図書室の住人

01:イレギュラーな放課後

 放課後はいつも図書室にいた。
 本を読むのが大好きで、どんなジャンルの本でも読み耽るのが日課だった。
 図書室が開いていない時は本屋で買った本を読んだり、本屋に行って本を探しに行ったり。休日は家で読書、あるいは市内の図書館にまで足を運んだり……わたし、立花(たちばな)梨乃(りの)という女子高生は、いわゆる本の虫であった。
 それは小さい頃からずっと続いていることなので、今更どうにかしようとは思わない。本の虫である張本人が楽しんでいるのだから、別にいいかと思っていた。常に読書をしているせいで友達もろくにいないけれど、かといってクラスメートと険悪ではない。特定の親しい人間がいないだけで、必要とあれば普通に接する。わたしは別に人付き合いが嫌いなわけではないのだ。
 一人でいればそれを標的にする妙な集団もいるけれど、何事も動じずに堂々としていれば大したことはない。別に根っこは暗いわけではなく、一人で行動していること以外で突っかかる要素もない……はずだ。
 だからわたしの学校生活は、今のところとても平和であった。
 そんなわたしでも、いつも放課後を共にする人物がいた。
 ……と言っても、一つ学年が上の先輩で特別親しいわけじゃない。ちなみに学年の情報は上靴の色ですぐに分かった。
「あ、こんにちは」
 にっこりと笑う、爽やかな好青年……という表現が似合うのか。
 華やかで学園一の人気を誇る、みたいな漫画によく出てくるイケメンとは違うけれど、それでも顔立ちは整っていて、優しさが前面に押し出されている先輩はこっそりと影でモテるタイプのように思う。
 自分みたいな人間が接する機会なんてないだろうと思っていたのに、案外関わる機会なんて存在するものだ。約束して落ち合っているわけではないけれど、図書室に行けば必ず会えた。先輩だから、きっとわたしが高校に入る前からここにいたんだろう。確かわたしが一年の時もいたような気がする。

 ―――所謂、図書室の住人だった。

「こ、こんにちは……」
 挨拶をする程度まで発展した関係に、その先で期待するような展開など存在しない。挨拶を返せばにっこりと笑顔を浮かべてくれるけれど、それ以上何かがあるわけではないのだ。
 それは、お互いこの後読書が待っているからであり、会話をする暇があるなら一ページ・一文字でも文字を読みたいからである。元々静かな図書室で会話をすることも躊躇ってしまうし、何を話していいのかも分からない。
 そして……実はまだ、名前も知らないのだ。

 いつも座っている窓際の席に荷物を置き、目的の本棚へと向かう。最近読んでいるのは推理小説が主で、シリーズ物の三冊目に当たる。目的の本を手にすると、席に着いて本を開いた。
 そこからはひたすらに読書のみに徹する。
 知り合いもいない場所では声をかけられることもないから、図書室が閉館になるまでは読み続けるのみ。今日もその日課に変化が訪れることはなく、柔らかな日差しと静寂な空間の中で、じっくりゆっくりと本を読んでいた。
 心地よい世界に浸るのはとても幸福なことで、それは今日も同じように訪れる。
 下校のチャイムが鳴るまで、それは続くものだった。今日も例外はなく、それは現在進行形……のはずだった。

 小説も中盤を過ぎた辺りで、わたしの世界に変化が訪れる。ふと、静寂だった自分の世界に一つの物音が聞こえた……それが全ての始まり。
 顔を上げると、いつもは離れて本を読んでいるはずの先輩が目の前に座っていた。今まで挨拶はしても、それ以降の接点はまるでなかった。同じ空間で本を読んで、自分の世界に浸って楽しむ……ただそれだけのはず。読書をする席もお互い定位置を決めて、関わることもなかった……はず。
 それなのに今日は特別だった。
「あの……何か?」
 恐る恐る、気になって声をかけた。先輩は無言でわたしの目の前の席に座っていて、それで気にならないわけがない。唐突に訪れた、図書室に通い続けて一番のイレギュラーな事態に、冷静に対処できるほどわたしも出来た人間ではなかった。幸い言葉を絞り出すことができたので、なんとか先に進めそうだけど。
「図書室に行くといつもいるから、一度話がしたくて」
 そして、それほど待たぬ間に返って来た言葉に、目を丸くする羽目になる。先輩ははにかみながら、少しだけ頬を赤く染めてそう言った。その表情が……言葉は不適切かもしれないけれど、酷く可愛らしくて……わたしまでも頬を赤く染める羽目になる。照れは確実に伝染していた。
「あ、その、えっと……」
 こんなことは初めてで、一瞬物語の世界に引き込まれたような錯覚に陥る。恋愛小説などでは、こんなこと日常茶飯事だから。
 驚きと戸惑いに頭は真っ白になり、どうしたらいいのか分からなくなっていく。
「ああ……突然じゃ驚くよね、ごめん」
 完全に今の自分が分かりやすかったらしく、驚きと戸惑いは表に出ているようだった。申し訳なさそうにする先輩に、わたしも同じく申し訳なく思う。
「いえ、その……まさか話かけられるとは思わなかったので……びっくりして……別に、嫌とかじゃないんです。ほんとに」
 見苦しい言い訳みたいだと思う。でも、先輩と話すことが嫌でないことだけは伝えたくて、脳内がフリーズ状態の中、必死で言葉をかき集めて繋ぎ合わせた。
 きっとバカみたいな言葉で、もしかしたら不適切かもしれない。だけどわたしは、ただ嬉しかっただけなのだ。
「そっか。迷惑かと思って声をかけたことを後悔しそうになってたけど……よかった」
 ほっと安堵し、また笑顔に戻っていく。
 先輩の笑顔でわたしも同じように安堵すると、そっと読みかけの小説にしおりを挟んで静かに閉じた。

 それからはひたすらに話をした。
 本来図書室は静かにすべき場所だけど、今日はたまたまわたしと先輩と、準備室に引っ込んでしまったやる気のないサボり魔の図書委員のみで、お互いに小さめの声で話していたせいか気にもならなかった。
 ここでようやく、先輩の名前が『かすみしずと』という名前であることを知った。漢字で書くと『香澄静人』だと丁寧に教えてもらった。
 名乗ってもらって自分が名乗らないのも失礼だったので、『立花梨乃』と自分の名前を名乗る。
 名乗った後は呼び方について話し始めるのだけど、そこは『香澄先輩』『立花さん』で落ち着いた。
 その後はずっと読書の話だ。むしろそれがメインだったのだろう。
 お互いどういう本を読むのか、どういうジャンルの本が好きか、気が合えばその本のどういうところが好きとか、とある本についての解釈についてなど、様々な話で盛り上がっていく。自分と同等に本を読む人間が周りにいない世界を生きていたために、香澄先輩の話は興味深く、話していてとても楽しくて充実していた。
 知らない本のタイトルを聞くだけでワクワクするし、同じ本が好きなら嬉しくて幸せな気持ちになれる。図書室にいるおかげで、気になる本が出たら実際に本を持ち出して話をしていく。
 誰かと会話をして、近年一番楽しい時間を過ごしているのは明らかだった。
 先輩の話し方はとても優しくて柔らかで、全てを受け止めてくれるような錯覚に陥っていく。だけど完全に受身というわけではなく、先輩もしっかりと自分の想いを語ってくれていたから嬉しかった。
 自分だけの世界だと好きなものばかりで埋まってしまい、偏りがわたしの世界を狭くしていたせいで、先輩と会話することで世界が広くなったように思う。

 この幸せで充実した時間が永遠に続いて欲しいと願っていたことに気付いたのは……下校のチャイムが鳴った時だった。
「もう下校か……。ごめんね、読書の時間がなくなっちゃって」
 申し訳なさそうに苦笑する先輩に、わたしも釣られて苦笑した。
「いえ、楽しかったので話が出来てよかったです」
「そっか。俺も楽しかったよ」
 苦笑から眩しい笑顔に変わった時、わたしの心はじんわりと温かくなっていた。
 時折訪れる『会話をしていて先輩は楽しいのだろうか』という不安も無駄なくらいに、先輩も楽しんでくれていたようで嬉しかった。
「帰ろうか。どこまで一緒か分からないけど、せめて校門までは」
 立ち上がった先輩が、微笑みながらわたしに誘いを持ちかけてくれる。断る理由がないわたしは、頷いて承諾した。

 やる気のないサボり魔図書委員は、どうやら準備室で寝ていたようだ。
 見てすぐに分かるほどに寝起きの様子で準備室から出てきた。図書委員くんは図書室の戸締りの確認を始めると、わたしと先輩も身支度を始めた。
 だるそうに図書室から出て行く図書委員くんの後を追いかけ、初めて二人並んで廊下を歩く。
 男の人と並んで歩く機会なんて滅多にないせいなのか、先輩が第一印象通り素敵な人間であるせいなのか……わたしは自分の心臓の音に驚いていた。
 落ち着かないわたしがゆっくりと後ろを振り返ると、ばっちりと図書委員くんと目が合った。だけどすぐに向こうから目をそらされ、わたしたちと反対方向に歩いていくのが見える。
「どうかした?」
 ボケッとしているところで声をかけられ、動揺は更に増していった。
「い、いえ……何も」
 別に図書委員くんのことが気になったわけではなく、今の状況に動揺してきょろきょろと不審な行動を取っていただけなので……正直それほど気にすることではない。
「俺はさ、商店街通ってずっと真っ直ぐ行った先の住宅街に住んでるんだ。立花さんは?」
 わたしの不審さにそこまで食いつかなかった先輩にホッとしながら、先輩との限られた時間を楽しむことに専念する。
「あ、わたしもその辺りだと思います……公園の傍に建ってる一戸建てで……」
「へえ、あの辺りか。結構近所かも。そっかー」
 意外と家が近所であることがまた親近感を増す流れとなり、まだ会話できるのだと知れば嬉しさに浸る。
 こんなに一気に感情が溢れてくるのは初めてで、戸惑いと意外と心地よい事実に気付いた時、妙な感覚に陥っていた。
 嬉しくて、幸せで。だけど自分に似合わないようなシチュエーションに戸惑って、驚いて、申し訳なくなる。


 わたしは世界の全てを知らない。
 だけどわたしが生きる世界は、人間関係は、環境は、何年も続いた現状を維持し続けるものだろうと信じて疑わなかった。
 家族がいて、本がいて、学校に通って、本を読んで。
 それだけでよかったはずだった。
 現状維持、読書メインの生活を維持し続けることがわたしの望みだから……。

 だからこそ、今の状況は不可思議この上ない。
 学校を後にしてもなお、香澄先輩とわたしは並んで歩いていた。
 帰る方向が同じと分かればそうなるのが自然と分かっていても、やっぱり慣れない状況には緊張する。
「この辺だとあんまり品揃えのいい本屋がないのが辛いところだよね。隣の駅だと結構大きな本屋があるから……」
 先輩は楽しそうに話をしてくれて、嬉しい反面本当に不思議に思う。
 わたしにとって、家族以外の人間関係を築き上げることは読書の二の次だったからだ。
 だって本は、毎日何冊も世に送り出されている。
 わたしがどんなに頑張って読み続けたとしても、その読んだ本というのは世の中にある本の一部に過ぎない。きっとわたしの人生の全てを読書に捧げたとしても、この世の全ての本を読み尽くすことが不可能であることくらい分かっていた。
 分かっていても、読書の魅力にとりつかれたわたしには止める術を知ることはない。

 わたしはまだ、諦めていなかったのだ。
 ――そうじゃないと……わたしは何かを犠牲にしてまで読書を続けない。
「そうだ、今度」
「先輩」
 せっかく先輩が話をしてくれていたのに、わたしはそれを遮るように声をかけてしまった。話を止められてしまった先輩は驚いたような表情を浮かべる。その表情を見て、少しずつ後悔が押し寄せてきた。明らかに失礼な行為を行ってしまったことに対して不快感を抱かせてしまったのではないかと、不安も一緒に押し寄せてくる。
 ぼんやりと歩き続け、先輩の様子に気付けなかった自身の愚かさゆえの過ちだった。
「どうしたの?」
 だけど先輩は、驚いた顔を一瞬にして優しい顔に変えて、わたしに尋ねてくれた。
 後悔と不安は先輩のおかげで和らぎ、その優しさに甘えて話を続けることにする。
「先輩、わたしはずっと読書しかしてきてないんです。本はたくさんあって、どんなに読み続けても追いつかなくて。友達を作って遊んだり話している間にどれだけの本が読めるんだろうと思ったら……勿体無い気がして、いつも一人ぼっちなんです。だから今の状況を楽しんでる自分が不思議で……今日は、勿体無いとか気にしたことなかったので……。先輩はどうですか?」
 話し終えて、何を言ってるんだ? と自分でツッコミを入れた。
 だって、そんなの人それぞれで片付く話で、何が正しいとか間違っているとか、そんなものは存在しない。そんな曖昧なものだったからこそ人の意見が聞きたかったのかもしれないけれど、今日の放課後接触したばかりの人間に聞くようなことだろうか? というより、話の流れ的に唐突過ぎる話題だ。
 やっぱり後悔で落ち着いたこの一件に、考え込む先輩を見ながらそう思う。
「あ、すいません、今のなしで」
「俺にはできないな」
 思わず口にした言葉を、今度は先輩が遮るように話しかけてきた。
 それはわたしの言葉の否定で、少なからずショックを受ける。
「俺は友達をなくしてまで読書なんてできない。誰かと接することで世界は広がって、本以外の知識を得ることだってできる。そんな素晴らしい機会を逃してしまうのは、それこそ勿体無いと思うよ? 気持ちは分からないでもないけどね」
 苦笑を浮かべつつ話をしてくれる先輩の意見は、世界を狭めてきたわたしにとっては新鮮なものだった。
 きっとこの世では当たり前のことのはずなのに、その当たり前がよく理解できていないわたしには……先輩の世界は眩しすぎる。
「単純に俺が一人を好まないからかもしれないけどね。でも読書は一人の世界だから、放課後の一人は割り切って過ごしてきた。でもやっぱりそこでも共通の話が出来る友達がほしいとは思っててね……だから図書室でよく見かけた立花さんに声をかけたんだよ」
 優しい笑顔に引き込まれ、とくんと心臓が揺れる。
 ずっと一人で図書室に通っていたとばかり思っていたわたしには、あまりにも先輩の言葉が衝撃だった。
「放課後はいつも一人で帰っていた。だけど今日は一緒に帰れる人がいて、俺はとっても嬉しいよ」
 にっこりと笑う先輩に、確実に自分が築き上げてきた世界が揺らいでいることに気付く。
 帰り道なんて一人でも十分だと思っていたのに……先輩が言葉にすると、一人は寂しいように思う。


 ――ちゃんと友達は作っとけ。それは読書よりも価値のある存在になるから。いつかいてくれて本当に良かったって思う時が来るさ。

 お兄ちゃんが言っていた。
 あまりにも読書しかせず、友達がろくにいないことがバレてしまった時のこと。
 心配性で家族の中では有名なお兄ちゃんが、本を読んでいる最中に声をかけてきたことは覚えている。去年の話だ。
 何故そんなことを突然話し出すのかと不思議で、わたしにとっては今までずっと続けていたことで、それを今更忠告するのはおかしいと思っていた。
 お兄ちゃんが教師になるから、何かに目覚めてしまったのかどうかは分からない。今更何かが変わるわけがないと分かっていたから、適当に聞き流していた記憶はある。

 そんなことを思い出したのは、この状況がイレギュラーだったからだ。
 誰かと楽しく会話して、一緒に下校までして……少なくとも高校生になってからはそんなことはなかったはずだった。
「俺は読むスピードが速いから、読書時間が短くてもある程度読めるって思っているし、そうすることによって他人と接する時間が生まれる。大事なことは一つとは限らないからね。欲張りな俺には、一つに固執するなんてできないんだ。たくさんのことを、少しでも多く吸収して自分の一部にしたい」
 先輩の優しい声色は、わたしを別世界へ誘うような甘い言葉のように聞こえる。
 ああ、ぐらぐらだ。
 ずっと築き上げた世界も、心も、意思も……断固動じなかったわたしがここまで揺らぐなんて、想定外にも程がある。
 だから今日は、やっぱりいつもと違う一日になってしまった。

「読書以外の世界も楽しいよ。もしできるなら、俺はこれからも立花さんと仲良くなりたいと思ってる」

 その一言が決め手となった。
 読書をするのに時間以外のどんな犠牲が必要かなんて……ただの趣味に犠牲を作る方がどうかしている。
 そうすることで読書の時間が減ったとしても、今度は他人から本に載っていないことを教えてもらうことが出来るだろう。
 きっと高校生の今しか出来ない事だって……あるはずなんだ。
「なんてね。こんな感じでよかったかな?」
 おどけたように、わたしへの質問の答えに対しての感想を求めてきた先輩は、やっぱり素敵な先輩という印象を揺るがせなかった。
「ありがとうございます……十分です」
 胸がいっぱいになってしまって、上手く言葉にできないのがもどかしい。残念ながらわたしは、自分の世界の変化を追いかけることで精一杯だったからだ。
 これからどうしていけばいいのか、何が始まって、どう変化していくのか。
 全てが未知数で包まれた未来は、やっぱり何を決心しても変化していくもの。
 きっと昨日のわたしは、絶対にこんなことが訪れるなんて疑いもしなかっただろう。……それがちょっとだけおかしい。
「じゃあ、俺と友達になってくれる? 友達じゃなくても、また話が出来たら嬉しいな」
 わたしがどんな態度を取ったとしても動じない先輩に、前へ進む一歩を踏み出す覚悟を決める。
「先輩、わたしも友達になりたいです。よろしくお願いします」
 頭を下げ、右手を前に差し出す。
 まるで告白やプロポーズをしているような気がしてきて、また間違えたのかと恥ずかしくなってくる。
「よろしくね」
 だけどすぐに右手に温もりが飛び込んできて、顔を上げれば嬉しそうな先輩の顔が目に映った。
 友達。
 その響きが妙にくすぐったいけれど、先輩と握手を交わしながら友人関係に発展できたのは嬉しかった。
「はい!」
 元気よく返事をし、また一つ笑みを零す。
 それが読書では絶対に味わえない喜びなのかと気付いたら、またそれも嬉しくて笑った。

 そして、その日……何かに落ちる音がした。
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