図書室の住人

06:虚しく零れ落ちた問いかけ

 一瞬、世界の終わりが見えた……。
「え……?」
 香澄先輩の家で勉強会をすることになり、先輩が席をはずしている間に本棚でも眺めようかと思った……そんな流れだったはず。
 さっきまでの行動を振り返りながらなんとか現状を把握しようと試みるのに、やっぱり現状と過去が結びつかない。それどころか、榊くんがわたしに近づきすぎているせいで視線から逃げられない上に、凄まじい焦りが込み上げて冷静さを奪っていく。
「あの……なんで、そんなことを……聞くの?」
 とりあえず浮かんだ疑問をそのままぶつけ、反応を窺うことにした。榊くんは驚くように肩をびくつかせ、明らかに動揺を含んでいる表情へと変化していく。
「あ、えっと……その……」
 わたしも動揺しているので、近づいたまま二人でわたわたする羽目になってしまったのは、何ともおかしな光景だろう。触れる息がこそばゆくて、だんだんと呼吸困難に陥りそうだ。
 むしろ、どうしてこんなことになってしまったのか……。謎の状況に頭は混乱し、自分がどうすればいいのかも考えられなくなった。
 まずはこの近すぎる距離をどうにかすればいいと思うのに、それさえもできない。身体が凍ったかのように固まって動けなかったのだ。

「あー! 何やってんだオレはー!」
 そんな謎の状況で、急に叫びだしたのは榊くんだった。この状況をぶち壊すような叫び声にわたしは驚く。どうにかしないと……と思っていた距離は一気に広がり、叫びだした張本人は頭を抱えてうずくまっている。
「さ、榊くん……?」
「忘れてください!」
 距離を広げたかったことも忘れて、発狂している榊くんへと近づき声をかけてみると、とんでもない勢いで返答が返って来た。
「オレがバカでした! さっきのことは忘れてください! 今すぐに!」
 最終的に土下座までし始め、わたしの冷静さはますます消えていってしまう。
「あ、あの……榊く」
「忘れて! ください!」
「さか」
「忘れてください!」
 名前さえまともに呼ぶことも出来ず、ただただ焦りに飲まれている榊くんの気迫に負けた。思いっきり顔を上げて再びわたしに近づくと、『忘れろ』という洗脳をかけられる。睨めっこをするように見つめあうこととなり、さっきとは違う意味でドキドキする。
 本当はもっと聞きたい事がたくさんあったはずなのに、それは榊くんの言葉によってかき消されていくようだった。


「どうしたの?」
 睨めっこが続いていた最中、やはり神は見放さなかった。困った時に手を差し伸べてくれるのはやっぱりあの人。
「香澄先輩!」
 ここに戻ってくることは当然のことなので驚くことでもないのだけど、すっかり別世界に飛ばされた感覚に陥っていたわたしたちには驚きしかなかった。
 榊くんは驚きの声で先輩を呼び、わたしは心からホッとする。
 そんな救いを与えてくれた先輩はというと、異様な光景にまた別の驚きを抱いているようだった。
「えっと、何が」
「あの、」
「何でも! ない! です!」
 三人の声が一斉に集結してぶつかりあう。
 その結果、一番大きな声を出した人間が勝利した。勿論誰の声かは……言うまでもない。とてつもない勢いにわたしたちが言葉にしようとしたことは抹消されて、榊くんの必死さだけが残る。
「勉強しましょう! 勉強! オレ、先輩に教えてもらいたいところいっぱいあるんですよ!」
 明らかに不自然な動きで教科書類を鞄から取り出し、オーバーリアクション気味な様子で問題集を開いて「これですよ!」と分からないところを指差す。
 それはまるで、さっきまでの出来事を全てなかったことにするためであることは明白だった。
「やる気満々だね。じゃあ勉強しよっか」
 先輩は何も理解していない分、三人の中で一番戸惑いが大きいであろうと思っていたのに、知ることを諦めて開き直るかのように、平常運行を決め込んでいた。
 何も聞かずに、必死な榊くんを気遣ったのか、勉強モードに突入し始める。
「ほら、立花さんも。勉強勉強」
 わたしには正直開き直ることも、さっきの出来事を忘れることもできない。
 今でも微かにかかる榊くんの息と、目の前にあった真赤な顔。謎の問いかけの言葉……全部全部、ほんの数秒前に起こった出来事のように何度だって蘇る。心にずしんと居座ってしまったあの言葉だけは、やっぱり忘れることはできなくて……今でもそれを問いたい気持ちもあったりして。
 だけど一番戸惑うはずの先輩が平常心を貫くというのなら、わたしもそれに倣いたいと思う。

「……そう、ですね」
 へらっと笑みを浮かべて、何もなかった振りをする。
 直後に榊くんと目が合ったけれど、彼が安心するようにと同じように笑みを浮かべた。
 何も気にしてないよ、そんな気持ちを込めた念を伝わるか分からないのに送り続け、反応を確認しないままにわたしも教科書を取り出す。
「香澄先輩、今日はわたしも質問していいですか? 英語なんですけど」
 気になることを振りきって、勉強だけに集中できるよう切り替えようと必死になった。きっと必死な時点でわたしが勉強に集中できないであろうことは分かっている。
 分かっているけれど、榊くんの不可解な言動を理解できていない今、何を考えたって無駄だ。
「うん、何でも大丈夫だよ。でも先に榊くんの方をやっちゃうね。一番乗りだから」
「はい! 榊くん、早く質問しちゃってね」
「あ、えっと……はい」
 せっかく先輩の家に来て、三人で楽しく勉強会……の予定だったはずが、またしても訪れたイレギュラーによって状況は狂ってしまった。
 それでも影響力のある先輩のおかげで、勉強会はそれなりに軌道修正されたように思う。
 図書室のように周りを気にすることなく話が出来て、途中からは榊くんとのやり取りを一瞬でも忘れるほどに勉強に集中できた。
 いつもならどこかで躓いて手が止まり、集中が途切れても、教えてくれる人がいるだけで効率が変わる。
 勿論教えてもらうだけでは意味がないけれど、今までに比べて効率よく勉強できたと自信を持って言えるほどに、自分の中では上出来だと感じた。



 時計が十八時近くを指した頃、勉強会はお開きとなった。
「今日はおじゃましました。ありがとうございました」
「すっげーはかどりました! これなら赤点回避できるかもです!」
 玄関で靴を履きながら個々にお礼を述べ、満足げな笑みを浮かべる。
 榊くんもあれから集中できたようで、昨日よりも確実に勉強が捗ったようだった。
「それはよかった。なんか無理に連れて来ちゃったかなって反省してたから……どうかなって思ってたけど」
「「そんなことないですっ!」」
 珍しく弱気な面を見せる先輩に、二人して声を揃えて叫ぶように言った。
「確かに驚きはしましたけど、でもなんか、仲良くなれてるんだって思ったら嬉しいって思って。わたし、こうして勉強会とかしたことなくって」
 素直に気持ちを言葉にしてみると、先輩は不意を突かれたような表情を浮かべる。
「オレも嬉しいです。むしろこっちは感謝してるんで気にしないでください! 学年違う出来の悪いオレに根気強く教えてくれましたし」
 更に榊くんの言葉が決め手となって、先輩はようやくいつもの優しい表情に戻してくれた。
「ありがと、二人とも」
 優しい雰囲気はわたしの心を浄化していくようで、わたしまでも優しい気持ちになれるようだった。
 居心地がよくて、先輩みたいな人と仲良くなれたことをラッキーに思う。

「じゃあ、気をつけて帰ってね」
「「おじゃましました」」
 ぺこりと頭を下げ、わたしと榊くんは先輩の家を後にした。
 時々振り返っては手を振っている先輩に手を振り返し、それを二度ほど繰り返してようやく普通に前を向いて歩いていく。
「榊くん、学校までの道とかは分かる? もし分からなかったら道が分かるところまで付き合うよ」
 家が逆方向と話していた榊くんに問いかけたのは、わたしなりの精一杯の気遣いだった。
「ありがとうございます。じゃあ、商店街の近くまでいいですか?」
「うん、任せて」
 頼られることに慣れていないわたしは、何だかこそばゆい気持ちでいっぱいになる。
 榊くんとは気まずい一件もあったというのに、今は嬉しい気持ちで満たされていることもあって、『まだ』平常心でいられる自信があった。
 正直、気の利いた話題を提供できる気がしない。またわけのわからない状況に陥って、冷静さを失ってしまうかもしれない。
 それでも……別れるまでの、ほんの少しの時間くらいなら……もう少し、あふれ出しそうな気持ちを塞き止めることができそうな気がした。

「……ほんと、今日は立花先輩に迷惑をかけてすいませんでした」
 榊くんの方から気まずい話題を持ちかけられ、一瞬だけドキッとする。
 ついさっき『平常心でいられる自信がある』なんて心の中で思っていたばかりなのに、早速崩されてしまうのかと思うと、はらはらしてしまった。
 申し訳なさそうにしょぼくれる榊くんに、わたしも何だか申し訳なくなってしまう。

「忘れてくださいね、オレが先輩に聞いたこと」

 歩みを一切止めることもなく、前を向いたままわたしを見ることもなく、ほんの少しだけ頬を赤くしただけの真顔な状態で、榊くんは静かに言い放った。わたしがどれだけ横から視線を送ろうと、いつまで経ってもその視線が交わることはなく……。
 呆けている間に商店街が見え始めていて、せっかくの疑問をぶつけるチャンスを逃してしまった。
「じゃあ、ここで大丈夫なので。ほんとはオレが先輩を送らなきゃいけないのに、付き合ってくれてありがとうございました。気をつけて帰ってください」
 ようやく穏やかな表情を浮かべた榊くんはそれだけを言うと、一度だけ頭を下げて背を向けて歩き出す。
 わたしは今日の別れの言葉さえも言えなくて、呆けたまま立ち止まって彼の背中を見送ることしか出来なかった。



「……何でわたしが先輩を好きなんて……思ったんだろう」
 ぶつけたかった疑問は、姿が見えなくなった今になって零れ落ちていく。

 さっき見た榊くんの横顔がほんの少し寂しそうに見えた気がして、それが心のどこかで引っかかった。
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