図書室での勉強会翌日、二日目に突入した放課後のこと。
普通なら図書室へと向かうはずのわたしは、ホームルームを終えて早々と靴箱に待機していた。
何故靴箱かと言うと、今日から図書室での勉強はしないことになっているからである。
昨日わたしはテスト前の図書室が苦手だと思っていた。
それがどうやらわたしだけではなかったらしく、昨日の帰り際に香澄先輩から一つの提案が掲げられた。
『明日は別の場所で勉強しよう。教え合うにもある程度会話が必要だし、そうなると図書室のような静かな場所では不都合も多いだろうしね』
先輩の提案に納得しかなかったせいで、わたしも榊くんも異論はなかったように思う。
雰囲気が苦手以前に、図書室は静かにする場所だ。自分以外誰もいない状況だと少し気が緩むけれど、やっぱり知らない誰かが一緒の室内にいるとなると気を遣うのも当然と思うのはマナーだろう。
場所は先輩が任せて欲しいと言ってくれたことで、わたしたちは詳細を知らない。
そういうわけで二人を待っているのだけど、『誰かを待っている』状況が不思議でしょうがなかった。
今までは、そもそも誰かを待つ必要性もなければ待ち人もおらず、そんな暇があれば家に帰って本を読んでいたに違いない。
香澄先輩や榊くんに出会って、自分が感じたことのない気持ちや出来事に遭遇し続けていることにそろそろ慣れるべきかもしれないのに……胸の高鳴りは収まることを知らないようだった。
邪魔にならない場所で待っているとはいえ、自分のいつもと違う行動に違和感を感じて落ち着かない。
変に思われていたら、どうしようか。
きっとそんなこと自意識過剰だって分かっている。周りは自分のことで忙しくて、わたしみたいな人間にいちいち構っていられるほど暇じゃないのだ。だけど、いちいち周りが気になってしまう。今まで一人でいることに何の悩みも不安も気にすることすらなかったというのに……どうしてこうなってしまったのか。
毎度毎度新しい感情を抱く羽目になり、人間関係を怠ってきたことに後悔する。
早く、早くどちらか来て欲しい。
そうしたらわたしは、一人でいちいち考え込むこともなく、ただ楽しいだけの感情で満たされるんじゃないか……そう思う。
「立花先輩!」
少しだけ落ち込んで俯こうとした瞬間のことだ。遠くから名前を呼ばれた気がして、わたしはそれに敏感に反応して顔を上げる。先輩と呼ぶのは一人しかいないので、遠くからでも誰なのかはすぐに分かった。
わたしも同じように名前を呼んで『ここにいるよ』とアピールしようとするのだけど、その時のわたしは呼べずに手を振ろうと中途半端に上げた手が行き場をなくす。
わたしを呼ぶ人物は急がなくてもいいのに駆け寄ってきて、どんな反応をしようか考える前に目の前に辿り着いてしまった。
「す、すいません……。ホームルーム、長引いてしまって」
息を切らしている辺り、ずっと急いでここまで来たんだろうな。
一年生の教室が並ぶ校舎はこの靴箱から一番遠い場所にあり、急いで来るにも時間がかかるのは、去年その校舎にいたわたしにはよく分かる。
「別に急がなくても大丈夫だよ。まだ香澄先輩も来てないし」
必死で呼吸を整えている一年生の榊くんに安心させるための声をかけ、わたしは苦笑交じりの笑みを零す。
「で、でも……立花先輩を待たせるのは、申し訳ないって……」
だけど頑固な後輩くんは、自分に非があると譲らないようだった。
少しずつ呼吸が整えられていき、落ち着いた頃にはわたしの顔をじっくり見る余裕さえ出ている。……そんな榊くんと、うっかり見つめ合うような形になった。
「ありがとう。でも、わたしもそんなに待っていないから大丈夫だよ」
先ほどは苦笑気味だったけれど、今度は素直に笑顔を浮かべることが出来た。気遣ってくれたことは嬉しいし、急いで来てくれたことも嬉しい。
何より……一人で考え込む世界から目を逸らさせてくれたことが嬉しかった。
「あっえっ……う……なら、いいんですけど」
急に顔を真赤にさせた榊くんは、慌ててわたしから目を逸らして視線を泳がせ始める。なかなか忙しない後輩くんで、落ち着かない様子がほんの少し気になった。
そういえば昨日はずっと榊くんはわたしを見ていて、何か言いたげな様子だったのを思い出す。
……もしかして……昨日のわたしが何を考えていたとか、見透かされていた?
「おーい!」
少々気まずい雰囲気になった時、タイミングよく香澄先輩が現れた。
先輩もわたしたちを見るや慌てて駆け寄り、開口一番に謝罪する。
「ごめんね、ちょっと先生に呼び止められちゃって。待った?」
「「いえ! 今来たとこです!」」
先輩の言葉にすぐさま反応したわたしと榊くんは、同じ台詞を同じタイミングで叫ぶように口にした。
さっきの気まずさもあって顔を見合わせて恥ずかしくなりながらも、三人が揃ったことにホッとする。
「よかったー。じゃあ行こうか」
香澄先輩もホッとしたようで、わたしたちはようやく校門を後にすることとなった。
「俺の家だけどいいよね?」
行き先はどこだろう……いつ尋ねようか、と悩んでいる最中のこと。先輩が頭の中を読んだかのようなタイミングで行き先を教えてくれた。
……それはいいんだけれど。
「香澄先輩の家なんですか!」
思わず驚いて声が大きくなってしまった。
それにすぐに気がついて恥ずかしくなり、だけど動揺は抑えきれずに落ち着かない。
「大丈夫なんですか? オレたちお邪魔しても」
「うん、大丈夫。俺の家は両親共働きでいつも帰りは遅いし、兄弟もいないから気にしなくて大丈夫だよ。むしろ来てくれるのは嬉しいなぁ」
楽しそうに話す先輩が眩しくて、わたしはまた眩暈を起こしてしまいそうだった。
先輩の家に行けるのは嬉しいし、先輩が喜ぶのならいつだって遊びに行きたいと思う。だけどそれをもっと早くに教えてくれていれば……心の準備なんていくらでもできたかもしれないのに。
その準備の有無に関しては考えないようにしつつ、でもやっぱり楽しみなのは抑えきれない。
これからの目的が勉強だったとしても、誰かの家に遊びに行けるのは楽しみだった。
「あ、でも大してすごい家でもないから期待しないでね」
苦笑する先輩の謙遜を聞きながらも、見慣れた場所をどんどん進んでいく。
そういえば、先輩とは家が近いとは聞いていた。でも詳しい場所までは知らなかったので、目的地までは未知数である。
「俺の家は立花さんの家を通り過ぎた先だからね」
またしても、心を読まれたのかと思うほどのタイミングで言われ、ドキッとしながら見えてきた我が家を通り過ぎた。
「さ、榊くんの家は、どの辺りなの?」
苦し紛れとは分かっていても、わたしは何かで気を紛らわせたかった。
このメンバーの中で唯一家の場所が分からないのは榊くんで、自然とそちらに話題が回ってくるのは無理もないだろう。
わたしに話しかけられて挙動不審になった榊くんに、ちょっとした不審感を抱きつつ、興味津々な先輩と一緒になって榊くんへと視線を向ける。
「お、オレの家は……残念ながら先輩たちとは逆方向で……」
その回答で、挙動不審になった理由が分かった。
申し訳なさそうに顔を俯ける榊くんは言いづらかったのかもしれない。
「そっかー。それは遠いところまでわざわざ来てもらっちゃって悪かったなぁ」
先輩が申し訳なさそうにしているのを見て、きっと榊くんもそれを分かっていて言いづらかったのかなと勝手に妄想した。
「いえ! 学校のすぐ傍に建ってるマンションなんで、そこまで遠くないですよ!」
「あー、あのマンションかー。通学楽で羨ましいなぁ」
だけど二人はすごい。榊くんもこれ以上先輩に気を遣わせたくないのか、雰囲気を変えて話題を誘導している。今の二人は『学校が近いことについてのメリット・デメリット』について話すことに燃えているようだった。
わたしだったらきっと、どうすれば気を遣わせずに済むかあたふたしているうちに、先輩の方から宥められてもっと気を遣わせるに違いない。
まだまだ修行が足りないわたしは大きく溜息をついて、「着いたよ」と教えてくれた先輩の不意打ちにまた慌てながらも立ち止まった先を見つめていた。
「……すごい、綺麗」
「オレの家とは格が違う……すごい」
わたしと榊くんがひたすら周りを見渡し、立派な一軒家に足を踏み入れながらも感動していた。
「実は去年この家が建てられて住み始めたんだ。さあ、こっちが俺の部屋だから行こう」
そういえば、この周辺は去年特に一軒家が大量に建てられていたっけ。心の中で当時のことを思い出しながら、わたしたちは先輩の後をついていく。
新築ということもあるが、全体的に掃除と整頓が行き渡っていることも評価できるところだった。自分の家もそこまで散らかっている部類ではないにしても、無駄な物が多い我が家とは比べるのが申し訳ない。
階段を上ってすぐの扉に、『静人』とネームプレートが掲げられている。
「さあ、どうぞ」
予想通りその部屋は先輩の部屋で、わたしたちはその中へと誘導されていった。
またしてもシンプルな印象を持つ先輩の部屋を珍しげに二人して眺め始め、そして本の多さと部屋の広さに驚く。それは、自分の部屋では収納しきれないであろう本の数が原因だろう。羨望の眼差しを向けながらも、見たことのないタイトルを見つけてしまったことで、本棚が気になってしょうがない。
「お茶持ってくるから適当に待ってて」
ぼやぼやと本棚を見ているうちに、先輩は一言残して部屋を出て行ってしまった。わたしたちが何か言おうとした頃には、もう先輩はいなくなっている。
「……すごいねぇ、先輩の部屋。本がいっぱいあるよ」
先輩がいなくなったのをいいことに、ようやく本棚の感想を零すことができた。本当は先輩を手伝うために追いかける場面だろうけど、どうしても、目の前にあるたくさんの本には抗えない。
「そうですね。オレの家のリビングくらいの広さですよ、香澄先輩の部屋」
同じように驚き果てた榊くんも、ぽつりぽつりと呟くような感想を口にして、二人して延々と「すごい」と言い合っていた。
あまり他人の部屋を物色するように見るのはいけないかもしれないが、やっぱり本が気になってしまい、本棚をずっと見つめていたいと思う。
「……立花、先輩」
そんな本の虫脳が現れ始めた時、不意に名前を呼ばれた。
「ん?」
視線は本棚から榊くんへと移動し、何故改まって呼ばれたのかが分からずきょとんとしてしまう。だけど視線を送れば榊くんは顔を赤くし、またしても落ち着かない様子にこっちまで落ち着かなくなりそうだった。
「どうしたの?」
そう口にした瞬間、蘇るのは靴箱での落ち着かない様子の榊くん。昨日、何か言おうとしていた榊くんのことだった。
心音は速さを増していき、視線を逸らしたくても逸らせずに立ち尽くすだけ。
すると榊くんは少しずつわたしに近づき、本当に「目の前に顔がある」という状態まで近づいていた。わざわざ視線の高さまで合わせてくれている。
さすがに何かが触れるほどの近さではないにしろ、整えられた容姿が目の前にあるというのはドキドキして当然ではないだろうか。
何が起こるか分からず戸惑うのに、やっぱり視線は逸らすことができなかった。
……そして、きっとわたしにしか聞こえないような小声で、君は不意打ちを仕掛けてくる。
「……立花先輩って、香澄先輩が好きなんですか?」
不意打ちは見事に成功。思考はクラッシュし、言葉はいとも簡単に消失してしまった。
冗談だったらどれだけよかっただろう。
でも、目の前の顔は真剣な眼差しで……とてもじゃないが、逃げられる雰囲気ではなかった。