図書室の住人

04:勉強会と正体不明のそれ

 わたし……二年の立花梨乃と、三年の香澄静人先輩、そして一年の榊悠吾くんの三人の交流は、榊くんと話したその日から学年を超えた付き合いを始めるようになる。
 きっと楽しいことばかりだ。
 図書室から、読書から繋がった仲間だから、楽しいに決まっている。
 その時のわたしは、とてつもなく胸を躍らせていた。


 ……とはいえ、楽しいことばかりではないことは分かっている。
「えっと……次の問題……」
 わたしは手元に広げている問題集と格闘していた。
 三人の交流が始まった翌日は、二年生になって初めての中間テスト一週間前であった。授業や宿題程度でしか勉強をしないわたしにとっては、勉強をせざるを得ない状況に追い込まれる。
 いつもは人がいるかいないか分からない図書室は、部活が停止された生徒で溢れていた。静かではあるが、明らかにいつもと違う雰囲気で満ち溢れている図書室。
 わたしは正直、この雰囲気が苦手だった。
 ……人の気配が気になってしょうがない……だけかもしれないけれど。
「香澄先輩、この数式について聞いてもいいですか?」
「どれどれ? 見せてみて」
 本当は香澄先輩と榊くんの三人で読書をしたり、本の話ができたら嬉しいなんて思っていた。
 だけど今は、教科書や問題集を広げて勉強会となっている。
 それでも三人で過ごすことができるのは嬉しいことだけど、内心複雑な気持ちでいっぱいなのは否定できなかった。
 ……だって、これはテストが終わるまで続くということなのだから。


+++


 香澄先輩は完璧に勉強をこなしていた。むしろわざわざここで勉強をする必要性すら感じない(というのは先輩に失礼かもしれないけれど)。
 学年が違うわたしや榊くんの質問もすんなりと答えてしまい、自分の勉強もこなしてしまう。しかも教え方が上手いものだから、わたしも榊くんも更に尊敬できる先輩の地位が確立されていくのが分かった。
 見た感じからして頭がよさそうだと思っていたけれど、勉強会前日に勉強についての会話を交わしていた中で、先輩はとてつもない言葉を残している。

「授業をちゃんと理解していれば大丈夫だから。宿題は復習みたいな感じでやっているし、授業では先生が問題を当ててくるから予習は欠かさないし。予習しておくと授業の理解度も変わっていってね、」

 当然であることは分かっていても、実際上手くこなせないことを平然とやってのける先輩はとても眩しい。
 さも簡単なことのように語る先輩を見て、わたしは自分が恥ずかしくなっていた。
 横目で榊くんへと視線を向けると、彼も苦虫を噛んだような表情になっていて、何となく同じことを考えているのかな、なんて思ってしまう(失礼かもしれないけれど)。
「わ、わたしは一週間前からやり始めるから……勉強は平均くらいかな……」
 自分の今までの勉強歴を考えると、テスト一週間前からしか本格的な勉強をしない。
 交友関係さえ怠って読書にどっぷりだったわたしなのだ。
 勉強だってテスト前にやっとけばいい、宿題と当たる部分だけ予習しとけば……なんて軽い感じだ。次の日の授業の理解度、とかそんなことなんて微塵にも考えたことはない。
 読書を続けていれば頭がよくなるかと聞かれれば、それはノーになる。
 現代文や古典、歴史関係なんかは過去読んだ本のおかげで何となく詳しいところもあるものの、読書では好みに偏りがあるために完全とは言えない。
 ……しかもテスト科目はそれだけではないので、かなり勉強しないといけないのが苦しいところである。

「……お、オレ……」

 そんな中、苦虫を噛んだような表情をしていたはずの榊くんの表情が、更に苦しいものへと発展しているのに気付いた。
「どうしたの? 勉強心配?」
 先輩も様子のおかしさに気付いて、心配そうに声をかける。
 わたしもその様子から目が離せず、じっと見守ることとなった。
「……オレ、恥ずかしくて。香澄先輩がすごすぎて……立花先輩も、平均並に勉強してて……オレは……」
 震える声は、いつ泣いてしまうか分からないとハラハラするようなものだった。
 更に心配な気持ちは加速していき、それから次の言葉の予測をする。勿論、彼が言いたいことは何となく察していた。
「オレ、典型的な勉強できないヤツなんです……眼鏡なのに! まあこれどうせダテ眼鏡ですけど! 眼鏡ブームに乗っかってかけただけなんで! どうせ一夜漬けで泣きながら勉強してて、瞬きした瞬間、暗かった空が明るくなってた時の絶望感ときたら!」
 半泣きの榊くんは、自虐の言葉を思いつく限り並べているようだった。
 言ってはいけないかもしれないが、とても……かわいそうに見える。
 ここまで吐き出したところで、我に返った榊くんは一つ咳払いをすると、顔を真赤にしながら俯き加減に……そして可愛らしい表情で上目遣いをしてきた。
「香澄先輩、立花先輩……本以外も教えてもらえないですか……?」
 元々犬みたいに可愛らしい後輩が、反則的な表情を浮かべるのは更に反則だ。
 そう叫びたくなったとしても、この後輩には悪意もなければ計算でもないことは分かっている。そもそも、そういう表情に見えることは榊くんには分からないことで、わたしが勝手に感じているだけだ。それを悪というのは理不尽だろう。

「いいよ、俺でよければ。二人が勉強するのに俺だけ本を読むのもなんだしね。みんなで勉強しよっか」
 どこまでも神の地位へと上り詰める香澄先輩のありがたいお返事は、迷いのない了承の返事だった。
 勉強に自信がないわたしには即答できない返事を平然とやってのける先輩はやっぱりすごい……その印象はどんどん色濃くなっていく。
「あ、ありがとうございます!」


+++


 そんな前日の会話から一つの約束が生まれ、放課後の勉強会は決行されることとなり今に至る。
 勉強が苦手と豪語していた榊くんは、香澄先輩に刺激を受けたのか、必死で勉強している姿が見られた。
 今回はわたしの出番はなさそうで、むしろ榊くんに便乗して先輩に質問する側となっている。わたしも別に勉強は得意ではないし、進んでやりたいものではないのだけど、こうして誰かと勉強するのは悪くない。
「あ、先輩ここも聞きたいです」
「それは前のページの数式を使って……」
 そして、二人の勉強している姿が微笑ましくて、大変目の保養だ。
 おかげでやる気も二倍増しである(当社比)。
「立花さんは大丈夫そう?」
「えっ」
 完全に油断していたわたしは、不意を突かれたような感覚に陥って、一瞬にして頭の中が真っ白になっていく。
「うぇっ、わ、わたしは……今のところは、大丈夫、です」
 向けられた先輩の視線にドキッとして、たどたどしい言葉での返事となってしまう。
「分からないところがあったら遠慮なく言ってね」
 変な声で、ぎこちない言葉での返事にもかかわらず、先輩は気にすることなく優しくしてくれた。表情も穏やかで優しくて、安心する。
「……は、はい」
 小さく返事をするだけで精一杯で、気の利いた言葉を考える余裕すらなかった。
 あまりにも不自然な自分の態度に嫌気が差しながら、榊くんの勉強へと戻ってしまった先輩をそっと見つめてみる。
 香澄先輩は優しい。
 だけどそれは、わたしだけじゃないんだろうな。
 どんな人にだって優しいんだろう。
 ……それが少しだけ、もやもやした。
「………………何考えてるんだろ」
 自分にしか聞こえないような声で、小さく小さく呟く。
 今考えたことを払拭するためにわざと声に出したのだ。
 先輩が優しくて、それに救われた人間は少なくともここに二人はいる。それだけで、わたしだけに優しい先輩という幻想は打ち砕かれたようなものだった。
 先輩が優しいのも、心が穏やかになれるような笑顔も、独り占めできるようなものじゃないことくらい……誰にだって分かるはずなのに。

「立花先輩?」
 心のどん底に落っこちていく自分を繋ぎとめたのは、思わぬところからの声。
 我に返って声の方へと視線を向けると、榊くんが心配そうな様子でわたしを見ていた。
「え、何?」
 ぎこちない笑顔を浮かべながら声をかけた理由を尋ね、その間に自分の思考をリセットさせようと試みる。
 どうしてこうなってしまったんだろう。何を考えていたんだろう、わたしは。
 ただ勉強をしていただけなのに、何故落ち込む必要があるんだろうか。
「……いえ、何でもないです」
 一瞬何かを口にしようとして、榊くんは何も言わなかった。
 何を伝えたかったのかは気になるものの、内心ではホッとしている自分もいる。
 こっそり先輩を見つめていたはずだったけれど、それがバレていたんじゃないかと思ったら……それはそれで怖かった。
 榊くんはその後も時々わたしへと視線を送っていたので、できる限り平然を装いながらも勉強に集中することにした。
 どうしても頭から離れない、先輩の笑顔とわたしのどろどろとした感情。
 何がどうなっているのか分からないわたしは、苦しくて涙が零れ落ちそうだった。

 加速する世界に追いつけなくて息苦しいのか、幸せすぎるからこその不幸の前触れなのか……。
 今のわたしには、何も分からないままだ。
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