図書室の住人

11:着実に世界は変化している

「あの、明日わたしの家に来ませんか?」
 そう誘いをかけたのは、靴箱で榊くんも合流したほんの少し後だった。
 久しぶりに三人が揃い、嬉しさが頂点に達したせいなのか否か。気づけばわたしはとんでもないことを口にしていた。
 傍にいた二人は目を丸くさせながら驚いた表情で固まり、わたしをじっと見つめている。居たたまれないこの状況に、突如恥ずかしさが込み上げてきた。今ほど穴に入りたいと思ったことはないだろう。
 だけど、この状況を作ったのはわたしだ。責任を取るのもわたししかいないだろう。
「えっと……前に香澄先輩の家に遊びに行ったので……順番でどうかなと……」
 朝、何となく思い付いたことを口にしてみる。
 お兄ちゃんが仕事で遅くなるという情報を聞いていたからこそ思い付いたことだったが、香澄先輩の家に行った時からおぼろげに考えていたのも事実だ。あまりにもわたしの中では自然な考えだったので、普通だと思ったんだけど……。
「行っても平気なの?」
 二人のうち、まだ冷静な方である香澄先輩が尋ね、榊くんはぶんぶんと頭を縦に振っている。多分、二人の意見は一致したのだろう。
「大丈夫です、二人が大丈夫なら……。目ぼしいものなんて、本くらいですけど」
 苦笑を浮かべながら返事をし、二人の様子をドキドキしながら伺う。
 そして……友達を自分の家に呼ぶなんて、初めてで大胆なことをしてしまったことに、今になって『調子に乗っているのではないか』という後悔に襲われた。
 ぐるぐると言葉にできない感情が脳内を渦巻いている。
「じゃあ、行ってみたいな」
 後悔と不安でいっぱいだったところで、やっぱり救いの手は差し伸べられた。定番になりつつある救いに今後も甘えてしまったり期待してしまうのかな……。
 そんな日が来ることを恐れつつも、今受け取った言葉は、有り難くポジティブに受け止めることにしたい。ホッと安堵する自分がいるのは事実で、よかったという気持ちも嬉しいという気持ちもちゃんと胸の奥に存在していた。
「榊くんも勿論行きたいよね?」
 すかさず榊くん推しを忘れないのは、未だに先輩が誤解したままだからであることは分かっている。
 ちらりと榊くんを見てみると、真赤な顔をして動揺しているのが目に映った。
 やっぱり、異性の家に行くっていうのはハードルが高いのだろうか?
「い、行きます!」
 それでも、ちゃんと来てくれると返事をしてくれたことに関しては素直に喜ぼう。
「でも、もし香澄先輩が来ないなんて言い出したら行きませんけどね」
 気を遣って二人きりにさせた先輩の過去の行動を思い出したのだろうか、苦い顔をしながら榊くんがそう言う。
「ごめんごめん、今回はちゃんと行くよ。立花さんが持ってる本とか気になるしね」
「絶対ですよ。あんまり来なくなったら立花先輩泣きますからね? 女の子泣かせるのはよくないと思います」
「えっ」
「わっ! それは大変だ。意地でも行くよ」
 冗談と本当がごちゃ混ぜになって、本気と受け取っていいものかあれこれ悩む。だけど、今こうして話していることは楽しくて、わたしは思わず笑みを零してしまった。

 楽しいとこんなに笑ったりできるのか。
 ここ最近、いろいろな感情に振り回されっぱなしのわたしには、当たり前のことがどうしても新鮮に感じてしまう。新鮮な気持ちを、何度再確認して、噛み締めたことだろう。そんな自分もおかしくて、楽しさに乗じて更に笑った。
「明日の放課後だよね。じゃあ、明日は靴箱集合の方がよさそうだ」
「そうですね。それがいいと思います」
 人通りが多くなり、時計を見ればいつもよりちょっと遅い時間まで過ぎていた。
 ちゃんと気にしていた先輩は話をまとめ始め、わたしたちの止まっていた時間は動き出す。歩き出した足はほんの少しだけ早足で、これじゃああっという間に分かれ道が来てしまうなぁ……わたしはちょっぴり寂しい気持ちで満たされ始め、苦笑気味になる。
 また会える事は確定したはずなのに……やっぱり楽しい時間の終わりというものは、何でも寂しいものなのだと実感した。

「また放課後、図書室で」

 別れの挨拶みたいな言葉だ。
 またね、と同じ意味を持った……そんな言葉だと。
 わたしは交わした言葉に対してそんな感想を抱きつつ、あっという間に三人がそれぞれの教室へと歩き出す。
 靴箱や職員室などの校舎と繋がる渡り廊下を歩いた先に、三年生と二年生が使う校舎がある。三年生は一階と二階、二年生は三階と四階だ。一年生は更に渡り廊下を通って一番奥にある教室の二階と三階が振り分けられている。
 そういうわけで、完全に別校舎の榊くんと、一階の香澄先輩、三階のわたし。それぞれが本当に別々の場所で学校生活を送っているおかげで、放課後以外で会うことも早々にない。
 学年が違うとそれだけで接点が途絶えてしまうことは、とてつもなく心細いことなんだと思い知らされた。

 もしも同じ学年で同じ教室だったら……。

 妄想だけは一人前で、わたしは再び苦笑を零した。

***

 一日の流れが最近やけに早く感じる。
 そう思ったのは、気付けば放課後になっていたと驚いていた時だ。だとすると、明日二人が家に遊びに来る時もあっという間にやって来て、気付けばもう帰っている……なんてことになっているんだろうな。
 もっとゆっくりじっくり、二人と過ごす時間を味わいたい。
 何度願ったって、永遠を願う時間は一瞬にして過ぎ去ってしまう。……何て厳しい現実なのだろう。

 そんなことをぼんやりと考えながら、いつも通り図書室へと向かう。朝約束した通り、先輩も今日は図書室へ来てくれることだろう。
 今日こそまともに三人で読書会ができるだろうか?
 明日だって、上手くわたしがやりきらないと二人が気まずい想いをする。
「そうだ、お母さんに言っとかなきゃ」
 思い立ったのが今日の朝だったので、明日のことをお母さんに言っていない。
 おもむろに携帯を取り出し、お母さんの携帯へと電話をかける。家には勿論お母さんしかいないとは思うけれど、万が一他の誰かに電話を取られるのは気まずい。
 念には念を。
 携帯をあまり携帯していない母親なので、なかなか出てこなくても留守電に変わるまでは粘り強くかけ続ける。きっと今頃、どこからか突然着メロ(初期設定)が流れ始めて慌てているところだろうな。可愛らしいお母さんがわたわたと探している様を想像したら、思わずくすりと笑ってしまった。
 微笑ましくていいなぁ。わたしにも、そんな可愛い一面があればいいのに。
 どうしようもないことを考えても、やっぱりお母さんの可愛さには勝てないと気付いて、考えることはやめてしまう。
『もしもし? 梨乃ちゃん?』
 すると、ようやく電話に出たお母さんがほわほわとした雰囲気で話しかけてくれた。
「お母さん、ごめんね急に」
『ううん、いいのよ。でも珍しいわねぇ……お母さんの携帯にかけてくるなんて』
「うん、ちょっと……お母さん以外には言いづらいことがあって……」
 こうして電話をしていると、こないだも突然お兄ちゃんに電話したことを思い出す。
 優しいお母さんは、やっぱりいつも通りわたしを受け止めてくれて、それが今更染み渡ってくるのが変にくすぐったい。
「明日ね……突然なんだけど、友達を家に連れて行きたいんだけど……いいかな?」
 恥ずかしくて、顔が熱くなっていくのを感じながら、あまり迷いなく伝えたい言葉を口にできた。
『あらぁ。梨乃ちゃんがお友達を?』
 嬉しそうなお母さんの声に、ほんの少しだけ申し訳ない気持ちが生まれ始める。
 そういえば、ろくに友達の話なんてしたことがなかった。……というよりは、話せるような友達がいなかった。
 親に話すことなんて本の話くらいで、それ以外じゃ当たり障りのない話しか出来なくて……。友達の話を振られてもろくに答えられずに、時々心配そうな表情を浮かべるのを知らなかったわけじゃなかった。
「うん、二人。どっちも男の子だから……お兄ちゃんにはあんまり知られたくなくて。二人ともすごくいい人なの。こないだね、その友達の家に遊びに行ったから、わたしも呼びたいって思って……それで」
 こんなに友達の話をするなんて初めてだ。
 気付けば夢中で二人の話をしていて、お母さんは相槌を打ちながら優しく話を聞いてくれる。
 ただ、呼んでもいいかって聞きたかっただけのはずなのに、いつの間にか目的から少しずつずれ始めていた。
「あ……ごめん、話ずれた……」
『ううん、いいのよ~。梨乃ちゃんの話聞けて嬉しいし。是非連れてらっしゃい。理斗くんには黙っておくから』
「ありがとう! じゃあ、また家で」
『はーい。またね』
 話すことを手早く話し終え、電話を切る。
 電話を終えた頃には気持ちが軽くなっていて、お母さんの心配事も軽くなっていったのが伝わって、今の状況がいいことなんだと知る。
 交友関係を広めるだけで、わたしが知らなかった世界が見える。
 たった二人友達ができた。ただそれだけ。
 ……だけど、その『それだけ』が、『それだけ』で済まなくなっていた。

 携帯を改めて眺めると、メールが一通届いている。
 送り主はお兄ちゃんで、日課となっている帰宅についてのメールだ。
『今日は遅くなるから先に晩飯食っといてくれ。母さんにも言ってるから』
 朝の言葉通りのメール内容で、わたしはほんの少しホッとする。
 家に帰れば、お父さんが帰ってくる時間までお母さんと二人っきりだ。
 それはまた電話の話ができるということで……何だかちょっぴりそれが楽しみでならない。
『りょうかーい。お仕事頑張ってね』
 本当は明日も遅いの? そうメールを送りたかったのだけど、忙しい時に返信を求めるメールを送るのは躊躇われる。
 簡単に返信をするだけに留めて、携帯を鞄に放り込んだ。
「さて、急がなきゃ」
 ほんの数分の出来事なのに、やけに長く感じる時間。
 楽しみにしていた図書室で過ごす時間が減ってしまうのはやっぱり寂しい。
 廊下を走れば怒られるので、競歩並に早足でわたしは図書室までの道のりを歩いていった。
Page Top