図書室の住人

35.彼と彼女とわたしの好きな人

「ところでさ」
「おう」
 安心したところで、わたしはとある疑問を思い出し、何も考えずに問いかける。
「和泉くんは、誰が好きなの?」
「…………」
 今言うタイミングではなかった。
 それに気付いたのは、二人の間に訪れた沈黙をの気まずさを感じ取った時だった。
 驚き果てた和泉くんは言葉を失った後、一瞬だけ動かしていた足が止まる。だけどすぐに停止は解除され、こほんと一つ咳払いをすると、動揺を押し込みながら和泉くんはぽつりと尋ねた。
「……何か言われたのか?」
 顔を覗き見ると、そこにはいつもより赤い頬が見えた。
 その赤色には覚えがあるのだけれど、それに比べるとほんのりとした赤さに感じる。そしてその赤さを思い出すとわたしまでもが恥ずかしくなってきて、比べることも考えることも止めた。
「うん……まあ……。あとは普通に気になっただけというか……あ、でも和泉くんが好きとかでは……じゃなくて! 好きは好きでも友達としてというか!」
 話し始めてみると、和泉くんが押し込んだ動揺がわたしに流れてくるかのように、落ち着きのない言葉になってしまった。
 照れた様子はだんだんと呆け顔に変化していき、最終的にはけらけらと笑われてしまう。
「立花は……くくっ……本当に面白いヤツだな」
 だけど気付けば優しく微笑んでいて、結局わたしも同じように笑うのだった。

「おーい! あそこのカラオケ屋だからなー!」
 先頭を歩いていた伊藤くんが、後方まで聞こえるように声を張り上げている。
 それはいつの間にか最後尾を歩いていたわたしたちにまでちゃんと届いていて、なんとなく急いだ方がいいなと思ったわたしは少しだけ足を速める。
「立花!」
 その時、不意に和泉くんが名前を呼んだ。少しだけ和泉くんを追い抜いていたわたしは思わず振り返る。
 そして、一気に距離を詰められた。

「オレさ、前にいろいろあって……大ゲンカした女子がいてさ。そいつのことが好きなまま、三年くらい経っちまった」

 顔を近づけられ、囁くような声で言われた言葉にドキッとする。
 近すぎる距離に呼吸の仕方を忘れてしまいそうになるけれど、もちろんそこに特別な感情はなく、異性とこうして接するのに慣れていないだけ。
 特別ならば、もっと前からその兆候があるはずだから……。
「それって……」
 おろおろと動揺しているうちに、結局名前を聞くことができないまま目的地へとたどり着いてしまった。
 気づくと傍には和泉くんの姿はなく、きょろきょろと辺りを見渡してようやく伊藤くんの傍にいるのを確認する。
「おーいっ! 梨乃っちー! ういいいいいんどーーーん!」
「うわっ」
 そんな無防備なわたしに遠慮なく抱きついてきたのは、先頭を歩いていたアイちゃん。
 思わず体勢を崩しそうになったが、なんとかそれは堪える。
「すぐ合流できなくてごめんね。楽しそうに話してたから」
 申し訳なさそうに謝罪するミナちゃんも寄ってきて、その後方に少しだけムッとした表情をしたヤマちゃんの姿が見えた。
「ううん、大丈夫だよ。なんというか……過保護な親みたいな感じでさ、心配してるみたいで……」
 あははと笑いながら事情を説明しつつ、ほんの少し、ヤマちゃんに対しての罪悪感にずきっと胸を痛める。
 もしかしたらもしかしなくても、嫌な気持ちにさせたかもしれないのだ。
 ついさっき……教室にいた時に、気持ちを知ったというのに。
「梨乃」
 ヤマちゃんが名前を呼ぶとゆっくりと近づき、じっと見つめられる。
 でもそれは睨んでいるようには全然見えなくて、怖がったり不安になったりという気持ちが生まれることはなかった。
「私、別に怒ったりしてないから。ちょっと複雑だけど、二人が仲いいの知ってるし……友達だし」
「うん」
 ぽつりぽつりと話す言葉は、まるでわたしが抱いた罪悪感に似ていた。
 気を遣っているのはわたしだけではなくて、目の前で話す彼女もそうなんだろう。
「でもやっぱ、普通の顔はできないから……その、ごめん。私のことは気にしなくていいから」
「大丈夫。気遣ってくれてありがとう」
 にっこりと笑いながら、正しいかどうかも分からない対応をこなしていく。
「ヤマちゃんが珍しく素直! 梨乃っちの可愛さにときめいてデレデレなのか~~~~んん~~~~?」
「うるさいわね。黙りなさいよ」
「も~~~照れちゃって! 可愛いんだからっ」
「ウザい」
 一連のやり取りを見守っていたアイちゃんはぎゅっとヤマちゃんに抱きつき、気まずさを引きずる暇もなく次のシーンは訪れた。
「もう! 二人とも~。みんなお店入っちゃってるよ~~行こうよ~」
「おう! 行きましょう! 唄うぜ~超唄うぜ~」
 こうしてやり取りを見守っていると、三人の良さを改めて思い知らされる。
 一見ウザそうに見えても、一見怖そうに見えても、一見ただおっとりしてそうに見えても。三人はしっかりしていて、思いやっていて、その場の空気をよく読んでいる。
 何だかそれが羨ましくて、本当にわたしもあの輪の中に馴染んでいけたらいいのにな……なんて気持ちがじわじわと広がっていった。



 店内に入ると、受付を済ませた伊藤くんを先頭にこの店で一番広いパーティールームに入った。家族で行ったのも数回程度だったが、こんなに広い部屋に入ったこともなく、わたしはただ驚くだけだった。
 部屋に入るとそれぞれ適当に荷物を置いて、自分の場所を確保し始める。
「ヤマちゃんは梨乃ちゃんの隣に座ったら?」
「そうそう。積もる話もあるだろうしね~~~いろんな意味で」
 と勧められたかと思ったら、わたしとヤマちゃんが隣同士に座る形となり、アイちゃんとミナちゃんがわたしたちの正面に座る。
 ……ちなみに和泉くんは、男子の集団に混ざっていた。
 席が決まるとそれぞれドリンクバーで飲み物を調達、昼食がまだのため注文もしながら、落ち着いた頃にようやく伊藤くんが乾杯の音頭を取った。

「今日は集まってくれてありがとなー! とりあえず明日から夏休みだけど、一足先に楽しもうぜー! かんぱーい!」
「かんぱーい!」

 グラスを高く上げたクラスメートたちは、それを近くのグラスとぶつけ合い、人によっては全員と乾杯しようと室内をぐるぐる歩き回っていた。
 こんなに大勢の人間に囲まれて、こんなに楽しい雰囲気の一部に自分がいることが不思議だ。
「席移動とかは各自適当にやっちゃってね。当たり前だけど、人の嫌がることは禁止ってことで。部屋の外で騒いで迷惑かけないように」
 ノリはいいが、こういう当然のことにもきちんと気を配れるメンバーというのは居心地がいい。
 カラオケは三時間で、リモコンが順番に回される。無理やり唄わせることはなく、入れたい人間が一曲ずつ入れていく感じだ。もちろん、入れなければノリが悪いと文句を言われることもない。
 予約いっぱいに曲が入る頃には、リモコンも一周しているようだった。……わたしを含めて入れていない人もいるが、何人かとグループになって唄う人もいるから、二十人いても一周できたらしい。
 曲が入ればそれは順番に流れていき、楽しそうに唄っていく姿が目に焼き付けられる。
 家族では味わえないような盛り上がりや熱気。中には、部屋が広いことをいいことに踊り出す者もいる。こんな光景を今まで見たことのないわたしは、やっぱりまだ夢を見ているような気分だった。

「ねえ、梨乃」
 隣に座っていたヤマちゃんが声をかけてきたのは、始まって三十分経った頃。頼んだチャーハンが届いて食べようとした時だった。
「どうしたの?」
 騒がしい室内では若干声が聴きとりづらいため、自然と距離を縮めていく。
 ヤマちゃんは少し気まずそうにしていて、なんとなく話題を感じ取ることができた。
「あのさ……梨乃は、好きな人とか……いないの?」
 だけど、その予想は少し外れてしまう。
 わたしはてっきり、和泉くんの話題だと思い込んでいたからだ。
「えっ!?」
 思わず大きな声が飛び出したが、カラオケの音でそんなわたしの声に気づく者はいない。
 問題は、問われた内容についてだ。
 わたしの中で先日起こった一連の出来事が頭の中を過ぎり、だんだん混乱の渦にのまれる。
「いや、あの、その」
 ちゃんとここで話せば、ヤマちゃんの中で多少の安心感が生まれるはずだ。それを分かっていても、あの日の出来事が言語能力を全て奪ったかのような状態に陥っていく。
「大丈夫。口うるさいアイやミナには言わないし……も、もし被ってても……怒ったりしないから。友達をやめることも絶対しない」
 そう言ったヤマちゃんが一瞬、ふわりと笑ったように見えた。
 暗めの室内ではそれをはっきり把握することができなかったけれど、わたしが落ち着くには十分の表情だった。
 話してもいいや。
 そんな気持ちが自然と生まれ始めた頃、ようやくわたしは口を開く。
「わたしは……その、別の学年の人が好きで……」
 なんとか話し出すことができて、本当に心からの安心を得たような気がした。そして一度話し始めてしまえば、言葉は拙くても、無言よりはマシだと思える。
 もうこの際、香澄先輩や榊くんにも言えなかったことを話そう。
 心の中でそんな決意を抱きながら、続きを話し続ける。

「わたし、ずっと分からなかったの。異性に優しくされて、ドキッとすることがたくさんあって、どれが恋なんだろうって。本当はね、和泉くんのことも……もしかして好きになっちゃったのかなって思ったんだけど……やっぱり違うなって」
 ずっと心の中で考え続けた、わたしの恋のこと。
 何が本当で、何が偽物なのか分からなかった。区別がつかなかった。今だって自信がない。
 ……でもやっと感じるものが、確信できることが起こったのだ。
 ただ優しくされて、ただわたしを救っただけでは得られない感情。
 感謝と尊敬、友達としての好意は芽生えても……死んでしまうかと錯覚するかのようなあのドキドキは……きっと、『あの人』にしか抱いたことがないのではないか?

 それは、初めて恋を意識したあの日、うっかり始まってしまったんだ。


「そっか。梨乃も頑張ってるんだ」
 話を終えて感想を述べられると、少し恥ずかしいという気持ちを抱く。でも受け止めてくれたことを嬉しく思った。頑張っているという言葉が嬉しかったのだ。
 ヤマちゃんの表情もやわらかくて、その表情を見ているだけで恥ずかしさも吹き飛んでいく気がする。
「じゃあきっと、私は大丈夫……だと思う。梨乃のこと応援できるし、嫉妬しても……梨乃が頑張ってること思い出すから」
 それ以上に、わたしが誰かを安心させられたことが嬉しかった。
「ありがとう」
「何言ってんの。こっちがありがとうだよ」
 安心しきった声に、思わず笑みを零した。
 ああ、ちゃんと話せてよかった。『何でもない』とごまかしたら得られなかった温かさに浸れたことを、心の底から嬉しく思っている。

 話のキリがよくなって辺りを見渡してみると、今はちょうど和泉くんと伊藤くんが楽しげに唄っている姿が見えた。
「ねえ……ヤマちゃんは、和泉くんと何かあったりした?」
 唄っている二人に目線を向けたまま、わたしはぽつりと尋ねた。
「……和泉に何か聞いたの?」
 予想に反して落ち着いたまま、ヤマちゃんも淡々と返答する。
「うん……」
 次の言葉は悩んだ末、ただ相槌を打つだけに留めた。内容が内容なだけに、わたしが勝手に話してもいいことか悩んだ結果である。既に首を突っ込んでいるとはいえ、変にわたしがかき乱していいようなことではないことくらい、わたしがよく理解しているつもりだ。
 ただ願うのは、少しだけ不謹慎かもしれないけれど……二人の間に何かあってほしいということだけ。

「私、昔和泉に酷いこと言っちゃった。だから本当は、好きでいても意味ないの」
 ヤマちゃんの声はやっぱり淡々としていた。でも発した言葉は、さっき和泉くんに言われた言葉を連想させられる。
 詳しく話を聞くとこうだ。

+++

 中一の時、ヤマちゃんは同じクラスの和泉くんを好きになった。
 中二の時、また二人は同じクラスになった。だけど和泉くんのお人よしが増長したのはこの頃で、男子も女子も平等に優しく接していた。わたしにしてくれたように、孤立した子に話しかけたり、いじめがあればさりげなく助けたり。
 ヤマちゃんはそれに嫉妬してしまったようで、たまたま二人きりになった時に言ってしまったのだ。
「もう偽善はやめなよ。関わったすべてに責任が持てるの?」
 そうしたら和泉くんは、
「山口に止める権利とかあんの?」
 と反論してしまった。そこからは酷い言い争いが続き、二人はそれ以来、まともに話せていないという。
 中三と高一では別のクラスだったらしい。

+++

「謝るタイミングも、告白することも……できなくなっちゃった。あの時は自分だけを見てほしいって独占欲が強くてさ。言い争いっていうのも今思えばすっごくくだらなかったりして、子どもっぽかったって反省してるのに……先に進めない」
 自身を嘲笑うように力なく笑うヤマちゃんを、わたしはどこか寂しそうだと感じる。
 騒がしいカラオケの室内で、どうして二人だけは切ない空気に包まれているのだろう。
 何度か今自分がいる場所を思い出すのに、暫くすると別世界にいるような感覚があった。
「って、こんなとこで何話してるんだか。ごめん」
 ヤマちゃんも別世界に飛んでしまったことに気付いたのか、さっきまでの自分をごまかすように謝った。わたしもこれ以上、なんと言っていいのか分からず、ただ首を横に振ることしかできない。

「梨乃はカラオケ平気な人?」
 ようやく今の状況にあった話題を振られて、気まずさに浸っていたわたしは思わず笑ってしまった。
「平気な人、かな」
「そう。じゃあなんか一緒に唄お。なんかとびっきり明るいやつ。アイ、ミナもなんか唄おー。せっかくマイク四本の部屋だし」
 一気に現実に引き戻される感覚を味わいながらも、この時のわたしはそれもいいな、なんて思ってしまった。
 本当は何か、いいアドバイスができたらよかったのに。
 でもきっとヤマちゃんは、何か有益な言葉を求めているわけではないことを何となく理解している。
 ただ苦しく抱き続けた本心を、少しでも吐き出したかっただけ……そんな風に感じたのだ。わたしの妄想であることは分かっていても、そう思ってしまう気持ちは止められない。

「おうっ! このヤマちゃんさん、ノリノリである!」
「わーい! 何にする?」
「おどるポンポコリン」
「ぷっ!! ヤ、ヤマちゃん……やっぱ超ノリノリだね!」
 流れるように二人だけの世界は四人になり、静かで切なかった雰囲気は跡形もなく消え去った。眩しくて明るい、いつもの雰囲気で満たされていく。
「おーい! リモコンプリーズねー!」
「マイクもお願いしまーす!」
 そうしてわたしたち四人は、歌のうまさとか関係なくバカ騒ぎをするように熱唱し、更に場を盛り上げたのだった。
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