サミシイフタリ

 いつか、そういう日が訪れることは分かっているつもりだった。
 自分たちと彼女たちには大きな壁があって、ちょっとずつ打ち解けたけれど、一生共存できるかどうかと問われると、答えられないのは明白だった。
 だから、そういう日が来ても仕方がないことで、ちっぽけな人間様にできることなど限られていた。
 どんなに願っても、お互いが望んでも、叶わないことは絶対に存在する。逆にすべて叶う方が嘘っぽいのかもしれない。

『小林さん。短い間でしたが……本当にありがとうございました』

 きっといつまでも、死ぬまで、死んだ後も多分、忘れないだろう。
 彼女たちのこと。一緒に暮らしたこと。最後に見せた笑顔が美しかったことも……。
 みんなみんな、忘れない。

 絶対にだ。


***


 春になると、出会いもあれば別れもある。
 出会いは毎年のように入ってくる新入社員のこと。ただただ彼らには、よく職場になることを祈るばかりだ。小林としても、よい社員が入ってきてくれると嬉しいと思う。
 そして別れ。これは正直、小林や友人の滝谷にはダメージが大きかった気がしている。

 そう。同居していたドラゴンたちが、それぞれ自分がいるべき場所へと帰ってしまったのだ。

 突然、ひょんなことで始まった非日常だった。
 それがいつしか日常になりかけたところで、突然さよならをすることになってしまっても、実際のところ「まあそんなもんだよね」と自然に受け入れてもおかしくなかったように思う。
 だけど、小林の心はいつまでもぽっかりと穴が空いたままだった。
 どうしてだろう。
 わざとらしく、茶番のように、小林は自問自答を繰り返す。
 分かり切った答えは間違いなく正解なのに、未だそれを受け入れられずにいる。


 一応、時間は小林たちを待ってくれないので、いつも通りに会社に行き、仕事をし、終電で帰る生活を送っていた。毎日のように終電まで仕事をしているのは、家にあまりいたくないせいかもしれない。
 あの時はちょうどよかった部屋の広さは、今の小林には広すぎた。
 その広さが、小林の意識を今はいない彼女たちに向けてしまうみたいで、くたくたになるまで働いてしまう。


「小林さーん」
 手持ちの仕事がひと段落つき、うーんと腕を伸ばしている時だった。
 背後から名前を呼ばれて振り向くと、愛想良く微笑む同僚であり友人の滝谷が立っている。
「あー滝谷君。おつかれー」
「お疲れ様ー。その様子だと、修羅場は越えた感じ?」
「うんー。とりあえずはね」
「最近遅くまで頑張ってたもんね、小林さん」
「……まあ、ね」
 他愛ない世間話をしながら、小林は苦笑を浮かべる。
 正直に言うと、頑張っていたというよりも、変なことを考えないように必死だっただけだ。
 言うほど悪いことはしていないはずなのに、何故だか後ろめたさが込み上げてくる。
「今日さ、久しぶりに飲みに行かない? いろいろ話もしたいし」
 ごちゃごちゃと考え事をしていると、滝谷はいつもの調子で小林を誘う。
「どうしようかな」
 思わず声が出ても、滝谷はニコニコと言葉の続きを待っていた。
 小林は定時で帰っても問題ないのだが、酔った勢いでよからぬことを言ってしまいそうで……少し躊躇してしまう。
「行こっかな」
 しかし、滝谷の顔を見ているうちに、あっさりと決意は固まってしまった。
「うん、じゃあ定時ダッシュでよろしくー」
 滝谷はそれだけを言い残し、自分の席へと戻っていく。
「気を遣わせたかな」
 小林だけが残されたところで、ぽつりと小さく呟いた。
 多分、滝谷には何でもお見通しなのかもしれない。
「あれ? 小林さん、何かいいことありました?」
「え? そんなことないよ」
 突然隣の席の同僚にそう言われ、小林は表ではなんてことないと言いつつも、裏では少しだけ動揺してしまっていた。

 無意識のうちに、小林の表情が穏やかになっていたことは、まだ本人も知らない。


***


 定時ぴったりに片付けをちゃちゃっと済ませ、タイムシートをつけて会社を出て行く。
 小林と滝谷は会社の入り口で落ち合い、馴染みの飲み屋へと向かっていた。
 目的地までは仕事の愚痴や新入社員の話で盛り上がり、四人掛けのテーブルに通され、ビールが手元に来るまでそれは続いた。
「おつかれー!」
 グラス同士をぶつけ、二人はぐいぐいと飲み干していく。
「やっぱ仕事の後のビールは最高だねー」
「そうだねー」
 あっという間に一杯目を飲み終え、早々に二杯目を注文。ついでにつまみもいくつか注文した。
 お通しとして出された枝豆をちまちまと食べながら、きっと本題であるだろう話題を滝谷が持ちかける。

「小林さん、大丈夫? 最近」
 あまりにも聞きなれない穏やかな声に、小林はドキッとした。
 好きなものを語る時の興奮した時とも、仕事で気遣ってもらった時とも、ドラゴンたちに優しく話しかけていた時とも全然違う。何と表現していいのか分からない声なのに、何故か心臓の鼓動が速くうるさくなった気がした。
 声というより、振られた話題がよくなかっただけだ。そうだ。
 小林はそうやって自分に言い聞かせ、滝谷のペースに乗せられないようにと気を引き締める。
「大丈夫って……大丈夫だよ。仕事も修羅場終わったし」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、何?」
「僕が言ってもいいの?」
 だけど、滝谷というちょっとしたモンスターを攻略できる自信が、今の小林にはなかった。
 右から狙おうと思ったら跳ね返され、直球に決めてもあっさりと返される。
 お互いに譲らない中、二杯目のビールがやってきて、一緒に運ばれたキャベツをバリバリと食べながら、負けるわけにはいかないと滝谷に挑み続けた。


***


「あ〜〜〜〜も〜〜〜寂しいよ〜〜〜家に誰もいないの〜〜〜」
 だが、あっさりと小林は敗北した。
 ビール四杯、ハイボールに日本酒、滝谷と二人で飲み比べているうちに、冷静さも飲み干してしまっていた。
 比較的まだ落ち着いた雰囲気の滝谷に対し、全力で本音を漏らしながら涙を流す小林は、完全に敗北したと言って差し支えないだろう。そもそも、勝ちだの負けだの、気にする余裕すらない。
「わかるよ。僕もファフくんが帰ってしまって、一緒にゲームをやってくれる人がいなくなっちゃったからさ」
「家に帰ってもおいしいご飯ないし? 出迎えてくれる誰かもいないし? 可愛い娘のような癒しもいなくなっちゃったし? も〜〜〜やってられるかよーーーおかわりぃ」
「はいはい、これ飲んで」
「水じゃねーか! なめてんのか!?」
「日本酒だよ日本酒…………まあ水だけど」
「日本酒ならいいんだよー」
 きっと酔っぱらった後の記憶はなくなるんだよなぁ。
 滝谷は心のどこかでそう思いながら、新しくもらったおしぼりで小林の涙を拭う。
「寂しさを紛らわせるために、仕事頑張ってたの?」
「そーーーだよおおお文句あるぅ?」
「いや、気持ちは分かるからさ」
 水を豪快に飲む小林は、酔って正気を失っているにも関わらず、どこか哀愁漂う切ない表情を浮かべていた。
「ずるいよなぁドラゴン……。急に来ていろんなもの残してってさぁ……またいなくなっちゃうんだもんなぁ……」
 そしてまた、ぼろぼろと涙がこぼれていく。
 きっともしかしたら、ずっと我慢していたのかもしれない。
 小林自身も少しだけ今の状況がおかしいと感じながらも、溢れ出した想いを制御できずに身を任せた。
「そうだねぇ。ほんと勝手なドラゴン様だよ、まったく」
 滝谷も小林に同調し、もう一度おしぼりで小林の顔を拭く。
「ねぇ、滝谷君」
 その時、小林が不意に名前を呼んだ。
 酔っている時にしてはやけに静かな声だと滝谷は息を呑む。


「今日さ……滝谷君の家に行きたい」


 それから暫く、無言の空気が流れた。
 周りの騒がしい雰囲気だけは漂っているはずなのに、妙にこのテーブルだけが静かに感じる。
 滝谷は落ち着くために一度手元のビールを飲み、すっかり冷めてしまった焼き鳥の残りを平らげ、もう一度ビールを飲み、一息ついた。
「小林さん、飲み過ぎだよ」
 あまりにも小林の行き過ぎた冗談に、滝谷は笑って返事をした。
「冗談とかじゃないからぁ〜〜〜〜〜本気だから〜〜〜〜」
 だが、それをあっさりと否定される。
 小林は明らかに酔っぱらっているはずなのに、何故か強い意志を持って返事をしていた。
「滝谷君とだったらさぁ〜〜絶対楽しいじゃん〜〜。寂しいとかないじゃん。趣味も合うしさぁ……そりゃ、恋愛対象とか考えたことはなかったけどさぁ……」
 ぺらぺらとよく喋るなぁ。
 滝谷は現実逃避をしながらも、小林の言葉の本質について考えようとして……やめる。
 多分、思い付きで言ってるだけだ。期待するようなことは何もない。
 今までだってなかったのだ。きっと何もないのだろう。
「あぁー!? 滝谷君! もしかしてやらしいこと考えてる!? 言っとくけど! 相手この私だからね!? 私だから間違ったこと起こらないって思って滝谷君の家に行きたいとか言ってるんだからね!?」
「台詞がツンデレだよ、小林さん」
「ちっげーし! てか、滝谷君だって抱ける!? 私だよ!? 見た目男みたいな女だよ!? クソ巨乳ドラゴンとはわけが違うんだよ!?」
「落ち着いて小林さん」
「てか滝谷君の方がよく落ち着けるねぇ!?」
 次は何故か、滝谷の方が敗北感を味わっていた。
 自分が負けでも何でもいいから、この状況から解放されたいと思っている。
 しかし、花の金曜日。明日は会社も休みで、いくらでも酒を飲んでも許される……そんな解放感が背中を押すのか、いつまで経っても解散できる雰囲気ではない。
「やっぱ私のことなんて女として見れないんだ!」
「結局どう見られたいの」
「どうもこうもないの!」
 地獄のような状況の中、滝谷は店員を呼び止め、会計を依頼した。
「ああ!? まだ飲むって!」
「もうおしまい」
「ええええぇぇぇぇふざけんなよぉぉぉ」
 滝谷のネクタイを強く引っ張りながら、小林はいつもよりもやけに絡んでくる。
 今日の小林は、だいぶ情緒不安定な感じがした……気がする。
 心の中で滝谷は溜息をつくと、さっくり会計を済ませ、小林を担いで店を後にした。


***


 春と言っても夜はまだ寒く、ひんやりとした風が二人を包み込む。
 滝谷の背中でぐっすりと眠ってしまった小林は、起きる気配もなく、規則正しい寝息を立てていた。
「とりあえず小林さんちに行くかぁ……」
 居酒屋での最後の会話を一瞬思い出したものの、理性はしっかりと滝谷の中にあり、真っ直ぐと小林の家を目指す。
 幸い小林の家の場所を知っていたので、自分の家に連れて帰る心配もない。
 ただ、途中でタクシーを拾った方がよさそうだと、滝谷は自身の体力に限界を感じていたが……。


「今日のこと、正気の小林さんに話したら何て反応するだろう」
 何故か、心は飲む前よりも弾んでいた。
 こうして無防備な姿を見せるのは自分だけなのだろう。そう思うと、滝谷の心は満たされていくような感覚を覚える。そして、寂しいと思っているのは小林も一緒なのだと安心した。


 この先、また突然ドラゴンが現れるのかもしれないし、もう二度と姿を見せないのかもしれない。
 だから、会えないのが普通であると覚悟をもって生きねば、と滝谷は強く思う。


 そしていつか傷が癒えたら……二人が寂しさとかではなく、心から求めあえる日が来るならば……。
「それはどうだろうなぁ」
 まだまだ知らない未来が広がっている。
 滝谷はそれを痛いほど思い知らされながら、無意識に夜空を見上げたのだった。


 その夜空がやけに綺麗で、やっと滝谷からも涙がこぼれたのは……今はまだ誰も知らない。