図書室の住人

彼のはなし

 この世界は単純だ。
 声が大きく図々しい人間ほど強い立場に居座り、真面目で大人しく生きている人間ほど弱者に成り下がる。
 ほんの少し周りと違うことをしただけで、孤立しただけで、大人しいだけで、強者に目を付けられた瞬間、弱者の底辺に突き落されるのだ。
 大勢で群がらなければ生きていけないような人間たちが、寄って集って虐めてくるのは簡単だった。
 幼少期でもそんな世界の仕組みは成立し、オレ自身も標的にされた。
 今思えば、やられたこともくだらないことで、虐められたという内容も大したものではなかった。虐められた、なんて大げさな表現かもしれない。
 外でボールを投げつけられたり、唐突にバカだと叫ばれたり、仲間外れにされたり。
 だけどあの時、オレは小さいながらも人生に対して絶望を覚えたのだ。些細なことであると分かっていても、オレは確かに、この世界で生きることに対して一瞬でも苦痛を覚えたのだ。
 何故、ただ大人しくしていただけで。独りで過ごしていただけで。周りと少し違っただけで……自身がこんな辛い気持ちを味わう必要があるのだろう。
 じゃあ、もし周りと同じように愛想を振りまき、多数の友達に囲まれ、明るい人気者を演じることができたなら……オレは虐められることもなく、この世界で絶望することなく生きていけるというのか? たった、それだけで?
 まだ当時五歳のオレは、悲しいことに、そのようなことを幼いながらに考えていた。


 それからのオレは、姉に懇願し、どうすれば自分は虐められずに済むのかを相談した。
 すると、まずは見た目を改造される。
 とりあえず、伸びれば適当に切られていたような髪は、姉がどこからか拾ってきた有名な子役の画像を参考に変えられた。それだけで見た目はあっさりと変わる。
「見た目変えてちょっと明るく振る舞えば、それだけであっさり世界って変わるもんよ? あんたって別に見た目悪くないしね。イケメンって認識を植え付けることができれば、それだけで女の子はあんたの味方。明るくてとっつきやすい印象を与えることができれば、男の子だって虐めるようなバカなことはしないでしょ。あんたがクラスの中心に立つの。中心に立つだけで、誰もあんたを虐めるようなことはないわ」
 中学生の癖に妙に大人びた姉の言葉は、にわか信じられなかった。
 そんな単純な世界があってたまるか。ただ見た目を変えて、明るく演じるだけで全てが変わってたまるか。それは本当の自分を見てもらえていることにならない。
 それはもう、オレであってオレでない何かだ。
 そんな単純なことで世界が変わってしまうことを、オレは信じることも受け止めることもできなかった。八年長く生きているだけの姉の単純さに溜息をついたのは、内緒の話である。

 だが、次に幼稚園へ行った日から、世界は変わった。

「おはよう!」
 普段、挨拶なんて小声でしかしない。それどころか、最近は無視されることが多かった。最初は緊張で押しつぶされそうだったが、姉が助けてくれたことを思い出す。
 自分とは思えないような明るい挨拶とにっこりとした笑顔を浮かべた。その瞬間、みんなの視線が自分に集まってくる。うわぁ、これでダメだったら恥ずかしい。
 だけど、みんなの視線は前のような嫌悪を感じない。呆気に取られているような感じがする。……それも無理もない。
 ぼさぼさの長い髪をさっぱりさせ、適当に着ていた幼稚園の制服はきちんと着るようにした。キャラ物は姉にやめさせられた。ボーっとした表情は笑顔で満ち溢れ、普段見せつけることのなかった自身の容姿は……自分で言うのもなんだが、姉の指摘通りいい方だと思う。

 一人を好み、話しかけられてもパッとしなかったオレが友好的な顔を見せた瞬間、まずは女の子の態度が変わった。気味の悪い何かを見ているような視線は好意的なものに変わり、あっという間に囲まれてしまう形となってしまう。
 そうなってしまえば、面白くないのは男の方だ。虐めというものがヒートアップするものかと懸念していた。
 ……が、そんな予想もあっさりと覆ってしまう。
 元々一人で過ごすのに絵本を読むのが好都合だっただけで、身体を動かすことが嫌いでなかったオレは、積極的に外で遊ぶように心がけた。
 ボール遊びで強さを見せつけたり、かけっこで誰よりも速く走るなど、運動神経の良さをアピールしてみると、いつしか外で遊ぶ時はオレの取り合いになっていた。
 実は取っつきやすい人間だったという印象が植えつけられると、周りからも声をかけられることが多くなった。気付けばオレを虐める者はいなくなり、常に誰かに囲まれる自分が存在していた。そのスピードは、あまりにも速すぎた。

 あっという間に世界は変わってしまう。

 幼少期ということもあり、それほど粘着質な人間がいなかったことも幸いしたのかもしれない。
 だが、オレはそんな単純すぎる世界に、二度目の絶望を味わった。バカバカしすぎて、何だこれはと喜びと同時に悲しさも抱いた。
 多分周りは、本当のオレのことなど忘れてしまっている。
 明るく振る舞うオレも、一人を好みぱっとしないオレも、どちらもオレ自身に変わりない。だから本来どちらでも問題ない。
 しかし、素のオレは拒否され、違うキャラを演じたオレが受け入れられた。
 それは何だか、榊悠吾という人間に対してダメ出しを食らったようで……悔しかった。


 幼稚園児らしからぬ日々を生きていたと思う。
 八つ違いの姉の影響もあるのかもしれないが、たった五つのオレは……この時一度死んだ。


***


 それから中学を卒業するまで、オレは仮面をかぶり続けた。
 正直、学校生活が楽しかったかどうかもよく分からない。素を晒せる友達はいたので救われていたが、何だか味気ない日々を過ごしていたように思う。
 一度死んだあの日から、本当の自分はなんなのかと自問自答を繰り返す。
 見た目は暫く姉の言いなりで、着せ替え人形で遊ばれるがごとく服装を選ばされていた小学校時代もあったが、中学で制服に変わってからはそれも落ち着いた。しかし姉のおかげで、高校生の現在に至るまでオシャレ的なものには困らずに済んだ。
 中身もまた、教室という名の箱庭の中心を掻っ攫う。
 笑顔で明るい、運動神経が抜群……だけど勉強はバカ、という完璧とは言えない未完成な自分。でもそっちの方が取っつきやすいと、慕ってくれる人間は多かった。
 女子に告白されることも多かったが、どうしても素の自分を思い出すと怖くて、恋愛なんかしてる場合じゃないって断った。断り術も、姉にもらったアドバイスで穏便に済ませることができたと思う。
 誰の告白も受けないことから、徐々に告白される回数も減っていった。

 年を取るにつれて、単純だった人間には知恵がついてくる。少しでもへまをすれば終わりだ。勘が鋭い人間なら、オレの本質にもすぐに気付かれそうな気がする。だから学校では必死に装い続けてきた。

 しかし、何のために生きているのだろう。
 自身の方向性を考え始めたのが……中学三年生、高校受験を控えた年だった。
「悠吾さ……大丈夫?」
 一年前、すっかり大人になった二十三歳の姉が、そう尋ねてきたことをよく覚えている。
 ちょうど自身についてぐるぐると悩んでいたあの頃。
「なにが?」
 よく分からないままそう返事をすると、姉は少し暗い顔で話し始めた。
「いや……ずっと無理して生きてないかなぁって。それは私も原因だと思うからさ。いろいろと」
「はぁ? 急に何言ってんだ? 気持ち悪い」
「は? 何それ……もういい、知らん!」
 だが、オレは姉の懺悔など聞きたくなくて、はぐらかした。
 いつも通り喧嘩を吹っかけて、わざと怒らせて、これ以上何も言われないように耳を塞ぐ。
 姉が言おうとしていたことには想像がついていた。そうなった原因と言われれば、姉はまさに元凶と言えるかもしれない。物騒なことを言えば、姉に殺されたのかもしれない。
 しかし、あの時姉がいなければ、オレはいつまでも虐められ続けていたかもしれない……そう思うと、救われたとも言える。仮面をかぶることになってしまったけれど、明るく振る舞うことについて慣れてしまい、理不尽な想いはしなくなった。
 仮面に慣れてしまったおかげで、オレは新しい環境でも苦労はしなかった。
 それを幸せなことだと、思い込むことにした。
「卑屈だなぁ、オレも」
 自嘲気味に呟くと、何だか胸の奥が痛んだ。


***


 高校デビュー的なものを計画しようと試みたが、残念な知能のおかげで、元々希望していた高校は受験で落ちてしまった。
 知り合いの誰もいない、やり直しができるはずの未来。
 しかしそこは偏差値も高く、おそらく入学できたとしても勉強に追いつけないのがオチだろう。
「おっはよ~榊」
「高校も同じだね! よろしく~」
「おう、よろしく」
 へらっと愛想笑いを浮かべながら、通りすがりに声をかけてきた中学時代の知り合いに挨拶する。結局、中学時代のほとんどが入学した公立高校に入学する羽目になってしまった。高校デビューなんて、幻だったのだ……。
「おっす、榊。同じクラス、よろしくな」
 だが、絶望ばかりではない。
「おう、柊。こっちこそよろしく」
 中学時代の友達である柊恭平は、素を曝け出すことができる唯一の人物である。素を曝け出すというか、気を張らずに接することができるといえばいいのか。別に、積極的に本音を打ち明けるわけではない。けれど、必要であれば繕わずに話すことができる貴重な存在だった。……まあ、柊も割と頼って来るからお互い様なのだが。


***


 ここから少し話が飛ぶが、オレは図書委員になった。
 何故かと言われると、図書委員というのは放課後、図書当番なるものがあるらしい。図書室を開き、カウンターで貸し出しの手続きをしたり、本の整理をしたり。それは決まった曜日に当番で入るとのことだった。
 オレのクラスでは、活発的な部活入部を希望している者が多く、珍しくその枠が残っていた。実は今までにも図書委員というポジションは狙っていたのだが、毎回何故か取り合いになり、戦争に負けていた。
「オレ……やります」
「おお! 榊ついに!」
「やったじゃーん!」
「でもなんで図書委員?」
「なんかやってみたいんだって。知的に見えるからとか?」
 何度か同じクラスになったことのある生徒が、ついに図書委員になれたオレを祝福してくれる。なりたかった理由を勝手に話しているヤツもいるが、オレはそれに答えることもなく、適当に笑って礼を述べていた。
 図書委員をやりたい理由?
 放課後、一人になりたいからに決まっている。


 普通、放課後なんてさっさと家に帰ってしまえばいい。
 だが、この人気者を演じているオレが、すぐに帰れるような身分ではなかった。
 変に付き合いが悪ければ、あっという間にオレなんて用済み。昔に逆戻りだろう。特にやりたかった部活もなく、あまりにも面倒くさい感じの委員はやりたくない。あとバカだから頭を使うようなものもダメだ。これで放課後、「悪い、今日は委員があるから」と言い訳できる。
「あ……大丈夫かな」
 しかし、よくよく考えたら……何故図書委員に拘っていたのだろう、と考える。手に入れた瞬間、満足してしまうあれだ。思えば、図書委員じゃなくてもいいんじゃないだろうか。読書も全くしない、冴えないオレなんかに勤まるのだろうか。



 だがその不安は、あっさりと砕け散った。
 まず一つ目は、結構仕事が簡単であること。そして二つ目は、図書室の人気のなさだった。
 他の委員の分まで当番を引き受けたおかげで、ほぼ毎日のように図書室に入り浸っているが、人がほとんど来ない。
「ふわぁぁ……」
 思わず漏れる欠伸も、今は誰も見ていないだろう。
 現在の利用者は、男子生徒一人と女子生徒一人。
 返却の手続きをした時に、名前とクラスは確認できた。二年生の立花梨乃、三年生の香澄静人。この二人は顔をよく知っていて、オレが当番の時はかなり頻繁に見かけた。見かけない日を思い出す方が難しいくらいだ。
 主にこの二人が図書室の利用者で、後は週に一、二回他の生徒が来るか来ないかくらい。あとは、他の図書当番くらいだろう。
 何だか自分が二人の邪魔な気がして、オレはある程度したら準備室へ引っ込むようにしている。

 そう。放課後の日常は、こんな風に成り立っていた。
 二人が読書をしている間に、オレはカウンターや準備室でだらだらとしている。勿論、本の整理や新刊を並べる準備など、やれる作業があればやっている。しかし、そう頻繁に行われるものではない。まして、この生徒の利用率を見れば……。

「おーい。ちょっといい?」
 いつものようにカウンターでだらだらしながら、そろそろ準備室へ引きこもろうとした時、突然男子生徒に声をかけられた。
「あ、えっと……」
 利用率ナンバーワンと言っても過言ではない、男子生徒……香澄静人がそこにいて、オレは慌てて起き上がる。一応上級生だし、だらしないところを見せ続けるわけにもいかない。
「結構当番に入ってる一年生だよね。最近よく見るなぁって思ってたんだ」
 ここでは香澄先輩と勝手に呼ぶが、先輩は物怖じもせず、突然オレにそう話しかけた。
「え、あ……そうですけど」
 戸惑いがちに返事をする。予想外の出来事に、オレの思考はついていけなかった。決してバカだからではない。不意打ちを食らえば、誰だって混乱するものだ。
「ああ、急にごめんね。びっくりするよね」
 先輩ときちんと話すのはこれが初めてだが、見た目と同じく優しい口調で、柔らかい雰囲気を醸し出していた。周りが子どもっぽい生徒が多いせいかもしれないが、大人っぽく感じる。
「どうか、しましたか?」
 やっぱり、いつもだらだらしているのが目障りだと怒られるのだろうか。どんな反応をすればいいのか分からず、戸惑いながらもいつものように愛想笑いを浮かべる。
「あ、いいよ。無理して笑わなくても」
 しかし、オレの行為はすぐに制止させられた。
「え……?」
「俺にもそういうとこあるから。猫かぶってる? 的な?」
 目の前の先輩は、容赦なく自分が隠し通してきた事実を、先輩自身一緒にも暴露していく。すべてを見透かされているようで、少しだけ話すのが怖かった。
 だけど、今更好きにしてもいいと言われても、逆に困る。
「あー……でも、もうこれが普通になっちゃってるんで……」
「あ、そっか。じゃあ、やりやすい感じで」
 深く事情は話さなかったものの、なんとなく察してくれたようだ。先輩はこれ以上、オレの内面に踏み込むことはなく、別の話題を提供する。
「暇ならさ、本読まない?」
 それもまた、突拍子もない話だった。だけどその誘いはどこか先輩らしいと、妙に納得というか、さっきよりもホッとするような感じがする。
「いつもさ、退屈そうだなぁと思って。他の当番の子は、結構本を読んだり、宿題をしたりしてるんだけどさ。君はそうじゃないから」
 ……痛いところを突かれてしまった。
 確かにオレは、ただ逃げるためにここに来た。
 頭の回転が悪いせいで、自分にはこれしかないのだと決めつけてしまったせいで。
「だからね、もしよければ読んでみない? もちろん、一冊読んでダメなら君には合わなかったってことで」
 それから差し出された本を、オレは反射的に受け取ってしまった。
 表紙はカラフルで、タイトルは英語で読めない。でも、帯には『自分を取り戻す冒険の旅が始まる!』と書いてあり、少しそそられるものを感じる。
「本当はさ、自分で読みたい本を探す方がいいって思うんだけどね。勧められすぎて逆に読みたくなる時とか、そういう似たようなことって結構あったりするし」
 先輩が苦笑しながら話す。もしかしたら経験があるのかもしれない。オレにだって、似たようなことを経験したことがある。姉に『これすっごいいいよ!』と何かで言われたことがあるけれど、素直に受け止められなくて二度と手を出さないと意地になったりとか。ちょっと違うか?
「でも、それさえ踏み出せない時もあるよね。で、君は今、暇を持て余している。なら、どうかな? と思ったんだ」
 先輩の言葉を、オレは半ば呆気に取られながら聞いていた。
 オレのために何故こんなに気を遣ってくれるのだろう。それを聞いても、きっとこの人のことだ。短期間、図書室でしか会わないから、こうとしか考えられない。
 本当に、本が好きなんだ……。

「これ、しばらく借りてもいいですか?」
 本を受け取ったままのオレは、気付けばそう答えていた。
 本を読むなんて久しぶりで、いつ読み終わるかもわからない。
 でも、なんとなくこれを読めば、一歩前に進めるような気がした。
 話の面白さはこの際関係ない。オレ……榊悠吾のほんの一部でも変えられるような……今起こっているこのイベントは、きっと重要なものに違いない……そう、信じて。
「よかった。返すのはいつでもいいから。俺の私物だし」
「は、はいっ」
 笑顔で去っていく先輩を見送りながら、表紙に目を落としてゆっくり開く。

 この日から準備室に行く回数は減り、オレの読書生活が、あの人との接触と衝撃が……この先の人生に待ち構えていることを、この時のオレには知る由もなかった。
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