図書室の住人

初恋と失恋

 この想いを恋と言うのなら、きっと何年も前から恋をしてたことになるなぁ。
 ぼんやりと考えながら、俺はこらえきれずに涙を流した。


***


 俺は一人っ子で、共働きの両親に育てられた。
 小さい頃はそれを寂しく思うこともあったが、気付いたら自分には姉のような存在が傍にいて、優しく迎えてくれる第二の両親がいた。
「ほーら、静人。新しい本買ってもらったから一緒に読も?」
 七歳年上のお姉さん……伊織ちゃんは、初めて会った日から頻繁に本を持って俺の前に現れていた。
 二歳の頃から伊織ちゃんの家に入り浸っていた俺は、いつも絵本を読み聞かせられ、文字の読み方を教わり、少しずつ自分でも読めるようになっていった。
「静人、もう読んだの? すごーい!」
 伊織ちゃんにほめられることが嬉しくてたくさん本を読んだし、
「どうしたの? 寂しいの? ……よーっし! こっちおいで、よしよし」
 両親が恋しくて泣いていると、ぎゅっと抱きしめて頭を撫でてくれた。
 小学校に上がると、伊織ちゃんはすれ違いで中学生になる。一緒に学校に通えないことは寂しかったけれど、部活に入らなかったこともあって、会える頻度は大して変わらなかった。
「いーい、静人。静人は元々優しい子だから心配してないけど、周りの子とは仲良くするんだよー。優しくしただけきっと自分にも返ってくるんだから」
 そんな夢見がちな理想を、話してくれていたような気がする。でも、世間知らずの俺は、それが正しいと疑わなかった。彼女を中心に回り続けるこの世界が大好きで、一生続いてくれたらいいのに、と祈ることも多かったように思う。
『一生』という、何の意味もない言葉に、たくさんの希望を詰め込みながら……その希望が叶う夢を、見続けながら。


***


 一生という幻想が砕け散ったのは、高校一年生の冬。
 伊織ちゃんにべったりだった幼少期から、年を重ねるにつれてだんだんと家に行く回数が減り続けていた。そのおかげで、小学校高学年からは伊織ちゃんに会うことも少なくなっていった。
 それにはいくつか理由がある。俺も友達と遊ぶことが楽しかったり、元々たくさんあった家の本を読むことに夢中になったり。あとは、伊織ちゃんが高校生になってしまったことも大きかった。
 中学では二年間生徒会に所属していたし、そのおかげで会わない日々の方が多くなっていた。そんな日々の中で、時々伊織ちゃんの存在を忘れることもあった。俺の世界にはいろいろなものや人で満たされていたから、それが楽しかったのだろう。
 もちろん、たまに会って一緒に本を読んだり、家族ぐるみで食事や旅行にも行った。
 お互いの生活も伊織ちゃんとのやり取りも、あの日までは俺にとって満足な日々だった。

 ……だからあの日の衝撃を、一生忘れないだろう。


「イエーイ! 静人。私、結婚することになったよ!」


 正直なところ、最初は何を言われたのか分からなかった。
 頭はいい方だったし、伊織ちゃんの声が小さくて聞こえなかったわけではない。
 ただ、自身が受け入れたくないと拒否していたせいだろう。理解したくないと目を瞑ったせいだろう。
 そもそも、彼氏がいるとか、好きな人がいるとか、そういった類の話を聞いたことがなかった。知らなかった。知る術を知らずにいた。


 いつも傍にいた、世界の中心。
 十六歳の冬、彼女は二十三歳。
 まだまだ子どもな俺と、どんどん階段を駆け上っていく大人な彼女。
 一生傍にいたいと願ったあの日を思い出した時、初めてこの世に『一生』が存在しないことを知った。ずきずきと感じる胸の痛みに気づいた。
『行かないで』
『嫌だ』
『ずっと傍にいてよ』
 ……そんな醜い感情を呑み込んで、笑うことを覚えた。


「そっか。幸せになってね」


 幸福を願う言葉が、こんなにも薄っぺらいだなんて絶望したことを、俺はきっと忘れない。
 涙をこらえて痛めた喉も、走馬灯のように流れていった伊織ちゃんと過ごした日々も、俺はきっと忘れない。
 それは多分、恋じゃないのかもしれない。
 初めて気づいた感情に名前を付けることに、抵抗があった。
 簡単に片づけてしまうには、ほんの少し躊躇いがあった。
 でも、それを恋と呼んだって、意味がないことを知っている。彼女との日々が一生続いてほしいと祈った時と同じくらい、無意味なものだと思うから。
 今まで生きてきて、俺は何度か告白されたことがある。その告白を断る時、脳裏にはいつも伊織ちゃんがいた。
 その意味を、ようやく俺は理解する。
「そっか……」
 伊織ちゃんが去った後、俺はぼんやりと考えていた。


 ……この想いを恋と言うのなら、きっと何年も前から恋をしてたことになるなぁ。


 そしてすぐ、俺はぽろぽろと涙を零した。
 何もできなかった、情けない結果に。
 伊織ちゃんが世界の中心だったあの日々が、もう二度と訪れないことに。
「好きだったんだなぁ……」
 それから俺の世界がひとつ終わってしまったことに、寂しさを抱いた。
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