図書室の住人

10:三人揃えば寂しくない

 今日のわたしは一味違う。……それは何故か。
 昨日までうだうだ悩み、答えが見つからない悩みはまるで出口のない迷路に迷いこんだようだった。
 それらを吹っ飛ばしてくれたのは、いつも傍にいてくれたわたしの愛しい本たち。テスト期間中からずっと読書断ちしていたこと、テストが終わったら読もうと取っておいた人気探偵シリーズの新刊の存在を思い出し、全てを忘れる勢いで一気に一晩で読みきったのだ。翌朝は勿論寝不足で起きるのが辛かったものの、気分は実に清々しい。
 おかげで脳内に渦巻いていたネガティブ感情は大半が解消されていた。
 当然全てを忘れることなんてできなかったけれど、ここ最近と比べればまだましな自分であると胸を張って言える。

「おはようー」
 学校へ行く準備を整え、一階のリビングで家族に挨拶をしながら定位置につく。既に家族は勢揃いしていて、朝御飯を食べている最中だった。お兄ちゃんに至っては食器を片付けているところで、慌ててテレビに表示される時計へ目をやる。
「今日早くない?」
 いつもより三十分も早く玄関へ向かう背中に、わたしは一言声をかけた。
「今日から理斗くん、お仕事忙しくなるんだって」
 代わりに返事をしたのはおっとりした喋り方のお母さん。
 ほわほわした雰囲気はずっと変わらないまま、今日も我が家は平和なんだと思い知る。
「他の先生のヘルプなんだと。若手はこきつかわれて大変だわ」
 溜め息混じりの補足を聞きながら、朝御飯も忘れて玄関へと向かう。
「じゃあ帰りも遅いの?」
「ああ。暫くそうなるかもな。わかんねーけど」
 教師オーラ出しまくりでぴしっと決めたお兄ちゃんは、靴を履き終えた後にわたしの方へと振り返る。
 ……やっぱりまだ、この姿には慣れない。学生と社会人という違いを大きく見せ付けられたような気がして、ほんの少し寂しかったのかもしれない。
「行ってくる」
 だけど、優しく頭を撫でてくれるところと、ふわりと笑いかける笑顔だけは変わらなくて……。
「いってらっしゃい」
 全てが変わったわけではないと自分に暗示をかけながら、釣られて笑顔で見送った。
「梨乃ちゃん! 朝御飯食べないと遅刻しちゃうわよ~」
「はーい!」
 お母さんの声で我に返り、自分も急がなければいけないことを思い出させる。
 平和な我が家が更にわたしを安心させるようで、気持ちはどんどん楽になっていった。


「立花さーん!」
 慌てて朝御飯を食べ切ってみたものの、いつもより早い時間であることに変わりはない。
 それでもたまには早く家を出るか。
 気まぐれでいつもと違う時間に通学路を歩いている途中、背後から名前を呼ばれたのが分かった。
 声の主なんて一発で把握できて、たったそれだけでわたしの心臓は破裂しそうになる。
 ……いつもと違う時間なのに、どうして。
 一種の運命的なものを感じながら、声の主が辿り着くのをじっと待つしかできない。
「おはよう、立花さん」
 一日ぶりに聞いた声は、相も変わらず優しい笑顔を振り撒く香澄先輩のものだった。
 予想通りだったことにホッとしつつも、その安堵は一瞬でしかない。
 やっぱり心臓は破裂しそうなままで、冷静だったはずの自分はすぐにいなくなってしまう。
「お、おはようございます」
 何とか挨拶を返すことだけで精一杯のわたしには、朝起きた時の余裕なんて微塵も感じられなかった。何故今日のわたしは一味違ったのか。是非とも手取り足取り教えて欲しいものだと自虐の声が漏れてしまいそうになる。
「昨日はどうだった?」
 楽しそうに話しかける先輩は、いらぬお節介に対しての感想を求めているようだった。
 思わず顔を俯けながら、握っていた手提げ袋に力を込める。

 今までなら、こうして出会って話すことは読書だったはずの日々。
 テスト期間は勉強具合も話したりしていたけれど、それもなくなった今では読書が戻ってくるはずだった。なのにどうしてまだ、戻ってきていないんだろう。
 テストが終わって数日が経つ。大半の教科はテストが返却され、わたしは赤点もなければ今までよりも格段に成績が上がったと自信を持って言えた。勿論補習もない。
 そんなわたしが、やっと昨日の晩に本を読めた。
 このわたしが、どうして読書をすることを忘れていたんだろう。読書もせずにぼんやりしていたんだろう。
 先輩は……本の話を、してくれないんだろう。

「……寂しかったですよ」
 ぽつりと、言葉が流れ落ちるように口から飛び出た。
 怒りを先輩にぶつけるなんておこがましい。先輩だって好意でわたしに気を遣ってくれている。それが分かるから、怒りだけはぐっとこらえた。
 こらえた拍子に足は止まり、こらえてしまえば別の感情は抑えきれなくなってしまう。
「先輩がいなくて、寂しかったです」
 俯けていた顔を上げて、先輩の方へと視線を向ける。
 驚いた顔をしているのはわたしの目がよく捉えていて、気にする間もなく次の言葉が飛び出てくる。
「二人しかいない図書室は寂しかったです。テストのおかげでまだ、わたしたち三人は一緒に読書してないんですから……早く先輩が来て欲しいねって、昨日は二人でそんな話をしてました」
 ほんの少し事実とは違う話。だけど大筋はきっと間違っていない……はずだ。
 三人で本を読みたい。
 好きとか嫌いよりも優先したい感情は、確かにわたしの心の中にずっしりと居座っていた。
 ただ本が読みたいと願っていたわたしが、他人が絡んだ何かの願いを抱くなんて……予想だにしなかった現実。結局は本が読みたいという共通点があるにしても、それでもわたしにしては大きな進歩に変わりない。
「先輩、気を遣わなくていいです。わたしの答えはわたしが必ず見つけます。先輩はただ、もしもわたしが困って助けを求めた時……その時また、助けてくれたら嬉しいなって……そう思うんです。図々しいかもしれませんけど」
 こんなに自分には感情や想いや意見があるんだと、改めて知る。
 それを教えてくれるのはやっぱり先輩だ。わたしが愛すべき、図書室の住人なのだ。
 その住人が図書室に来ないなんて、それだけで違和感がありすぎる。
「……ごめんね。余計なことしちゃって」
 ばつが悪そうに先輩は返事をすると、苦笑いをしたまま話を続けてくれた。
「何か、本当に嬉しかったんだ。自分のことのように。何か手伝えたら嬉しいなって、そればっかりで……。でもそうだね、立花さんの言う通りだ。嬉しさが先行しちゃって、つい先走っちゃったんだなぁ」
 バカだなぁと呟きながら、少しずつ歩みを再開していく。わたしもその歩みに合わせてゆっくりと歩き出した。
 人とこうしてぶつかり合うのは、心臓に悪い。
 こんなことで終わりになってしまう関係だってこの世にあるんだ。いつ終わるか分からないのが人生だ。
 そう思うと、まだまだ人間関係を築くことが未熟で慣れない自分は、ドキドキで押しつぶされてしまいそうになる。
 早く全部解決してしまえばいいのに。ただ三人で本を読むだけのことが、こんなに難しいことなんて……わかりっこない。何でこんなに遠回りをしなきゃいけないんだろう。本当に奥深いことで、わたしにはまるで理解できない。
 先輩は少しの間沈黙を保ったまま、ただひたすらにわたしの隣を歩いている。
 確実に先輩の優しさを台無しにしてしまった。傷つけてしまったかもしれない。
 もしかしたらもう……隣にいてくれないかもしれない。
 少しずつ震え始める手が、ガタガタと手提げ袋を揺らす。
 今すぐに走って逃げ出したい欲望を必死で抑えながら、今のわたしには沈黙が破られるのを待つしかなかった。

「俺もさ、何やってんだろってちょっと思ってた」
 心を読んだかのような神がかったタイミングは健在のようだった。
 先輩は絶妙なタイミングで話し出し、わたしは思わずホッと安堵する。おかげで震え始めた手は落ち着きを取り戻し始め、手提げ袋も不自然な揺れが落ち着いていく。
「せっかくテスト終わったのに、そういえばまだ三人で本読んでないじゃんって。俺は立花さんや榊くんと友達になって読書趣味を共有したかったはずなのに……何で俺は一人で帰ってるんだろうって。バカだよね。自業自得なのに」
 穏やかな喋り方なのに、言葉はどこかネガティブだ。
 だけど共通する想いを抱いてくれたことに喜びを感じる。
 先輩の中にもちゃんと、わたしたちと一緒にいたいっていう気持ちがあったことが……何よりも嬉しかったんだ。
「今日はちゃんと図書室行くから。三人で本を読もう」
 ようやくニッコリと笑ってくれた先輩に、強張っていたわたしの表情も少しずつほぐれていく。
「はい! 読みましょう!」
 声にも力が戻ってきたようで、自然と笑顔を浮かべる余裕さえも生まれてきた。
 いや……きっと先輩が笑顔だから、釣られてしまったんだろうな。
 笑顔の力の偉大さに驚きつつ、わたしの不安が少しでも取り除かれたことにホッとする。
 気付けば学校もすぐ目の前で、ゆっくりと歩みを進めるわたしたちは一緒に校門を通り抜けた。

 校門から歩みを進めていくと、グラウンドの横を通って靴箱のある校舎へと入っていく。学年ごとにある程度区切られた靴箱へ分かれて履き替え、わたしと先輩は合流した。
 今日は早い時間に出てきたので、生徒の数もいつもよりまばらな感じがする。
「立花さん、あれ榊くんかな?」
 先輩が何かを見つけたように指差すと、女の子のグループに囲まれている男の子の姿を発見した。
 あの背丈と黒縁眼鏡、くせっ毛のある髪型はまさしく榊くんそのもので、そういえば朝見かけるのは初めてかもしれない……。
 新鮮な気持ちを抱きつつ、遠目でその光景を見つめていた。
「榊くんカッコいいもんね。モテモテだなぁ」
 先輩もですよ、なんて恥ずかしくて言えないチキンなわたしは、ただひたすらに見つめることしか出来ない。
 ……ああしてみると、別世界の住人のように見えるなぁ。
 一緒に放課後を共にする仲間とは思えないような気がして、不思議な感覚に陥る。
 楽しそうに話している様子が、わたしと接している時とはやっぱり違う感じがして……妙に気分が落ち着かない。
「ヤキモチ妬いちゃう?」
 楽しそうに話しかける先輩の言葉は、一瞬理解できなかった。
 理解するのに十秒ほど時間を要したわたしは、言葉の意味を知った瞬間に焦りで心臓が飛び跳ねそうになる。
「や、妬かないです!」
 妬くとか妬かないとか、わたしの中で渦巻いている感情はそんな言葉で片付けられるようなものじゃない。
 わたしの知らない時間で、わたしの知らない誰かと、わたしが知らない表情で楽しそうにしている榊くん。知らない部分があるのは当然で、彼にだってわたしの知らない部分は山のようにあるだろう。
 気にしても無駄で……そう、無駄なのだ。
 まだ親しくなって間もない人間の全てを把握することなんて不可能に決まっている。その決まっていることを必死で抗って覆そうなんて、無駄に決まっている。
 でも……何を言い訳にしようと、わたしは思ってしまったのだ。

 ほんの少し、寂しい……なんて。

「あ、こっちに気付いたみたい」
 ほんの少し視線を逸らしていた隙に、榊くんはこちら側に気付いたようだった。
 周りの女の子たちに両手を合わせて謝罪をし、わたしたちの方へと駆け寄ってくるのが分かる。
「先輩! おはようございます!」
 駆け寄ってきた時間はそう長くなく、あっという間に榊くんはわたしたちの目の前までやってきた。元気そうで、やっぱりほんの少し赤い顔。さっき接していた女の子たちに見せていたものとは違う、別の顔。
「榊くんおはよう」
「おはよう、榊くん。モテモテだったね」
 わたしたちもそれぞれ挨拶をし、ゆっくりと歩きながら会話を交わす。
 こうして三人が揃うのは何だか久しぶりのような気がして、ほんのちょっぴり嬉しさで笑みを零した。
「違います! ただのクラスメイトですよ! 偶然そこで会っただけなので!」
 真赤にした榊くんは剥きになって先輩に突っかかり、その度に先輩は楽しそうに笑う。
 その笑顔に釣られてわたしも笑い、更に真赤になった榊くんは肩をすくめて無言になっていく。別に怒ったわけではなくて、照れて言葉を失っただけなのは分かる。
 たったそれだけ。
 それだけのことが、こんなにも楽しいなんて思わなかった。
 遠いと、別の世界の住人みたいだと感じていたのが嘘のように、今じゃ手を伸ばせば届くところに榊くんはちゃんといてくれて、昨日の言葉は嘘じゃないんだと教えてくれているようだ。

 三人が揃う、それだけのこと。
 その『それだけ』が、確実にわたしの人生を豊かにしてくれている。幸せにしてくれている。

 学年の違うわたしたちは、すぐに別々の階へと別れてしまう。
 だけどそれは、永遠の別れじゃない。
 放課後になればまた楽しい時間は訪れて、幸せだなぁと感じることだろう。

 ……そうであってほしいと、わたしは心のどこかで願った。
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