図書室の住人

27.ねぇ、教えてよ

 放課後までの時間は長いようであっという間だった。
 朝の出来事から引きずることはそれほどなく、緊張感や一瞬だけ抱いたトキメキは気づけば自分の意識から外れてしまう。
 あれから和泉くん以外で誰かと話ができたかと言われれば……特になかった。特にキッカケがなかったことともう一つ……自分から行動する勇気が出なかった……それが一番の大きな原因だったように思う。
 しかし今はそれどころではない。
 勿論『それどころ』で済ませられる件でないことは分かっている。分かっているのだけど、物事には優先順位というものがあるものだ。
 そしてそれは現在最優先事項として、今日中に片づけておきたい問題だった。


 ホームルームが終わって真っ先に向かったのは、人を呼び出すに相応しい中庭だった。
 今朝の誤解を解くためにやってきたわたしは、誰もいないことを確認するとゆっくりとベンチに腰掛ける。
 待ち人である榊くんが来る気配は未だなく、ボーっと頭上に広がる空を見上げた。
 香澄先輩には『もしかしたら図書室へは行けないかもしれません』とメールを送ってある。返信では『下校時間まで図書室にいるから暇があったらおいで』と返ってきた。
 一仕事終えたように少しだけホッとしながら、わたしは小さく溜息を零す。
 本の一冊でも読みながら待てばよかったのだけど、何と言うか考えることで精一杯だった。
「どうしよう……」
 まだ何がどうなったか、なんてわたしには確実なことは言えない。
 和泉くんとの関係を勘違いされたというのも一説に過ぎず、実際は別件かもしれない。それでも『関係を勘違いされた』件について話すことを前提して、あれこれと伝えるべきことを考える。
『彼はただのクラスメートで、ちょっとクラスの中で仲がいいだけの存在であって、恋愛的には何でもない人なんだよ』
 ただそれだけを伝えればいい。それが嘘偽りのない真実で、やましいことなんて何もない。なのに、わたしは未だに悩んでいた。
 ……香澄先輩の件も、これをいい機会に話してしまおう……と。

 何だかんだで、榊くんに伝えそびれてしまっていた。わたしは香澄先輩のことを、恋愛的に好きなわけではない、と。初めてできた友達に浮かれて、新しい世界の扉を開いたドキドキを別のことと勘違いしてしまったんだ、と。
 結局ずるずると引きずってしまって、いい加減に落ち着きたいと思っていた。
 今日と前に抱かせてしまった誤解を全て解いてスッキリして、明日からわたしは、クラスメートと向き合いたい……そう思う。
「言えるかな……」
 思わず呟いた言葉に、自信などまるでないように感じた。何だか情けなくて、苦笑が自然と零れる。
 ボーっと眺める空は穏やかで、あんな穏やかに話せたらどれだけいいだろう。
 全て事実なのだ。嘘をつく後ろめたさもないのに、不安に感じることなんてないだろう。自分の中ではちゃんと分かっているはずなのに、どうしても不安は拭えなかった。
 ああ、そういえば……昨日せっかく榊くんからもらったヘアピンを付けていたというのに、いろんな出来事が重なって見せることができなかったっけ。
 ふと思い出したことに、今日そのヘアピンを付けてこなかったことを後悔した。
 ああ、いろいろとうまくいかないことが多いな……。
 それがわたしの不安に繋がっていると思ったら、さっきまで抱いていた不安に合点がいった気がする。

「立花、先輩」
 ぽつりと、静寂に包まれた中庭に声が響く。
 見上げていた視線を元の高さまで下ろし、そこからゆっくりと声の主を探した。探索の時間には数秒を要するのみで、すぐに目が合い認識しあう。視線がぶつかった瞬間に彼の頬は真っ赤に染まり、気まずそうな表情のままそっと視線を外した。
「お、遅くなって……すみません」
「ううん。こっちこそ急にごめんね、呼び出して」
 昼休みに急にメールを送りつけて呼び出したのはわたしの方だから、彼が遅くなろうがなんだろうがわたしに非があることに変わりない。
 これ以上は謝罪合戦になると思ったので、謝らせないようにと彼に近づいた。
「今朝のことを、ちゃんと言いたくて」
 榊くんの正面に立ち、向き合う形で話し始める。事実を述べるだけなのに心音はうるさくて、頭の中がおかしくなってしまいそうだった。しかし、冷静さを失ってしまえば全てがダメになってしまう。僅かに残る冷静な自分を見失わないように、ぎゅっと拳に力を込めた。
 まだ俯き加減の榊くんとは目が合わなくなってしまったけれど、わたしは気にせず話を続けていく。
「あのね。朝、榊くんに避けられたような気がして……そのことで、もしかして誤解されちゃったからなのかなって、そう……思って。あの、朝一緒にいたのはクラスメートで、その、特別に何かがあるってわけでは……」
 そこまで口にして、何で誤解を解こうと思ったんだろう? という疑問にぶつかった。
 香澄先輩はともかく、和泉くんに関しては特に言う必要はなかったんじゃないだろうか。せめて先に、榊くんがどうして朝避けたのかを聞いてからでも遅くはなかったんじゃないか。
「先輩?」
 不自然なところで話が中断してしまったことで、不思議に感じた榊くんが口を開く。
 ああ、もっとスマートに事を運びたかったのに。
 冷静な自分を失ったら終わりだとついさっき思っていたけれど、不安を意識したその時点で冷静な自分など存在しなかったのだ。
 全部上手くいくなんて、あまりにも夢物語過ぎて変な笑いが込み上げてきそうになる。
 だけどもう、ここまで来てしまったら、後戻りなんてできるはずもなかった。
「あの、先輩。すみませんでした」
 言葉を失ったまま立ち尽くすわたしを気遣うように、榊くんは深々と頭を下げる。謝罪合戦が再開したのかと驚いた。
 榊くんが顔を上げ、ほんの少しぶりに目が合うと、今度はわたしの方が視線を逸らした。……今のわたしは、すっかり言葉を失ってしまっていたのだ。
「オレ、すっげー失礼なこと言うと……先輩がオレや香澄先輩以外の誰かと一緒にいるところを見たことがなくて……。他にも親しい人間がいるんだって、何故か分からないんですけど、驚いてしまって……。それで先輩を無視しました。本当にすみません」
 とてつもなく失礼なことを言い出したな、と最初の印象で思ったくせに、次に自分自身のことを思い出して取り消した。
 申し訳なさそうな表情を前面に押し出す榊くんが、嘘をついているようには見えない。
 つまり……勘違いをしていると勘違いしていた、というのだろうか?
「あ……あ! そ、そうなんだ! そうだったんだ! へ、へぇ!」
 急激に熱が上昇し、脳内はパニックに陥った。恥ずかしい展開も想定していたとはいえ、実際に想定通りになるとどうしていいのか分からなくなる。
「先輩」
「ちょ、ちょっと失礼だよーそれー! わわわたしにだって、仲いい人くらいいるよー!」
 自分でも何を言っているのか分からず、ただひたすら榊くんが口を開くことを拒むように喋り続けた。それがドツボにはまっているかもしれないと分かっていても、自分を止めることはできずにいる。
「先輩」
「朝たまたま会ったの! そう! たまたま会ってね、それで」
「先輩」
 何度目かの呼びかけで、ようやくわたしは黙り込んだ。一瞬見えた彼の瞳が、何だかとても寂しそうに見えたから。しかしそれはほんの一瞬に過ぎなくて、次に見た時にはその瞳はすっかり消え去ってしまっていた。
 ……わたしの周りの人間は、ほんと、どうして表情を隠すのがうまいんだ。
 そんなことを一人でぼんやり考えながら、榊くんの顔をじっと見つめる。
 いつもならすぐに根負けするはずの榊くんは、未だにわたしの顔をじっと見つめていた。
「さっき言ったことは、オレの気持ちの半分に過ぎません」
 ぽつりと言った言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「何を言って……」
 無意識のうちに疑問はそのまま飛び出して、それは迷うことなく彼の元へと届く。
 次に何を言われるかも想定できず、今のわたしには自分のうるさい心音に耳を傾けることしかできない。
「先輩が言いたかったことも、理由の一つにあるってことです」
 そこまで口にして、ようやく榊くんはわたしから視線を逸らした。
 そして、間を空けることもなく、次の言葉が飛び出してくる。

「オレ、先輩が香澄先輩のこと好きなんだって、勘違いしてたのかなって……。そう思ったら、何か頭が真っ白になってしまいました」

 わたしを見ることもなく、へらっと力のない笑みを浮かべながら、何と表現していいのか分からない声色でそう言った。
 寂しそうな、残念そうな、少なくともいい方向でないことだけは分かる。
 しかし何故彼がそう落ち込んでしまうのかが、わたしにはいまいち理解できない。
「えっと……香澄先輩のことは、恋愛的に好きじゃないよ。それは勘違い」
 今ならこの話も切り出せると、絶好のチャンスと受け取ってわたしは言う。
「えっ!? えっと……じゃあ、やっぱり朝の人が」
「だから、わたしは誰にも恋してないんだって」
 ……朝の僅かな時間で、恋をして失恋したけれど。
 それだって、恋なのかどうかさえもよく分かっていない。ただ、どうしても榊くんは恋愛思考に陥ることが多くて、恋愛以外の可能性を考えていないように感じた。
 それは今までにもどこかで感じたことのある感情だ。
「そうだよ。わたしはろくに友達も作っていなかった本の虫だよ。だから正直学校で誰かと親しくすること自体、わたしにとっては珍しくて驚かれるような光景なの。そんなわたしが恋愛なんて、友情も分からないわたしにはまだ早いの」
 話し出せばすらすらと言葉が流れるように溢れ出し、声にすれば何だか寂しいことに思える。もっと早く、誰かと過ごすことの大切さに気づいていればよかった。周りの優しさに気づけばよかった。
 何度も後悔して、何度も無駄な時間を繰り返してきた。だから、何も分かっていない。わたしは何も分かっていない……。
「……すみません」
 小さくぽつりと、しょんぼりした様子で榊くんは言った。まだまだ言い争うつもりでいたわたしは拍子抜けし、ぽかんと言葉を失ったまま立ち尽くす。
 もしかしたら言い方がきつかったのだろうか? そう思ったら少しだけ冷静さが舞い戻ってきた。
「いや、わたしも……ごめん」
 言い争いで熱くなっていた空気は一気に落ち着き、ただただ気まずい雰囲気が漂う。俯きながら次の言葉を必死に考え始めるものの、何も思い浮かばず動けない。
 ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。
 朝見られてしまったから? 香澄先輩のことを勘違いされたから? そもそも何で勘違いされたんだっけ……?
「どうして、勘違いしてるの……?」
 今日のわたしは間抜けみたいに思ったことが口に出ていく。またしても無意識のうちに呟いた言葉は、かちりとパズルのピースがはまったような気がした。
 言葉は榊くんにも届いていたようで、顔を上げた時にばちっと視線がぶつかり合う。
「何で榊くんは、わたしが香澄先輩のことを好きだって思ったの?」
 そして、いつだったか問いかけた質問をもう一度持ち出した。その時の答えはよく覚えている。それでもわたしは問いかけた。問いかけなければいけないと、直感的に感じたからだ。
「えっと……何で、急にそんなこと……」
 当然榊くんは戸惑い、おろおろと視線を泳がせる。
「それ、前にも言いませんでしたっけ?」
「言ったよ。でもあの時は、わたしが思い込んで舞い上がっていたから」
 質問に即答し、それから再び自分から質問を投げかけた。
「わたしが香澄先輩を好きかもしれないって思ったのは、榊くんが最初に言ったからだよ。香澄先輩の家で、初めてそう言われて、意識したからなんだよ。だからあの時、何であんなことを言ったのか……教えてよ」
 とんでもなく人のせいにしたような言い方だ。
 思わず心の中で苦笑しながら、質問に対しての回答を待つ。
 だけどその答えが分からない限りは、この勘違いの連鎖は止まらないように思えた。
「ねぇ、教えて」
 もう一度、念を押すようにそう言った。
 榊くんは未だに言葉を失ったまま、真っ赤な顔でおどおどと落ち着かない様子を見せる。
「それは、その」
 それから暫くの間、静寂な雰囲気に包まれた。
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