図書室の住人

03:わたしたちの偉大なる先輩

 キッカケは図書室を逃げ場所としたことだった。
 昔……本当に昔の話の、幼稚園の頃の話。
 イジメられていたことがトラウマで、できるだけクラスの中心にいられるように努力していた。
 姉に相談したら見た目は大改造され、あとは自分が明るく振舞うだけで全てが上手く行った。あまりにも簡単すぎて、延々と悩んでいた自分がバカバカしいとさえ思っていた。
 それはずっと続いていて、高校生に上がった今でもクラスの人気者ポジションを陣取っている。
 ……だけど、やっぱり一人でいたいと思うことは多かった。
 ただ見た目がよければ寄り付いてくる、周りの人間に嫌気が差した。
 また陰気な自分を表に出せば、周りは見下すのだろう。
 本当にバカげた世の中だ。

 そんな時、図書委員の枠が空いていた。
 もしも委員になれば、図書室に逃げたい放題だ。
 委員を言い訳に、逃げ込める場所があるというのはありがたい。

 そして……そこで出会ったのが、香澄静人という人間だった。


***


 放課後の図書室はわたしと図書委員……榊くんの二人で貸切状態だった。
 向き合って座り、榊くんが話す内容に耳を傾ける。
 何故こんな話になってしまったかと言うと、本を教えて欲しいという彼の願いを聞く条件として、どうして教えてほしいのか、理由を尋ねたことが原因だろう。
 思ったよりも根っこが長かったその話は、軽々しく聞いてよかったものかと悩ませる話だった。
 やんちゃそうな見た目からは想像もつかない、彼にとっては深刻な話。
 わたしは上手く声をかけることができなくて、話を聞くことだけに専念することにしていた。
 まだ話は続きそうだったので、口を挟んで脱線するのも何となく申し訳ない……なんて気持ちもあったりして。
 大人しくしていることがベストな雰囲気と読み取ったわたしは、じっと榊くんを見つめるほかなかった。
「立花先輩もいつもいるなっていうのは知ってたんですけど、たまたま先輩がいない時に香澄先輩と二人になったんです。カウンターでボーっとしてて、そろそろ準備室にでも篭ろうかなって時に、香澄先輩が声をかけてくれました。『暇なら本でも読まない?』って」
 その様子が簡単に想像できたのは、きっとこの間わたしも似たような経験をしたせいなのか否か……。
 ほんの少し寂しそうな表情を浮かべていた榊くんが少しずつ楽しそうな表情へと変えていき、彼自身のテンションも上がっていくのが伝わり始めていく。
「本なんて普段全然読まないんですけど、先輩が本を手渡してくれて読んだんです。そしたらすっごく面白くて……なんか、何で今まで読まなかったんだろうって……ずっと自分の地位を維持することに必死になってて、何か大切なことを忘れていた気がして……すっげー衝撃受けちゃって!」
 楽しそうに生き生きと話す榊くんの表情は、今まで見ただるそうだったり、眠そうだったり……そんな表情とは真逆のように感じた。
 ただ暗いだけの話じゃなくて、ちゃんと明るい話も存在している。
 そしてその明るい世界へと導いてくれたのは、またしても香澄静人という先輩で……。
「オレ、せっかく図書室に篭るなら本を読もうって思ったんです。読むの遅いし、途中で眠たくなったりするけど……逃げるだけで何もしないのは、何となく勿体無いなって。で、やっと読み終わったんで香澄先輩に報告したかったんです。本面白かったです! あそことあそこの展開がすっげー燃えて! キャラの掛け合いとか思わず笑っちゃったりして!  感想もそうなんですけど……本を薦めてくれた香澄先輩にお礼を言いたかったんです」
 榊くんもまた、わたしと同じように救われた人間なのかな?
 わたしは救われたのかどうかさえも分からないけれど、世界を変えた革命者であることだけは理解している。
 だけどきっと、今の話を聞いて思う。
「榊くんも、香澄先輩に変えてもらったんだね」
 へらっと笑いながら、わたしはようやく言葉を返した。
 ほんの少し不思議そうな表情を浮かべる彼に、わたしも少しだけ自分の話をする。
 先週起こった話と、視野の狭かった自分の話。
 他人を恐れて自ら輪の中心へと飛び込んだ彼と、好きなことを追求するために輪の外を選んだわたし。
 正反対のわたしたちが道を交えることになったのは、きっと……全部、香澄先輩のおかげなんだ。
「香澄先輩ってすごいっすね」
 改めて声に出して言葉にしてみると、先輩のすごさがよく分かる。
 きっと先輩にとっては大したことのないことかもしれないけれど、少なくともわたしと榊くんはとてつもない大きな衝撃を与えられた。
 たった一人を動かすだけでもすごいのに、二人も動かした。
「うん、すごいね」
 思わずお互い顔を見合わせて、それから控えめに笑う。何だかあまりにもすごい先輩に出会えて、麻痺して笑いが込み上げてしまったのだ。
 そして、わたしはこの後輩にあたる図書委員くんとも話している。
 ここ一週間ずっとおかしかった日常はやっぱりおかしいままで、だけどわたしは嬉しくて楽しい。

「わたしでよければ、おすすめの本いっぱい教えるよ」
 気付けばそう返事をしたわたしに、榊くんは一瞬だけ驚いた表情を浮かべた後、嬉しそうに笑顔を浮かべる。
 その笑顔にほっとして、わたしは安心したまま言葉を続けた。
「何か話を聞いてて、榊くんとも読書仲間になれたら嬉しいなって思って……。そうしたら、いっぱい本の話もしよう。せっかく図書室に居座る住人なんだし」
 へらっと改めて笑顔を浮かべると、榊くんは何故か頬を真赤に染め上げてしまった。
 今更になって恥ずかしさが込み上げてきたんだろうか?
 随分深いところまで彼の話を聞いてしまったものだから、そうなってしまうのもしょうがないことなのかもしれない。
 だけどまあ、お世辞じゃなくても榊くんはとてもカッコよい部類に入る男の子だ。顔を赤くするところがまた良いと思えば目の保養にもなる。
 ……なんてバカげたことを考えながら、わたしは一瞬だけ思考を別のことに向けた。
 榊くんと話をして、自分で言葉にしてみて初めて、わたしは読書という世界が孤独でないことを実感した。
 本を読んでいる間は一人でも、同じ本を読んで共感できる誰かがいれば、それだけで孤独ではなくなる。
 そんな簡単なことにさえも気付けなかった自分がおかしくて、香澄先輩が言っていた言葉の意味の本質をようやく理解できたような気がして……そして最後に、 お兄ちゃんの言葉を思い出した。友達はいいぞっていう、そんな単純な言葉を。……その単純なことがどれだけ大切なことかを。
「あ! ねぇ、先輩にはどんな本教えてもらったの? ほら、好きなジャンルとか傾向とか、好みとか教えてもらわないことにはわたしも教えようがないしさ」
 先へ進むために、わたしは本選びの参考になりそうな質問を投げかけた。
 あまりにも唐突に話を投げかけてしまったせいか、榊くんは驚いた様子でテンパっているのが目に映る。
「えっ!? えーっと……先輩にはファンタジー系の小説を教えてもらいました。ああ、でもまだ読書初心者なんで、いろんな話を読んでみたいです。オレの意見とか関係なく……その、立花先輩が好きな本を教えてください」
 先ほど香澄先輩の話をしていた時よりは弱々しく聞こえる言葉だったけれど、その弱々しい言葉がわたしにとっては嬉しかった。
 誰かの役に立てるかもしれない……そしてわたしはまた一つ、新しい世界を垣間見ることができるのかもしれない。
 それがただただ嬉しかった。
「そっかぁ。わかった! まかせて! 読みやすい本探してみるから」
「よろしくお願いします」
 繋がったばかりの繋がりを繋ぎとめるために一つの約束を交わす。
 きっとまたわたしたちは、繋がりあうために次々と約束を交わすんだろう。

 ……お互いがお互いを必要とするならば。

「あれ? 二人とも楽しそうに何話してるの?」
 突然降りかかった言葉に、わたしも榊くんも驚き一色に染まった。
「「香澄先輩!」」
 二人で話していた中心人物が現れてしまったことは、少なからずわたし達の動揺を引き出してしまっていた。
 思わず二人で声を揃えて先輩の名を呼び、一方の先輩は不思議そうにわたし達の顔を見比べている。
「というか、二人がいつの間にか仲良くなってる。よかったら俺も混ぜてよ」
 次第に楽しそうな表情へと変わり、それを見て影響されたわたし達までもが楽しい気分に陥っていく。
「あ、榊くん。先輩に言うことあるじゃない」
 さっき話していた彼の生き生きとした表情を思い出して、わたしは忘れぬうちに榊くんを促した。
「えっ」
 またしても動揺する榊くんは、明らかに照れているようにも見える。
「さっきわたしには話してくれたじゃない。それをそのまま言えばいいんだよ」
 香澄先輩にお礼を言いたかったこと、本が面白かったこと、また本を教えてほしいこと。
 どんな稚拙な言葉だってきっと、この偉大なる先輩ならば受け止めてくれる。
 わたしのバカげた質問にも真剣に答えてくれた先輩なんだ。
 これから榊くんが伝えることとは、比べ物にならないどうしようもない質問をしたわたしが生き残ったのだから、絶対に大丈夫。
 とにかく大丈夫だという念を視線で送りながら、小さく頷いて後押しする。
 それを見てくれていた榊くんもまた、小さく頷いて返事をしてくれたようだった。

「あ、の! こないだ薦めてもらった本、遅くなったけど読み終わって……オレ、全然本とか読まないんですけど、薦めてもらったおかげでなんか……大事なこと教えてもらえた気がしました。ほんとありがとうございました。すっげー面白かったです!」

 渾身の想いを伝え終わった後、榊くんは手に持っていた本を先輩に差し出した。
 緊張していると、見ているこちら側が分かるほどに硬い表情を浮かべる彼を見守るわたしは、心の中で「よくやった!」と拍手を送っている。
「よかった、楽しんでもらえて」
 香澄先輩はそれほど時間をかける間もなく、ホッとした様子でそう答えた。
 安心が伝染して、榊くんもホッとしているのが分かる。
 そしてわたしといえば、その微笑ましい光景に心があったかくなっていた。

 一冊の本が、一人の男子高校生が、今この場所と光景を与えてくれた。
 わたしはそれをずっと忘れないだろう。

 楽しすぎる今を噛み締めながら、わたしは心の奥底でひっそりと思った。
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