち着きがない感じだからつい……」
 ぷっと噴き出して笑い始めた先輩はいつもよりも楽しそうで、それが嬉しくてわたしも一緒になって笑う。
「立花先輩まで何で笑うんですかー!」
 剥きになればなるほど笑いは酷くなる一方で、止まることを知らぬように笑い続ける羽目になった。笑うことでぐるぐると考え続けていたことは多少吹っ飛んでいき、申し訳ないと思う気持ちもだんだんと落ち着いていく。ずっと申し訳ないと思い続けたところで、また新たにこの二人に気を遣わせてしまうことは明白だ。
「ごめ、ごめん……ふふ……」
「もう先輩たち、謝る気とかないですよね? ですよね?」
 結局最後には榊くんも釣られて笑う羽目になり、部屋中で謎の笑いが充満していく。『笑う門には福来る』ということわざがあるけれど、今まさに幸福が訪れているような……そんな気がする。

 ああ、やっぱり二人とも好きだ。
 それはきっと、恋とかそういうのじゃない。
 仮にどちらかが本物の恋で、下手をすれば両方が恋かもしれない。
 けれど……今は正直、恋はお預けにしておきたいと思う。

 だって、今はこの三人でずっと一緒にいたいと願ってしまうんだもの。


 ケーキを囲んでの談笑も、ケーキとお茶が尽きたところで終了となる。
 時計を見れば既に十八時近くを指していて、時の流れの速さに寂しさを抱き始めた。
「そろそろお暇しようか。その前にお手洗い借りていいかな?」
「どうぞどうぞ。トイレは一階なので案内しますよ。で、榊くんと外で待ってます」
「うん、じゃあそうしようか」
 二人がそれぞれの荷物を持ち、部屋を後にする。
 ……もしかして部屋を見る度に、今日のことを思い出すのかな……?
 そう思うと、ちょっぴり今晩が憂鬱だ。
「立花先輩、本一冊だけ借りていってもいいですか?」
 榊くんが手にしている本はさっきの読書タイムで読んでいた本で、多分まだ読み終えていないんだろうと予測する。
「うん、いいよ。返すのもいつでもいいから」
「はい、ありがとうございます」
 ぱあっと明るい表情を浮かべながら、榊くんは嬉しそうに鞄にしまいこむ。
「忘れ物とか大丈夫ですか?」
 一応部屋は一通り軽く確認したものの、最後にわたしは声をかける。
「大丈夫」
「大丈夫です」
 二人同時に返した言葉で一つ安堵すると、自室を出て玄関先へと向かった。途中で先輩をトイレに案内した後、わたしと榊くんは一足先に家の外に出る。……幸いお兄ちゃんは部屋に引きこもっているようで、廊下で鉢合わせ、ということはなかった。

「今日はごめんね、お兄ちゃんが突っかかっちゃって」
 二人で外に出て、真っ先に口にしたことは謝罪だった。
 わたしが余計な相談をお兄ちゃんなんかにしなければ、きっと榊くんはお兄ちゃんに引きずられることもなかったんだろう。何を話したか分からないから何とも言えないけれど、言われた内容によっては、お兄ちゃんに文句を言わなければならない。
「い、いえ! 先輩が気にするようなことじゃないですよ! 気にしないでください!」
 謝罪されて慌てて返事をしている様が、まるでさっきの自分を見ているようでおかしい。
 あまりダメージを受けていないところを見ると、そこまで酷いことは言われていないようだ。それがわたしをホッとさせ、申し訳なさが軽くなっていくのが分かる。
「お兄ちゃんに何言われた?」
 申し訳なさの中で一つだけ違う感情があったのは、この疑問だったんだと思う。あんなに片方だけに突っかかるなんておかしいと、心のどこかで引っかかっていたのだ。
 多分お兄ちゃんは、わたしには男を近づけたくないと思っている節がある。それは分かるのだけど、どうして香澄先輩はセーフで榊くんはアウトだったのか……疑問はそこに絞られた。
「えっ……と」
 しかし、榊くんは言葉を濁す。
 急に目線も定まらなくなってしまって、いつしか顔は真赤に染まっていた。
 夕焼けのせいかと目を凝らして見つめるものの、やっぱりその赤はいつも見る赤色。
「た、立花先輩が、心配するようなことは言われてないです!」
 そして明確な答えは返ってこない。
 叫ぶような言葉にわたしは驚きながらも、同時に余計気になる気持ちが芽生え始める。
「本当に?」
「大丈夫です!」
 この食い気味な会話は香澄先輩の家での会話を思い出すようで、気持ちが怯んでいく。
 ようやく定まった視線も必死な感じがひしひしと伝わるようで、これ以上詮索するのは躊躇われた。
「……じゃあ、いいけど」
 諦めたとお手上げすると、榊くんはあからさまにホッとした様子を見せる。それが妙に引っかかるのだけど、どうすることもできないわたしは黙って見守ることしかできなかった。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」
 相変わらずの神がかったタイミングで家から出てきた先輩は、帰り際にお母さんとうっかり話し込んでしまったことを話してくれた。
「立花さんのお母さんって、話してるとこっちまで気持ちがゆったりしてくるよね」
 笑いながらそう言う先輩に、わたしも榊くんさえも同意する。とりあえず好意的に受け取ってくれたことが嬉しくて、今ほどお母さんが怖い人じゃなくてよかったなと安堵した。

「今日はありがとうございました。お邪魔しました」
「楽しかったよ、ありがとう。お家の人にもよろしくね」
 玄関先での会話が一段落すると、ようやくここでお別れとなってしまった。
 できるならもう、この家に住んで欲しい……そんな気持ちさえ芽生えるほど、三人の時間を愛しく思う。
 だけど時間は無限じゃなく、二人も帰る家がある。
 それを思うと引き止めることもできなくて、ただただ精一杯の笑顔を浮かべることしか出来なかった。
「また遊びに来てください。こちらこそ、今日はありがとうございました」
 お礼を言われるほど、わたしはちゃんとしていただろうか?
 上手くいかなかったことばかりが頭の中を駆け巡るせいなのか、別れが訪れて寂しいからなのか、ネガティブな気持ちばかりが溢れて止まらない。
「じゃあ、また学校で」
 手を振りながら家から離れていく二人を、わたしは手を振りながら見送ることしか出来なかった。
 一生の別れじゃない。
 今日だって、いつも三人で迎える放課後に過ぎなくて、ただ場所が自分の家だったってだけのことだ。

 でも、初めて家に友達を呼んだ。
 その友達が大好きなあの二人だった。
 それはとても特別なことで、大袈裟かもしれないけれど……今にも押しつぶされそうなくらいに、寂しさで充満し始める。
 早く明日にならないかな……。
 ついさっきまで顔を合わせていたのに、わたしは既に二人の顔が見たくてしょうがなかった。
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