図書室の住人

08:優しさと勘違い

 ぼんやりと考え込んでいるうちに、どんどん空のオレンジが濃くなっていく。答えはぼんやりとしたままで、現実は平行線なままだ。

 ……ほんと、わたしはどうかしている。

 テストから解放されても未だに読書をしていないせいだろう。
 今までだったら、こんなぼんやりしている時間があるなら本を読んでいた。こうしているうちに、一冊の半分くらいは読み終えてしまったかもしれない。
 そう思うと、本当に勿体無い時間を過ごしているように思う。
 考えても分からないこと。相談しても、結局答えは自分で見つけなきゃいけないこと。自分が置かれる状況だけは把握できているのに、もっと踏み込んだことだけは分からないまま。
 ……どんどん、世界に置いていかれるような感覚が、わたしの中で少しずつ膨れ上がっていく……そんな気がしていた。


「見つけた」
 空から声が降ってきて、俯き加減だったわたしは思わず顔を上げてしまう。
「こんにちは、立花さん」
 その先には、悩みの種である香澄先輩がいた。相変わらずの優しい雰囲気に、ふんわりとあたたかい笑顔。
 さすがにここに来ることは予想もしていなかったので、驚いた勢いで立ち上がった。驚いたこともあるけれど、先輩の表情にドキッとして動悸が落ち着かなくなってしまう。
「ど、どうしてここに……?」
 上手く言葉をひねり出したわたしは、正直どこかで変な汗が流れているように思える。
 どんな顔をしていいのかも分からず、ただただ自分の悩みだけは気付かれないように……と願った。
「図書室でね、榊くんが窓の戸締りをしていて。その時に立花さんを見つけたんだ。今日は立花さん来なかったから、どうしたんだろうねって丁度話してたところで」
 やっぱり、見ていて幸せになれるような人だな。
 穏やかに話す先輩を見ながら、わたしは時々上の空でそう思う。
 そして先輩の言葉で、この場所は図書室から見える場所であることに気付いた。
 何だか「わたしを見つけてくれ」と主張するかのようにここにいたんじゃないかと思ったら、ほんの少し恥ずかしくなってしまう。
「立花さん、何だか元気ないように見えたから降りてきたんだ。榊くんは当番が残ってるからって来られなかったんだけど」
「そ、そうだったんですか……すいません」
 気を遣わせてしまったことに対して、申し訳ない気持ちが込み上げる。
 ……だけどそれに勝る感情は、喜びだった。
「ううん、俺が勝手にしたことだから。むしろお邪魔だったら悪いことしちゃったかなって思うけどね」
 苦笑を浮かべる先輩は、どこまでも優しくて他人想いだった。
 先輩が心配してくれる対象に自分がちゃんといて、わたしのためにわざわざ来てくれて。
 それが嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
「邪魔なんてそんなこと、絶対ないです。わざわざここまで来てくれて、わたしとっても嬉しいです。ありがとうございます、先輩」
 上手く笑えているか分からない。でも嬉しくて幸せなら、きっとちゃんと笑えているんだろう……そう思う。
「じゃあ、見つけてくれた榊くんにもお礼言わないとね」
 にこっと笑いながらそう言う先輩に、わたしは思わず図書室の方へと視線を向けた。カーテンは締め切られたまま、中は何も分からない。榊くんとは表面上では普通を装っていても、やっぱり気まずい部分は消えずに残ったまま。
「何か悩み事?」
 先輩はわたしに尋ねながら、近くにあったベンチに腰かけた。
 これは長期戦が予想されるな……なんて冷静に考えながらも、先輩が隣に座るよう促すから、ほんの少し距離を空けて隣に座る。
 さて、何を話せばいいのか。今まで悩んでいたことを思い出しながら、張本人を目の前にして戸惑う。
 ここまで話す状況が作られているのに「何もありません」なんて言えるはずがない。さっきお兄ちゃんとの電話で湧き上がった緊張がぶり返し、思考はどんどん真っ白になっていく。

「先輩は……その、恋とか、したことありますか?」
 そして放った言葉は、またしても相手を間違えたものにしかならなかった。
 驚いたように目を丸くさせた先輩は、明らかに返答に困っているようにしか見えない。
「あ! えっと! その……すいません」
 上手い言い訳さえも思いつかず、ただただ俯いて恥ずかしい思いをするばかりだった。
 これじゃあまるで、わたしが先輩に恋をしているみたいじゃない。
 みたい、じゃないかもしれないけれど……それを置いといたとしても、やっぱり今この話題を持ちかけたことは明らかに失敗だった。
 先輩はうーんと悩み始め、無言の空間になってしまったこの場所に気まずさを覚える。
「えっと、ちょっと、あ! 最近読んでる本が恋愛小説で! それで、わたしは経験がまるでないので、先輩はどうかなって……思って」
 今更言い訳をひねり出したとしても、自分の立場をぐちゃぐちゃにするだけだ。そう思うのに、正常に作動しない思考は誤動作ばかりを引き起こす。
 先輩の反応が薄いことに不安を感じながら、最終的には先輩の反応を待つしかないんだって気がついた。顔を見るのも恥ずかしいのに、反応が気になって先輩の様子をちらちらと伺う。空を仰ぎながら悩んでいた先輩は徐々に考えがまとまり始めたようで、ようやくわたしの方へと視線を移してくれている。

「俺はあるよ。でも、最近は全然ないや。どっちかっていうと本が恋人みたいな感じだしね」
 先輩の返答は、分かりやすくシンプルだった。
 そしてわたしは……今は恋をしていないという部分にホッとする気持ちと、先輩だって恋をしたことがあるんだというもやもやがぶつかり合ってバトルを繰り広げている。
「立花さん、恋のお悩み?」
 優しい表情のまま、話題の矛先は容赦なくわたしに向けられた。
「えっ!?」
 一気に顔の温度が上昇していき、あからさまに驚きの声を上げてしまう。
 ほんの少しだけ楽しそうな先輩の様子にドキドキしつつ、自分で逃げ道を塞いでしまったことを嘆きたくなった。
「初めて一緒に帰った日、立花さんは人間関係を築く時間を読書に充てたい、みたいなことを言ってたでしょ? そんな立花さんがそういう悩みを抱えるっていうのは、俺はいい傾向なんじゃないかなって思うよ」
 ニッコリと笑う先輩は、わたしのことを思い出しながら優しく語り掛けてくれる。
 あの日話したことを覚えていてくれたことが何より嬉しくて……ちょっぴり恥ずかしい。
「気になるのは同じクラスの子とか?」
 キラキラとした眩しい視線を送る先輩に、わたしはぎょっとしながら返答に迷う。
 そもそも、わたしが抱く感情が恋愛感情かどうかも分からないのだ。
「えっと……別の、学年で……でも、それが恋愛感情かどうかは……分からなくて」
 しかし気付くと、考えていたことが割りとそのまま飛び出してきた。
 ……だが、別の学年という情報はいらなかったんじゃないか……?
 話した後に後悔するのがお約束になりつつあるわたしは、既にもう逃げ出したい気分だ。
 反応が気になって先輩を見つめると、一瞬考え込んだかと思いきや、すぐさま何か思いついたような表情を浮かべる。

「あぁ、だから最近おかしかったんだ……」
 先輩の中ではきっと独り言だったかもしれないけれど、その呟きはバッチリわたしの耳まで届いていた。そしてその意味を理解できず、意味深な言葉に納得した先輩は、スッキリしたような顔をしている。
「うんうん、悩むよね。特に友達とかある程度仲がいい状態だと、何で好きなのかとか判別がつかなくなったりしてね」
「えっ! あ、そ、そうなんです」
 心を読まれたんじゃないかとばかりの返答に、わたしの心臓は爆発しそうだった。
 もしかして……わたしが先輩を気にしていることに気付いているんだろうか? 見透かされていたらどうしようと思うと、気持ちは更に落ち着きを失っていく。
 だけど……それにしては、先輩の方がやけに落ち着いていた。今も楽しそうな雰囲気で話しているし、そこだけが妙に引っかかる。
「でも、キッカケさえあればすぐに気付けるよ。そのキッカケを掴むためには、まず積極的に接しないと駄目だけどね」
 先輩がそこまで話し終えた時、タイミングよく下校のチャイムが鳴り響いた。
「ああ、もうこんな時間になっちゃったか」
 これでなんとか緊張から解放される……。
 先輩の残念そうな様子とは裏腹に、わたしは心のどこかでホッとしていた。勿論先輩と過ごす時間は嬉しいけれど、今の状況は正直逃げたい。
 チャイムに急かされるように立ち上がり、もう一度空を眺めた。今ではもうすっかりオレンジ一色の空に、眩しくて思わず目を細める。
「立花さん」
 改まって先輩が名前を呼び、わたしはその声がする方へと目を向ける。
「とりあえず明日は図書室へおいでよ。本を読みたいっていうのもあるけれど……逃げてばっかりでも解決から遠くなるだけだしさ。何なら、俺を比較対象として引っ張り出してもいいから。比較できるといろいろ見えてくるものもあるだろうし」
 そして、本日最後になるであろうアドバイスは……わたしの中にあった引っ掛かりを浮き彫りにさせた。
 それが妙に苦しくて、痛くて、泣きたくなる。
「じゃあ、俺はこの後用事があるから先に帰るよ。また何かあったらいつでも言ってね。応援してるから」
 ニッコリ笑顔の先輩の言葉は、きっと優しさで満ち溢れているんだろう。
 なのにわたしは……止めを刺されたような気がしてならなかった。
「ありがとう、ございます」
 上手く声になっただろうか? ちゃんと笑っているだろうか?
 自分のことなのに何も分からなくて、どうしたらいいのか分からない。

 ひらひらと手を振ると、先輩は背を向けて歩き出した。
 少しずつ距離が開いていくと、緊迫した気持ちは徐々に緩んでいくのが分かる。
「あ、れ?」
 それから気付くのが、この苦しいのと痛いのと、泣きたいっていう感情や気持ちを、どうして抱いてしまったのか……? という自分への疑問。
 明らかに先輩は何か勘違いをしていて、わたしの本心までは見抜いていない。先輩はエスパーなんかじゃないのだから、わたしの全てを見抜くなんてできっこない……ことくらい分かっていた。
 分かっていたけれど……勘違いされることが辛いという現状に気付いてしまう。

 先輩の優しさは幸せしかないのだと思っていた。
 だけど今日初めて、優しさが凶器に変わることを知る。
 わたしも勘違いをしていたんだ。優しいのは優しいだけじゃなかった。
 先輩は完璧で、いつもどんな時でも優しさで幸せにしてくれる。……そんな人間がこの世にいるわけがないのに、あまりにも幸せバカになってしまったわたしは、期待と思い込みで何も見えていなかったんだ……今ならそう思える。

 もしも先輩に恋をしてますって言ったら、一体どんな顔をするんだろうか?

 それでもやっぱり全てを受け止めるのが怖くて……わたしは立ち尽くしたまま前へ進むことが出来なかった。
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