図書室の住人

33.世界の色が変わった日

 テストが終わり、クラスメートと遊ぶ約束をし、すべての答案が返却される頃。
 夏休みの宿題を続々と受け取りながらも、あと三日に迫った夏休みに生徒たちは浮かれていた。
 クラスで遊ぶ件は、三十人中二十人が集まるという大所帯でのイベントとなり、カラオケとボーリングへ行くと今回企画した伊藤くんが教えてくれて、ますますクラスでは浮かれた雰囲気が充満していく。
 わたしも例に漏れず浮かれていて、あっという間に過ぎ去る午前授業を終え、早い放課後の廊下を歩いていた。
 今日は図書室で読書をすると決めていて、先週末に借りた本を手に目的地に向かっている。
 部活動に励む者も多かったが、早々に帰宅する者も多い。廊下には人気がなく、すれ違う人間も片手で数えるほどだった。

 図書室がある通りまで辿り着き、自分の足音が響き渡りそうなほどに静かな廊下には、今のところわたししかいない。だけど少し前進すると、図書室の前に誰かがいることが分かった。
 二人いて、男女であることが制服の違いで把握できる。そして、男の方が見慣れた人物であることが分かった。
 香澄先輩は今日は用事で来ないので香澄先輩ではなく、クラスメートというわけでもない。
 それ以外で心当たりというならば、一人しかいないだろう。……と考えなくても、榊くんであることはすぐに分かった。背の高い身長、茶髪のくせっ毛に黒縁眼鏡が何よりの証拠だ。
 こうして女の子と話す姿を見かけるのは三度目になるが、今までと違うのは女の子集団ではなく、一対一で話しているところだった。
 クラスでは人気者を演じる彼は、見た目がいいこともあってモテるのだと前回見かけた時に理解している。もやもやが脳内を充満し始めてくるが、なんとか振り払おうと首をふるふると大きく振った。
 話が盛り上がっているのか、まだわたしの存在には気付かれていない。
 少し歩くペースを落として、気付かれるまでわたしも声をかけないでいようと決めた。
 どうしてそんなことをしようと思ったか……理由は分からない。


 近づくにつれ、榊くんの表情がはっきりとしてきた。そして、その表情にドキッとしたのと同時に胸が痛む。
 いつもの赤い頬がない。
 でも優しくてあたたかい微笑みがあって、いつも戸惑いがちの彼にしては楽しそうだった。前に女の子に囲まれていた時とも違う。
 だけどそれ以上に、自分自身が抱く感情に驚いた。
 どうして少しでも、嫌だなんて思えただろう。何でこんなにももやもやするのだろう。
 歩いていた足が急に動かなくなり、わたしの心は乱されていく。

 ……やめて。

 心の奥でどうしてそんなことが言えるのか。
 榊くんの自由を奪う権利なんて、わたしにはないのに……。


「あれ……先輩?」
 ぼんやりとしているうちに、少し離れた場所にいた榊くんと目が合った。それと同時に女の子が振り返る。
 少女マンガから出てきたような美男美女という表現が似合うようなツーショットで、女の子は酷く驚いた顔を見せている。
 わたしの胸はぎしぎしと軋み、痛みがじわじわと広がっていくようだ。
「あ、この子は」
「お邪魔しましたっ!」
 榊くんが何か言いかけたのに、わたしは耐え切れずに走り出した。
 もやもやとした感情が順調にわたしを包み込んでいく。前にもこうして女の子と話しているところなんて、前にも見たはずなのに……。
 考えれば考えるほど、息苦しくなっていく。
 走っているからかもしれないと思いたかったけれど、多分、それだけじゃない。
「立花先輩!」
 背後から叫び声が聞こえて、わたしはちらりと後ろを振り返った。その先には榊くんがいて、驚くほど必死な表情が見える。
「っ!!」
 わたしなんて放っておけばいいのに……。それに、一緒にいた女の子はどうしたのだろう。
「先輩!」
 追いかけられると余計に走る足は止まらなくて、だけどもう既に息が上がり始めている。
 榊くんの気配はすぐ傍まで来ていて、完全に追いつかれているようだ。確か運動は得意だと言っていて、完全にインドアのわたしには分が悪い。

「先、輩!」
「うわっ!」
「っ!!」


 勢いよく腕を掴まれ、そのままぐいっと引き寄せられると、疲労で足がふらふらのわたしはバランスを崩して榊くんの方へ倒れ込んだ。それに驚いたのか、わたしの体重が重たかったのか……榊くんもバランスを崩し、尻持ちをつくような形になる。
 至近距離から聞こえる心音は、わたしのものとは違う初めての音。
 まるでわたしが押し倒しているかのような状態だと気付いたのは、この時だった。
「ご! ごごごごごめん!!」
 榊くんが驚いた表情を浮かべ、わたしはとんでもないことをしてしまったのだと慌てて立ち上がろうとする。
 でも、その身体は一瞬動いた後に動かなくなった。
「待って」
 原因を探るために視線を動かせば、手首をしっかりと掴み、恥ずかしそうに引き留める榊くんと目が合う。その視線にドキッとして、力づくで立ち上がることさえやめてしまった。
「何で、逃げたんですか?」
 真っ赤な顔をした榊くんの問いは、わたしの言葉を詰まらせるにはたやすいものだった。答えが分からないわけではないけれど、それをそのまま伝えることは今のわたしには難しい。
「それは……」
 榊くんの真っ直ぐな瞳がすべてを見透かしているような気がして、思わず目を逸らす。逸らした先には、初めて触れる榊くんの手の温度を意識させ、更にわたしを混乱させるのだった。
「さっきの、オレの友達の彼女だったんです。その子もクラスメートなんですけど……友達を待ってたんで、ちょっと話してました。それだけです」
 そんなわたしに構うことなく、榊くんは事情を説明していく。
 混乱しているから理解できるかと不安だったけれど、すぐに勘違いだったと気付いて恥ずかしさが侵食していった。
「ご、ごめん……なんかびっくりして……」
「何でびっくりしたんですか?」
「…………」
 でも、榊くんは止まらない。逆に答えづらい質問が容赦なくぶつけられる度、わたしは止まる。
 無言で見つめ合う状態となり、それが近距離であることや互いの体温を意識させていく。そして余計に言葉が出てこなくなった。
 誰もいないとはいえ、ここは廊下だ。床に座り込む榊くんと、その上に倒れ込んだわたし。誰かが通りかかれば、何をやっているのだと怪訝な顔をされるのは確実だろう。
「と、とりあえず立とう? ね?」
 なんとか冷静を取り繕い、ある程度離れたらちゃんと言い訳を考えよう。そんなことを考えながら、手首を掴む榊くんの手に触れ、もう一度立ち上がろうと試みた。

「……嫌です」

 だけど、二度目も失敗した。
「えっ……」
 駄々をこねる子どものようにそう言った榊くんは、さっきよりも強い力でわたしを引き寄せる。顔は見えなくなり、目の前は真っ白になった。
 榊くんのワイシャツだけが視界いっぱいに広がっている。
「!?!?!?」
 声にならない叫びが漏れ出すけれど、それが現状をどうにかしてくれるわけではない。
 大きくて速く響く心音が、緊張感を煽ってくる。わたしまでドキドキしてくる。
「先輩は、どこまで振り回せば気が済むんですか」
 いつもよりも低く、震えた声だった。腰に触れる手も同じように震えていて、ますます状況が理解できない。

 今まで、こんなことがあっただろうか?
 どうしてこんなことになってしまったんだろうか?
 わたし自身が狂ったから、世界も狂い始めたというのだろうか?


 わたしはどうして……今のこの状況を、少しも嫌とは思わないんだろうか。



「こらっ」
 その時、第三者がこのおかしな世界に介入してきた。
 聞いたことのない可愛らしい声に、わたしの思考もストップする。
「いてっ」
 榊くんの小さな声が漏れると、一向に解放されなかったわたしはあっという間に自由の身となった。
「こんな学校の廊下で……堂々と何やってるの……」
「うっ……月宮……さん」
 その声の主に視線を向ければ、さっき榊くんと話していた女の子が、少し怒ったような呆れているような表情で見つめている。
「これは、その」
「榊くんってそういう人だったんだ……」
「いや誤解だって」
「あの……大丈夫、ですか?」
 暫くやり取りした後、女の子はわたしに手を差し伸べ、ゆっくりと立たせてくれた。
「あ、ありがとう……」
「いえ……それより、大丈夫ですか? 変なこと、されませんでしたか?」
「それは……」
 初対面のわたしにかなり心配してくれて、ほんの少し嬉しいのと同時に戸惑う。
 さっきの状況は完全におかしかった。
 むしろ、逃げ出したわたしが一番おかしくて、それがすべての元凶だったのだと思う。
「あの……私がややこしくしちゃいましたか? ごめんなさい……」
 だけど女の子はしょんぼりとした様子で謝罪し、小さく頭を下げる。
「えっ! 全然悪くないよ! むしろわたしが急に逃げちゃったから……ごめんなさい」
 女の子に非なんてまったくない。
 一人慌てながらわたしも謝罪すると、まるでさっきまでの出来事が夢や幻のように思えてきた。
「私は、えっと……その、か、彼氏を……待っていて。榊くんとはただのクラスメートなだけなので……ちょっと話していて、それだけなんです」
 うん、そうだ。さっきの出来事はきっと夢だったんだ。いつも一緒にいた大事な友達。わたしのことをいつも気遣ってくれて、わたしはただ友達を取られたと勘違いして嫉妬して逃げてしまって。

「謝らないでいいよ。わたしと榊くんは友達で……恋人とかそういうのではないし」
 出来るだけ笑みを浮かべながら、わたしは申し訳なさそうな顔をしたままの美少女に声をかけた。
 自分で言いながら、心がぎしぎしと痛む。
 一瞬だけ視線を榊くんへ向けると、切なそうに顔を歪める様が見えた。それがまた、わたしの心に突き刺さる。
「気遣わせてしまって本当にごめんなさい。わたしは大丈夫だから」
「そう……ですか」
 まだ未練を残すような声色が聞こえるけれど、もう謝罪を受け取る気はない。なんとか笑顔でこの場をやり過ごし、目の前の美少女を笑顔にしたかった。

「月宮さん、柊から今どこにいるか知ってるかってメール着てたよ」
「えっ」
 暫く黙り込んでいた榊くんが携帯を女の子に見せると、申し訳なさそうな表情は慌てた表情へと色を変える。
「オレも大丈夫だから、行ってやって」
 最後に背中を押すような言葉をかけると、女の子はこくりと頷いた。
「うん……じゃあ」
 わたしにぺこりと丁寧に頭を下げると、慌ててその場を去っていく。そんなに顔色を変えて慌てるほどに、大事な人がいたんだ。
 なのに、安易にわたしは勘違いをして、もやもやとしてしまっていた。


 そして、あんなことに―――


「先輩」
 二人だけになったことを確認した後、榊くんは静かにわたしを呼ぶ。返事は視線だけにし、目が合った状態で続きを話し始めた。
 そこにはいつもの榊くんがいて、さっきのおかしな榊くんの存在が嘘のようだった。
「さっきは、すみませんでした。全部忘れてください」
 へらっと力なく笑うその表情は、今まで見たどんな表情よりも寂しくて、胸が痛い。
「でも」
「絶対……忘れてください。もう、あんなことは絶対にしません……だから」
 狂った世界を夢だと思い込もうとしたはずなのに、わたしは榊くんが一つ一つ喋る言葉に、どんどん苦しめられていく。
 あんなに近くにいて、触れ合うくらいの距離が……今は酷く遠い距離のように感じる。


 そしてわたしの世界は、すっかり色を変えてしまった。
 わたしは完全に、目覚めてしまった。
 今まで勘違いしてきたはずの想いを、今わたしが抱いているのだと、そう、確信した。




「今日のことは、胸の奥にしまって……そのまま、忘れてください」


 忘れられたら、わたしは日常に戻れたんだろうか?
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