恋とはどんなものかしら

 恋する人間というのを、ちゃんとこの目で見るのは初めてだった。
 今までにも誰が誰を好きだとか、噂や人づてでそういう話はいくらでも聞いたことがある。
 みんなどこかで恋をしてるんだって分かってはいた……けれど、全部僕にとっては御伽噺みたいなものだった。
 他人事で、現実味がなくて。多分自分自身に恋愛経験がないせいだろう……とは思う。

 だから今、友人である田中大智が空港の頭上に広がる夕暮れの空を一生懸命見つめ、時折目をこすっている……そんな光景を見て、御伽噺じゃないんだと知った。
 僕にとっては仲間で、だけど彼にとっては特別な存在の彼女が飛行機で飛び立ってしまったあの空を、もう何度も別の飛行機が飛んでいるというのに、彼は食い入るように見つめたまま離れようとしない。
 大智は懸命に恋をしている。
 それが彼の背中からひしひしと伝わり、声をかけるタイミングを失ったまま目の前に広がる光景を見つめることしか出来なかった。
 ……このキラキラした光景を、壊したくなかったのかもしれない。
「大智」
 飛行機が飛び立って静寂が戻ってきたのを見計らって、僕は一度名前を呼ぶ。
 もう少しそっとしておきたかったけれど、時間が待ってくれないことは分かっている。
 時間切れであることはこの空が教えてくれていて、僕は躊躇いがちに名前を呼んだのだ。
 この後何を話すかは考えていなかったが、きっと考えても無駄なのが分かりきっているので流れに任せることにした。
 名前を呼んだ後、少し間が空く。
 慌てて目をこすっている様子がちょっとおかしくて、大智がこちらを向くまでにほんの少し笑った。
「な、なんだよ……」
 不機嫌そうな声は、震えそうな声をごまかすようだった。
 ようやくこちら側を向いた大智は目を赤くしていて、いつまた泣き出してもおかしくない雰囲気を醸し出している。
「そろそろ帰ろうって。みんな待ってるよ」
 泣いてたことに気付かない振りをしながら、僕だけはいつも通りを装った。
「……そ、それは……悪かった」
 みんなの存在を思い出したように慌てる大智は、酷く気まずそうな顔をしていた。
 この後みんなと顔を合わせるのは気が進まないのかもしれない。
「じゃあ行こう!」
 大智の腕を掴んで、引きずるように歩き出した。
 できるだけ元気な自分を装って、辛いことから目を逸らして。
 誰しもいつか幸せになることだけを夢見て……。


「……なんでこんなに辛いんだろうな」
 なのに、空気を読まずにぽつりと唐突に大智が呟いた。
 気付けば僕も大智も立ち止まってしまっていて、思わず掴んだ腕を解いてしまう。
 僕は大智の問いかけの意味を何となくしか理解できず、黙って聞くことしかできなかった。
 どういう意味か逆に問いかけたかったけれど、大智の顔を見て躊躇われる。
 大智が小さく息を吐くのが分かり、続きを話すんだと直感的に把握する。
 そして目が合った時、大智はぽつりぽつりと自分の気持ちを吐き出し始めた。
「別れが辛いってのは分かってるんだ。でも、今まで経験したどの別れよりも……今が一番辛くて苦しい」
 一つ呼吸をおくと、儚げに微笑みながら空を仰ぐ。
「バドミントンの大会で負けた時より泣くって……どんだけだよ、まったく」
 一度溢れた言葉は、一度溢れた涙みたいに止まることを知らないみたいだ。
 大智は気にすることなく話を続け、僕もただそれに耳を傾けるだけ。
「沖田の前では強がって、いなくなったら女々しく別れを引きずって……カッコ悪いな。沖田に負けないように頑張って……泣いたりしないって、思ってたのにな」
 儚い決意は目の前の悲しみには敵わない。大智がそれを教えてくれているような気がした。
 僕はどうしても、大智ほどの悲しみは湧いてこない。
 紗羽はきっと夢のために頑張り続けて、いつかまた僕らと再会するんだろう。
 そんな希望だけで、僕は勝手に安心していた。
 でも大智は……きっとそれだけじゃ足りない。
「もっと早くに気付いてたらとか、素直になってたらとか。無駄だって分かってるのに、どうしても後悔しちまう」
 言葉にすると余計に現実なんだと意識してしまった。
 大智の瞳が次第に潤んでいくように見えて、不自然にならないようにそっと目を逸らす。

「大智は、本当に紗羽のことが好きなんだね」
 思わず飛び出した言葉に自分でも驚きながら、でも一生懸命彼女を想う大智を見てしまったらそう言わずにいられなかった。
 きっと剥きになったり怒られたりするかもしれない。
 ああ、それで少しでも気が紛れるなら……。
 いろんなことを考えながら、僕は泣きそうな大智の返事を待つしかない。

 だけど、今日の大智はいつもと違っていた。
 それは嫌でも理解していたことのはずなのに、彼の反応で僕までもが泣きたくなる。


「ああ、好きだよ」


 穏やかに笑いながら、静かに涙をこぼす大智。
 もしかしたら泣いていることさえ気付いていないかもしれない……そう思えるほどに自然と涙は流れていき、大智は切なさに埋もれていた。
 それからもう一度、大智は空を仰ぐ。
 まるで涙を隠すように、もう涙が溢れてこないように。
 つられるように僕も空を仰いだ。
 夕焼けはだんだん夜に浸食されていくように、オレンジ色には藍色が混じり始めていた。
 僕にはいつも見る空が映るけれど、多分大智には違う色が見えるに違いない。
 またしても静寂が訪れ、帰らなければならないことさえも忘れてしまいそうになるくらいに、僕自身も切なさに溺れていく。


「青春ってやつだね」
「……うっせ」
「でも、こんなに想われてる紗羽は幸せ者なんだろうね」
「…………だといいけどよ」
 完全に溺れぬように、時折軽口をたたきながら、僕はただただ立ち尽くすことしかできなかった。


 いつか恋をしてみたい。
 僕自身がどうなってしまうのか、世界はどんな色に染まるのか、この目で確かめたい。
 それはきっと、大智とはまた違う色と形をしていることだろう。
 どんなに素敵で、どんなに絶望的なんだろう。
 いいことづくしではない。
 分かっているのに……好奇心は抑えられない。







 大智は何度も目をこすり、僕は普段と変わらぬ空を見つめる。
 そして僕らは、時間を忘れてまた飛び立っていく飛行機を見送った。