図書室の住人

09:恋よりも大切なもの

 翌日の放課後、わたしは香澄先輩の勧め通りに図書室へと向かっていた。
 逃げてもしょうがないと、逃げることを諦めてしまったのは一つ目の理由。テストが終わっても未だに読書をしていないことに対して我慢できなくなってしまったのが二つ目の理由。
 そして……どんなに気まずい状況が待っていようとも、会いたい人たちがいるから……というのが三つ目の理由だ。
 図書室へ行こうと思えるような理由が三つも浮かんでしまえば、わたしは向かわざるを得ないのだと自分で自分を言い聞かせていた。
 本当は『ただ二人に会いたい』……それだけの理由で十分だというのに。

「あ、ども」
 がらりと図書室の扉を開き、カウンターに座る人物と目が合って会釈された。
「こん、にちは」
 控えめの声で挨拶を口にしながら、わたしは図書室の奥へと入っていく。ちょっと前まで満員御礼状態だった室内は、がらんと人気もなく静まり返っていた。本来なら利用者がいないことを嘆くべきところであるはずなのに、この人気のなさが気に入っているわたしはついホッとしてしまう。
 やっと大好きな場所が帰ってきた。
 それはわたしにとって、ささやかな幸せが舞い降りてきたかのようだった。
 カウンターの傍まで寄り、室内を見渡しながらそう思う。
「……」
 だけど今日は、もう少し利用者がいてくれたらいいのにな……なんて思う。
 本日の図書室には、わたし以外に図書当番の榊くんしか存在しなかった。おいでよ、と声をかけてくれた香澄先輩さえもいなくて、わたしはちょっぴり気まずい。
「か、香澄……先輩は? 今日はまだ、なのかな」
 沈黙の気まずさに耐えかねて、周りを見渡しながら先輩の所在を尋ねた。
 もしかしたら既に来ているかもしれないし、榊くんなら何か知っているかもしれない。
 いろいろ考えた末の話題は、榊くんの苦虫を噛んだような表情を見て後悔する。
 どうしたらこの状況を良くできるんだろう……?
 どれだけ考えても、ここ最近気まずい思いをたくさんしてきたおかげで、今のわたしには何がよくて何が駄目な話題なのかという判断がつかなくなっていた。
 これ以上何か言葉を発したところで、悪化していくだけかもしれない。
 最終的な判断が結局『沈黙』だったことにうっかり笑いが込み上げそうになりながらも、わたしは榊くんの反応を窺う。
「……今日は香澄先輩、来ないですよ」
 小さく呟いたかと思った榊くんの呟きは、静寂が充満している図書室内でよく響いた。
 相変わらず真赤な顔で、余裕のなさそうな……いっぱいいっぱいと言いたげな表情が目に焼き付けられる。
「もうすぐ修学旅行だそうで、買出し……っていう、名目らしいです」
「そ、そうなんだ……」
 次の言葉は、ちゃんと真正面から受け止めることが出来た。だからこそ、想像以上にしょぼくれてしまう。
 理由は、香澄先輩から直接そのことを教えてもらえなかったからだろうとは思った。昨日話した時に一言言ってくれたらよかったのに……その思いだけが、わたしをもやもやとさせる。

「昨日、香澄先輩と何かありました?」
 しかし次の話題は、わたしにとって最大級に話しづらいことだった。
 気まずそうに視線を逸らしながらも話をする榊くんに、どんな顔をしていいのか分からずに必死で言葉を探す。
 榊くんも関係のある話題かもしれない。けれど、話していいことなのかも分からない。
 わたしが返答しなければこの沈黙は永遠に続きそうな気がして、それはそれで怖いとも思う。
 そして昨日の話をするということは、初めて香澄先輩の家に行ったあの日の、榊くんからの質問にも答えるということとなる。
 今更そんな話を持ち出しても大丈夫だろうか?
 榊くんからは『忘れてください』と力強く念押しされたということもあって、わたしの躊躇い度も半端なかった。
「言いづらかったら、別にいいんですけど……」
 表情が見えないくらいに俯く榊くんは、ほんの少しだけ拗ねたような態度に見える。それがまた反則技のように感じて、わたしは小さく溜息をついた。
 迷いは一気に断ち切られ、『話そう』という気持ちだけが残る。緊張感は高まるけれど、話したら幾分楽になるかもしれない……という期待も浮かび上がった。
 わたしにとってそれは誘惑の一つでもあり、単純なわたしはふらふらと釣られてしまう。
「わたしね……多分、香澄先輩が好き……かもしれない」
 自信はあまりない。本当は、その言葉の意味をきちんと掴めていないかもしれない。
 だけど先輩に誤解されて残念な気持ちや、過去に抱いた感情を整理すれば……それは『友愛』『尊敬』だけでは片付けられない気がした。
 唐突に告げてしまったこともあってか、驚いたように榊くんは俯けていた顔を上げ、ぽかんとしながらわたしの顔をまじまじと見つめている。
 返答さえもなくて、この先を話していいものかと迷う。本来忘れるべきことを穿り返してしまったのだから、もしかしたら榊くんは不快な気持ちになってしまったかもしれない。……そう思うと、そこまですべきかと迷うのだ。
「やっぱり、そうだと思いました」
 すると、榊くんは穏やかに微笑みながら優しい声色で返答した。
 その様子を見て若干ホッとするものの、一瞬だけ見えた気がした影が心のどこかで引っかかる。
「どうして、知ってたの?」
 前から聞きたかった一番の疑問は、今回こそきちんと声になって相手まで伝わっていった。
「そりゃ、見てたら分かりますよ」
 表情も雰囲気も変えないまま、影も見えないまま、榊くんは一言で疑問を片付けてしまう。あまりにもシンプルで、分かりやすい答え。
「えっ……そんなに顔に出てたかな……?」
 周りが見れば一目瞭然なほどに、わたしの気持ちは全面的に押し出されていた……ということだろうか?
 分かりやすいはずの答えを更に難しく考え始め、また脳内をぐるぐるさせてしまう。
「だって、香澄先輩の傍にいる時の立花先輩は……なんかいつも、幸せそうだから」
 自覚にないことをずばずば言われてしまうと、何も反論できないな。
 必死に今までの出来事を思い出そうとするのに、上手く思い出せずにただ恥ずかしさだけが込み上げてくる。だけどそれが恋かどうかは、正直まだちゃんと答えが出ていない。
「それより、昨日何かありました? 香澄先輩と」
 そういえば本題は昨日の出来事であったことを思い出し、わたしは思い出せる範囲で昨日の出来事を伝えた。

 香澄先輩に恋愛相談を持ちかけたこと。
 そして最終的に……わたしが榊くんに片思いしていると誤解されてしまったことを。
 話していくと、榊くんはみるみるうちに顔を真赤にさせて震え始めた。
「…………だから……昨日あんなことを……!」
 ほんの少しの怒気を感じるのに、どこか軽やかというか、そこまで深刻さを感じないように思う。まるで先輩を恨むような発言に、ほんの少しだけどわたしも同意したくなった。
「昨日、立花先輩の所へ行った後に、また香澄先輩が図書室に戻ってきたんですよ。そうしたらオレの肩をぽんっと叩いてからすっげーいい笑顔で『俺に任せて』とか何とか言ってて……嫌な予感したんですよね」
 溜息混じりに知らない情報を教えてもらったわたしは、恥ずかしいのと残念な気持ちが入り混じって、わけが分からない気持ちでいっぱいになる。
 それはわたしの勘違いでも何でもなく、ほんとに先輩が誤解しているということで……。
 応援していると言われて、誤解されて、わたしの想う相手が自分とは知らないで……。
「わたしの好きって、恋なのかな……?」
 思わず小さく呟いてから、すぐさま我に返って後悔した。かーっと顔が熱くなって、頭の中が真っ白になる。
「いや! あの! 忘れて!」
 あの日とは逆の立場になってしまったわたしは、静かにしなければいけないはずの図書室で大声を上げた。……利用者がいなくて本当によかった。
「いや、もうオレには恋する女の子にしか見えませんけど」
 苦笑気味に話してくる榊くんの言葉が恥ずかしくて……あまりにも新鮮な未知なる感情に振り回されるわたしは、若干キャパオーバーしてしまったかのような錯覚に陥る。
「今日ここに香澄先輩がいないのは、ちょっと二人っきりにさせてみようっていういらない気遣いでしょう。……香澄先輩が修学旅行に行っちゃったら、結局二人っきりになるっていうのに」
 上手く思考が働かず、自分では何も考えられずに榊くんの言葉を聞いていた。
 全部冗談で誤解してくれていたらよかったのになぁ。そうやって、ぼんやりと非現実的なことを考える。
 先輩が今日ここにいないのは明白で、わたしたちを気遣ってくれていることも確かだ。それを残念に思うのは……やっぱり先輩が好きだからなのかなぁ。
 現実は厳しいのに、どうしてもわたしはそんな現実から逃避したかった。単純に、苦しいのとか難しいことから逃げたいだけかもしれないけれど。

「仮にですけど、もしもオレと立花先輩がくっついてしまったら……香澄先輩は、ずっと気遣ったままここに来ない気でしょうか……?」
 ぽつりともしも話を持ちかけた榊くんに、わたしは話題に乗っかって軽く妄想を始めた。
 昨日曖昧な話をしただけで、先輩は誤解をしてわたしたちを二人っきりにさせた。これからも何かと気遣われそうだ。先輩は優しくて、いつだってわたしを助けてくれる。
 だからこそそれが……ちょっとだけ怖かったんだ。
「オレたちって、図書室に集結した読書仲間として仲良くなったじゃないですか。まあその先で何がどうなるかなんて分からないですけど、まだ仲良くなって日が浅くて、読書だってテストのおかげでお預けになってしまったのに……またお預けを食らうのはごめんです」
 優しかった声色はどんどん寂しさを帯びていく。
 榊くんの言葉にまるっと同意するわたしは、釣られたように寂しさを覚えていった。
「そうだね……。香澄先輩は、ずっと読書仲間が欲しいって言ってた。一人は好まないって。別にわたしたちが先輩の全てってわけじゃないのは分かっているけど……寂しいね」
 初めて一緒に帰ったあの日の言葉を思い出しながら、先輩は今何をしているんだろうと考える。
 先輩のことだから、きっと教室でも友達はたくさんいるんだろう。だから別に、わたしたちと一緒にいなくても大丈夫なんだ。
 でも、榊くんのもしもの話で恐怖を抱く。
 ……もっと、先輩と読書がしたいのに。

「こうなったら誤解を解くしかないですよ! オレ、全力で立花先輩のこと応援しますから!」
 ガタッと立ち上がった榊くんは、カウンターから出てきたと思えばわたしの傍まで寄ってきて大声でそう言った。本当に今日、二人しか利用者がいなくてよかったと思う。
「誤解を解いて、立花先輩が想いを告げて、それで丸く収まると思います」
 にっこり笑顔でとんでもないことを口にし、わたしはまたしても挙動不審状態に陥っていく。
「い、いやいやいや! そもそもこの気持ちが恋なんて……」
「認めた方が楽になりますよ? もうその方向性で行きましょう」
「いや、でもそんな告白なんて!」
「それぐらいしないと、先に進めない気がするんです」
 ことごとくわたしの言葉は撃破され、固まり始める方向性にがくりと項垂れてしまいそうになった。恥ずかしさと、本当に恋なのかという疑問。
「……もしもわたしと先輩がくっついたとしても、榊くんはちゃんと隣にいてくれるよね?」
 そして思うのは、榊くんのことだった。
 さっき香澄先輩がいなくなってしまうんじゃないかと考えるように、榊くんのことも心配になって不安がぐるぐると渦巻いていく。
 さすがにいきなりの問いかけだったからか、榊くんは驚いた表情を前面に押し出していた。
 だけどこれも、わたしにとっては重要なことなのだ。
 誰が欠けてもきっと、この図書室は寂しく感じることだろう。三人揃ったからこそ三人は仲良くなって、三人いるから安心できたんだ。楽しいことを楽しいと、当たり前のことでさえ改めて実感させられた。誰かが傍にいてくれて嬉しいって、もっとみんなといたいって思えるようになった。
 きっとわたしには、応援も何もいらなかった。
 誰かが欠けてしまうような応援なら、わたしには必要ない。


 じーっと榊くんを見つめ続けながら、心の中でわたしの気持ちは固まっていった。もしも離れてしまう選択肢を選んでしまうとするならば、わたしは榊くんの優しさを断らなければならない。
 もう……優しさという凶器にやられたくないのだ、わたしは。
 見つめ続けていると、小さく小さく息を吐く音が聞こえた。何かを決心したかのような合図に思えて、少しずつ緊張が高まっていく。
「……オレは、まだ満足に本を教えてもらってません。だから、離れるつもりはありません。オレは教室にいるよりも、先輩たちの傍にいる方が楽しいから……そこで香澄先輩が欠けても、立花先輩が欠けても、オレが欠けても……きっと寂しい気持ちだけが残るんだろうなって思うんです」
 榊くんが告げるのは、わたしの不安を断ち切る想い。同じ気持ちであることが嬉しくて、一気に安堵が押し寄せてきた。
「……よかった」
 小さく呟くと、その気持ちは何倍にも膨れ上がって笑みがこぼれる。
「だから安心してください。また三人で本読みましょう」
 優しい笑顔を浮かべた榊くんに、わたしは大きく頷いた。


 そしてわたしは……何も知ろうとしなかった。
 引っかかっていることはいくつもあるはずなのに、分からないと投げ出して、見えないように隠してしまったから。

 今はもう、三人がいる図書室を取り戻したい気持ちでいっぱいだったんだ――。
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