図書室の住人

07:気付いたら、落ちている。

 香澄先輩の家で勉強会を行ったわたしたちは、その後も場所を転々としながら勉強をしていた。
 図書室はテストが近づくにつれ利用者が増していき、なかなか場所も確保することができないほどだった。普段利用している場所ではない感覚に陥り、結局図書室には榊くんが当番の日のみを利用する形になっている。それ以外は、中庭のベンチで単語帳を眺めたり、またしても先輩の家で勉強をしたり、市立図書館の勉強室へ行ってみたり。
 放課後になれば三人がたちまち集まり、飽きることなく勉強をすることができた。

 そんなこんなで、一学期最初の中間テストはあっという間に過ぎ去っていった。
 今までただひたすらに勉強に意識を費やしてきた日々は終わり、学生の天敵であるテストから解放される。だからと言って、勉強のことを全て忘れるわけにはいかないけれど、ご無沙汰だった読書にありつけることはわたしにとって至福だった。
 今回は結果も今までで一番自信があると胸を張って言えるだろう。あんなにもすらすらと問題が解けるなんて驚いていたほどなのだから、きっと大丈夫。
「……でも、」
 小さく呟いたわたしは、図書室の傍で立ち尽くしていた。
 そう……ただひたすらに勉強へ意識を傾けていた日々は、終わってしまった。
 心の奥底に引っかかるもやもやに気付かない振りをして、時々脳裏に過ぎるあの日の問いかけも知らん振りをして、全部全部なかったことにしておきたかったこと。
 次の試練は、休みを与える暇もなくわたしに用意されていた。
 勉強なんかとは比べ物にならないほどの難問。教科書なんてない、答えなんて自分しか知らない。
「……どうしたらいいの」
 わたしはまだ、榊くんからの問いかけの答えを見出せていなかった。

 どうしても図書室へそのまま入る勇気がなく、通り過ぎて中庭へと向かった。そこからは図書室が見えて、「二人はもういるのかな?」なんて考える。
 空はほんの少しだけオレンジ色を見せ始めていて、降り注ぐ光が眩しい。
 ぼんやりとしたままベンチに腰かけ、二人の顔を思い出していた。
 香澄先輩。
 わたしは香澄先輩が好きだ。勿論好きだ。
 こんなわたしとでも仲良くしてくれて、傍にいてくれて、話しかけてくれて、同じ読書好きで、優しくて、勉強もできて、気配りもできて、いつだって助けてくれて。
 何よりわたしの狭い視野を広げてくれた、貴重な存在だ。尊敬しているし、言っていいのか分からないけれど……誇りに思える友達だと思う。
 ただ問題は、その『好き』が何なのかということだ。先輩のことを考えれば考えるほど、その答えは埋もれて見えなくなっていく。
 きっと榊くんは、その『好き』の種類を問いたかったんだろう。
 分かっているのに、上手く言葉にできない。そもそも、何をどういう基準で『好き』の種類を決めているのか、それがわたしにとって最大の謎だった。恋人になりたい、なりたくないの問題なんだろうか?
「……難しい」
 座り込んで考えてみても、何も思いつかないし答えは出ない。今までこんなことを考えたことなんてなかった。家族以外の誰かを好き嫌いに分類したことなんてない。
 もっと周りに興味を示していたなら、ここまで悩むことなんてなかったのだろうか?
 勉強だって、サボればサボるほど理解できずに置いていかれてしまう。人間関係だってきっと同じなんだ。そう考えると、後悔ばかりが脳内を過ぎる。

 悩んでいる最中、携帯が震えて意識が別の方へと向けられた。
 取り出して確認してみれば、メールの相手はいつも通り。
『今日は早く帰ってくるのか? オレは早く帰ってくるぞ』
 毎日家に帰る時間を知らせてくれるお兄ちゃんのメールは、携帯を持ち始めた中学二年生の時からずっと続いている。
 今年から高校教師になったお兄ちゃんは、学生だった今までよりかなり忙しくなってしまったけれど、それでも日課であるこのメールだけは続けてくれていた。
 いつも通りであることに安心感を抱き、この世界の全てが変わってしまったわけではないことにホッとする。
「……今なら、大丈夫かな……?」
 周りに誰もいないことを確認し、わたしはメールの返信の代わりに電話をかける。きっと面と向かって相談できそうにないから、返信も兼ねて電話するだけ。上手く言葉にならないかもしれないけれど、相手が相手だからきっと大丈夫。
 ……そう信じて、相手が出てくれることを祈った。
『もしもし、どうした?』
 それほど待たずに電話は繋がり、わたしはホッと安心する。
「ごめんね、電話しちゃって。今大丈夫?」
 こうして気兼ねなく電話できる人物は少なく、その中に今の通話相手であるお兄ちゃんも含まれていた。
 メールをする余裕があるから大丈夫だろうとはいえ、電話までできるかは分からなかったので一応謝罪を先に述べる。
『いや、丁度休憩しようと思ってたから気にするな』
 普通の人なら素っ気無く聞こえる声がわたしには優しく聞こえるのは、生まれてからずっと傍にいたからかもしれない。
「ありがと」
 誰もいないのにはにかみながらも、次第に心臓の音が加速していくのに気付いて緊張していく。
『で、どうした?』
「う、うん……ちょっと、相談があって」
 ちゃんと本題に入れそうな言葉を口にできて、わたしはちょっとだけ安心する。
 負けてしまったらきっと、お兄ちゃんに変な心配をかけるのが目に見えていたから、というのもあるけれど……それ以前に自分のためにならない。
 ぎゅっとスカートを掴んで一度深呼吸をし、覚悟を決めて話し始める。

「お兄ちゃんは、家族以外の誰かを……好きになったこと、ある?」
 口にしてから、相談する相手を間違えてしまったのではないかと後悔が過ぎった。
『げっほ! ごほごっぐ……』
「だ、大丈夫……?」
 盛大に咽たお兄ちゃんは、明らかに動揺を隠し切れないようだった。
 だけど無理もない。読書づくしのわたしがそんなことを考えるなんて思いもしなかっただろうから……。
 まだ遠くで咽ているお兄ちゃんの声が聞こえて、「そこまで驚かなくても……」と思わず苦笑を浮かべてしまう。
 ここまで話してしまえばもう躊躇う理由もない。少しずつ落ち着いていく様子を電話越しに感じながら、わたしは改めて本題の詳細をゆっくりと話し始めた。
「わたしね、友達ができたの。吃驚するよね、読書ばっかのわたしがさ。しかも二人もだよ」
『そうか。よかったじゃないか』
「うん、そうなの。でね、わたしはその友達がとっても大好きなの。でもね、その好きの種類がよく分からなくて……。友達だから好きなのは当然なんだけど、もしかしたら恋かもしれないって思ったりして」
 そこまで話し終えて、わたしの言葉は途切れた。
 理由はわたしが躊躇してるわけではなくて、お兄ちゃんの方が原因なのだけど。ごとっという音がしたかと思ったら、お兄ちゃんの気配が空白になってしまったのだ。
『す、すまん……ちょっと吃驚して携帯落とした』
 慌てたような声が聞こえて、携帯を落とすほどに驚くようなことを言ってしまったのかと恥ずかしさが込み上げてくる。
『えっと……まあ、オレは……恋愛とか! 自由でもいいと思うぞ。世間的に同性愛は冷たい目で見られがちだが……』
 戸惑うように言われた言葉は、あまりにも予想の斜め上を行っていた。ついにわたしまでが戸惑い始め、何と言葉にしていいのか分からない。
「えっ」
『いいって。大切な家族が誰を好きになろうとオレは軽蔑しないし』
「いや、あのっ」
 明らかに誤解されているというのは、お兄ちゃんの慌てようと聞き慣れない言葉で分かった。
「ち、違うの! 友達は男の子なの!」
 こんなところで話を長引かせたくなかったので、早々に誤解は解かせてもらう。
 すると、またしてもごとっという音がした後に空白が訪れた。
『何でよりにもよって男なんだ』
 すぐに声が聞こえたかと思ったら、ものすごい気迫で怒りを口にした。これもまた、普段聞かないような声色である。
 同性だろうが異性だろうが面倒な展開なのは決定事項のようで、わたしは小さく溜息をついた。
「……あの、わたしが聞きたいのはお兄ちゃんの経験談なんだけど……」
 やっぱり相談相手を間違えてしまっただろうか?
 だけど今までずっと相談相手はお兄ちゃんのみだったので、他に相談したいと思う相手は存在しない。
「でも、教えてもらえないならもう切る」
 拗ねるのは反則技だけど、早く知りたいのに焦らされるのはいい気分ではない。お兄ちゃんだってそんなに長電話できないはずだ。
 ぎゅっと携帯を持つ力を強めながら、反応を窺うために黙り込む。

 そうしているうちに、小さな溜息が聞こえてきた。
 それは話をしてくれるという合図であり、わたしの中で小さな期待が募る。
『……そりゃあ、お前より長く生きてるから……好きなヤツの一人や二人……いる、かな』
 きっと今のお兄ちゃんは、顔を真赤にしていることだろう。
 照れ屋で可愛い一面を持つお兄ちゃんなので、本当はこんな話だって恥ずかしくてしたくないはずだ。
 心の中で「ごめんね」と呟きながらも、わたしはお兄ちゃんの話に耳を傾ける。
『恋愛的に好きっていうのは厄介だよ。常にその相手のことを考えちまう。嫉妬したりして、醜い自分に直面して嫌気が差したり、自分だけを見て欲しいって独占欲も溢れ出したりして。忘れたいのに、忘れられない……「恋の病」って言葉があるけど、本当に病気みたいだ』
 思っていたよりちゃんと教えてくれて、わたしは目を丸くさせる。
 お兄ちゃんもそれなりに、誰かを好きになったりしていたんだ……。
 引きこもりがちな部分もあって、今まで彼女ができたという話を聞いたこともなかったから、とても意外に感じる。
『まあ、オレはあまり嬉しくもないが……お前も高校二年生だし、そういう感情があってもいいんじゃないか?』
 そういう、感情。
 香澄先輩のこと、先輩を考える自分の事を思い出しながら、お兄ちゃんの言葉を聞く。
 聞いていると、いくつか心当たりがあるように感じた。だけど、どの程度まで達すれば恋に発展するのか……わたしには分からなくて、聞いてしまいたくなる。
『恋はどうしようもない……気付いたら落ちてしまってるから。あとはどのタイミングで気付くかどうかだな。悪いが、オレが教えてやれることじゃない』
 ちょっぴり先生みたいだな、なんて現在進行形で教師をやっているお兄ちゃんにそんな感情を抱きつつ、わたしはただひたすらお兄ちゃんの言葉を飲み込むばかりだった。

 ……気付いたら、落ちている。

 その部分だけが妙に印象に残っていて、離れられなかった。
「ありがとう、忙しいのにごめんね」
 頭を整理したくて、わたしは話を切り上げてしまった。
『ああ。他に何かあったら家でもいつでも声かけろ』
「うん。また家でね」
 優しいお兄ちゃんの言葉を聞き終え、そっと電話を切る。
 それからわたしは、また頭を抱えて悩むこととなった。

 思い出すのは、先輩に優しくされてときめいたわたし。
 視野を広くしてくれた先輩に衝撃を受けたわたし。
 先輩は誰にでも優しいのかもしれないと考えて、もやもやとした正体不明の感情を抱くわたし。
 榊くんに先輩が好きなのかと尋ねられて、即答できなかったわたし。
 憧れ、尊敬、友達、恋愛、釣り橋効果……。
 いろいろな感情がごちゃごちゃに混ざり合って混乱し、思わず空を仰いだ。
「これは、何なの?」
 抱く感情の名前を、今のわたしにはまだ知らない。
 今分かることは、胸の奥が苦しくて切ないことくらいだった。
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