図書室の住人

13:波乱ばかりがわたしを襲う

 この状況はおかしい。
 不機嫌なお兄ちゃんが、仕事中のはずなのに何故かここにいる。別に誰かが来るなんて言っていないし、帰って来いなんて言わない。
「どうしてお兄ちゃん……ここに? 仕事は……?」
 お兄ちゃんが質問をしたように聞こえたものの、正直先に質問したいのはこっちだ。昨日だって仕事は遅かったし、今日だって忙しいと言っていたはずなのに。
 気まずい気持ちでいっぱいになりながらも声を振り絞った結果、お兄ちゃんの顔色はますます悪くなる一方で泣きたくなる。
「お前が朝様子おかしかったし、嫌な予感がしたから早めに帰ってきたんだよ。オレの勘は早々はずれん」
 じろっと先輩と榊くんに睨むような視線を向け、それがわたしの気持ちを焦らせる。
「立花さんのご家族の方かな?」
 そんな気まずい状況の中でも、香澄先輩はいつも通りだった。
 相変わらずのにっこり笑顔で、お兄ちゃんの不機嫌オーラにも怯まない様子にすごいと思ってしまう。
「梨乃の兄、ですけど。お前らは?」
「立花さんの友人です。俺たち読書仲間で、今日は本を見せてもらうことになってまして」
「ふーん……」
 それからまるで品定めでもするかのように、お兄ちゃんは香澄先輩と榊くんを交互にじろじろと見始めた。
 先輩はニコニコしたままだけれど、榊くんは完全に動揺しているのが分かる。
「お兄ちゃん! やめてよ!」
 あまりにも失礼すぎる態度は、わたしの癇に障った。
 普段、お兄ちゃんに反抗することは思い出そうにもそう多くはないのだけど、今回は自分だけの問題じゃないというのは分かりきっていたせいで、怒りをぶつけることに抵抗はなかった。勿論反攻することに慣れていないわたしは、内心ガタガタと震えていたように思う。でも、普通は初対面の人間に敵意を向けられたなら、動揺するのが自然だ。
 そして、両方とも自分にとって大事な人間ならば、どちらも大事にしたいという気持ちが湧き上がっても不思議じゃない。
 お兄ちゃんはわたしの言葉に反応し、反射的にわたしの方へと視線を向ける。
 あまりにも驚いたのか、大きく目を見開いて何か衝撃を受けたかのような表情を浮かべているのが見えた。自分がもしかしたらおかしな表情をしているせいなのか、慣れないことをしてしまったせいなのか……。
「……その顔には……弱いな」
 ばつが悪そうに視線を泳がせながら、ほんの少ししょんぼりとするお兄ちゃんに、血が上って熱く湧き上がった感情は少しずつ収まり始めた。
 わたしだって、お兄ちゃんのそういう表情には弱い。
「悪かったな。妹に悪い虫でもついたかと思ってついカッとなっちまった」
 謝罪と受け取っていいものかどうかさえ分からない、捻くれた謝罪にわたしは思わず苦笑する。
 ちらりと二人へ視線を向ければ、ほんの少し和らいだお兄ちゃんの雰囲気にホッとした榊くんと笑顔のままの先輩が目に映る。
「こちらこそ、突然お邪魔してすいません。心配することは特にないので安心してください」
 先輩が安心させるようにとお兄ちゃんに話しかけつつ、だけど、一瞬だけ目線が泳いでちらりと榊くんへと視線を向けたように見えた。
 勿論その不審な動きを見逃さないわけがないであろうお兄ちゃんは、その視線の先をじろりと睨み付けて威嚇する。
「えっ……えっ?」
 せっかくホッとしたのも束の間、突然さっきよりも強い敵意を向けられ、榊くんは再び動揺しながら視線を泳がせた。
 わたしの予想だと、先輩にはやましいことはなくても、榊くんにはあるんじゃないの? という感じのお節介を焼いたんじゃないか……と思っている。
「梨乃、いい加減中に入ろうか。オレはとりあえずコイツと話すことがあるから、先に行っててくれ」
「えっ」
 完全に標的にされてしまったんだろう。がっしりと肩を掴み、引きつる笑顔を浮かべるお兄ちゃんの表情は、言葉にし難い複雑なものを含んでいるように見えた。勿論、肩を掴まれた榊くんは挙動不審でじたばたしていて、無理やりお兄ちゃんに引きずられながら家の中へと入っていく。
「お兄ちゃん!」
「大丈夫だ、悪いようにはしないから」
「ちょ、何がどうなって」
「いいからさっさと行け。お前には嫌な予感しかしない。話しつけとかねーと気がすまん」
「えええええ!?」
 引き止めようにも、気が付けば先に家の中に入ってしまい、家の前にはわたしと先輩だけが取り残されてしまった。
「……わたしたちも行きましょうか」
「うん、そうしよう。おじゃまします」
 せっかく来てもらったのに、立ち話だけじゃ失礼すぎる。
 予定外の出来事で遅くなってしまったけれど、わたしたちも先に入った二人の後を追うように家の中へと入っていった。

 我が家は二階建てで、一階はリビングやキッチン、お風呂、両親の部屋があり、二階がわたしとお兄ちゃんのそれぞれの部屋、書斎となっている。本好きは両親からの遺伝の可能性もあるようで、両親共々本好きが花を咲かせ、立派な書斎が我が家に備わっている状況である。
 今日家に来てもらったのは、その自慢の書斎を見せたかった、というのが目的だ。
「おお……すごい! 結構珍しそうな本もあるね。俺の両親はそんなに読書が熱心なわけじゃないから羨ましいなぁ……」
 書斎や両親の話をすると、先輩は羨望を含んだ言葉を口にする。先輩の家もなかなかにすごかったが、うちは両親とわたしの三人分だ。それらを合わせるとやはりそれなりの量が集まることになる。しかも、好きなジャンルがバラバラということもあって、集まった本に自然と被りがないことも影響していた。
「もし気になる本があったら、貸しますので言って下さい」
「うん。もう既に気になる本があれこれと……」
 目を輝かせながら楽しそうに本を見つめる先輩を見て、ようやく本当の安堵に辿り着くことができた。
 もしも連れて来て、実際は読んだことのある本ばかりだったらと思うと、気が気じゃなかったのだ。
 既に何冊か手にとって積んでいく先輩に、思わず笑みがこぼれていく。
 本当に本が好きなんだな。
 分かりきったことが急に頭の中に浮かんできて、好きなものが共通している人間と一緒にいることの幸福感をもう一度思い出す。
 今まで一人で読書を続けていて、絶対にありえないことだ。誰かに書斎を自慢して、本の話をして、本を貸したりして……。
 一人じゃできないこと。それをみっちり叩き込まれたような感覚に陥り、そして……わたしはもう二度と、独りぼっちには戻れないんだろうな、と直感で思った。

「……香澄……先輩いい……!」
 突然扉が控えめに開いたかと思えば、恨めしそうな口調と睨んでいるような、半分泣いているような、言葉では形容しがたい表情で立ち尽くす榊くんがいた。つかつかと先輩に近づき、殴りかかるんじゃないかという勢いで詰め寄っている。
「何ですかあの意味分からない目配せ! おかげで目つけられてすっげー怖かったんですけど! 何でオレあんなに警戒されてるんですか!」
「いや、何と言うか……俺自身にはやましいことはないけど、もしかしたら榊くんには何か思うところがあるかもしれないと思って」
「オレもないんですけど!?」
 話の内容はよく分からないけれど、ただ必死な榊くんと楽しそうにしている先輩の両極端な反応が目に映るくらいだった。
「でもよかったじゃない。未来のお兄さんに早くも接触できて」
「意味分からないこと言ってごまかさないでくださいよ! てか、そんなこと言わないでくださいよ!」
 いつもの真赤な顔をした榊くんは、本格的に先輩に掴みかかる。時折わたしの方へと視線を向けつつ噛み付いているようだった。明らかにわたしに気を遣うような噛み付き方で、ちょっぴりいたたまれない。
 そして先輩の言葉は、まだわたしたちのことを誤解しているという印象を抱く。
 ――未来のお兄さん。
 その言葉の意味を、バカなわたしでも分からないわけがなかった。
 ほんの少しの傷と、ほんの少し嬉しいと思う気持ち。
 先輩のお兄さんになってほしいという気持ちと、榊くんのお兄さんになっても別にいいかもしれないという気持ち。

「………………あれ」

 未だにギャーギャーと騒ぐ榊くんと、からかって楽しみながらそれをあしらう香澄先輩。きっとわたしの呟きは聞こえていないはずだ。一人だけ別世界に閉じ込められてしまったかのように、自分の中で生まれた未知なる感情に飲み込まれていく。
 ここ最近の悩みの種だった感情がちゃんと自分の中に居座っているのならば、どうしてさっき榊くんのことが頭に浮かんだのか。そしてそれでもいいと思ってしまったのか。ただ先輩の言葉に傷ついて悲しんで悩んで、それだけでよかったはずだ。お兄ちゃんに目を付けられるのも、本当は先輩の方がよかったはずだ。
 なのに、どうしてわたしの心はこんなにも揺れているのだろう。
 二人とも好きとか? そりゃあ勿論好きに決まっているが、それは一体どういう言葉で表せるような好きなんだろう。
「なに、これ」
 もう一度呟いて、気持ちを整理しようと試みる。
 だけど、一つの疑問がぐるぐると頭の中を巡り、冷静に考える暇も与えずに呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
 その疑問は、今までにだって何度も浮かんだものであることは明白で、今更改めて思い返す必要はない。それなのに、どうしても今、その疑問から逃げることが叶わないようなそんな気がしてならなかった。
 わたしが抱く感情は、果たして本当に恋なのだろうか……?
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